「東大」の地位を脅かす「幻の移転案」その顛末 戦前の「東大一極集中」は東京にあったから?

5/22 13:01 配信

東洋経済オンライン

多様な生き方や考え方が認められる世の中に変化しつつあるとはいえ、いまだ日本社会では無意識のうちに学歴が高いか、低いかでその人の価値を見定める傾向があります。特に「東大」に対しては、誰もが一目をおく存在であることに変わりはないようです。
歴史的には、国家のエリート養成機関として設立された東大に対抗し、独自の教育で東大より優位に立とうとする大学もありました。それでも東大の絶対的地位がさほど揺るがなかった理由について、甲南大学法学部教授の尾原宏之氏は著書『「反・東大」の思想史』で、さまざまな理由や経緯があるものの、「東大が東京にある」ゆえの一極集中がこの状況を形成する一つのきっかけになったのではないか、と考察しています。

本記事では同書より一部を抜粋、再編集し、幻に終わった田中角栄の「東大移転論」などを振り返ります。

■哲学者が説いた東大一極集中の論理

 昭和の戦前期、全国の旧制高校生の進路志望は東大一極集中の様相を呈していた。1936(昭和11)年、哲学者の三木清はその原因について根本的な考察を加えている。

 三木は「学生の東大集中には十分の理由がある」という。だがその理由は、東大の整った設備やすぐれた教授陣、教育内容では必ずしもない。高校生が教育内容に関心を持っているかどうかは、実のところ怪しい。

 東大に人気が集中するのは、「今日の日本では凡(すべ)ての文化が殆(ほとん)ど東京に集中されてをり、文化生活の豊富さにおいて他の都市は東京とは全く比較にならぬ」からだ、というのが当時の三木の見立てであった。

 娯楽や遊興の豊富さといった卑近な話だけではない。勉学についても、東京は「知的文化的生活」を提供してくれる唯一の都市だった。

 「学生は単に学校でのみ学ぶものでなく、また社会から学ぶものであり、そして東京の如きは都市そのものが大学である」

 入手できる書物、鑑賞できる芸術作品、そして、その気になればたやすく接触できる知識人・文化人の数を見ても明らかだったのだろう。

 一方、「地方には殆ど文化都市といふものが存在しない」と三木は指摘している。「東大集中」は、政治・行政だけでなく文化も東京に一極集中したことの結果だというのだ。

 「東大を出ることと東京にゐること」は卒業後の就職においても有利なので、浪人してもそれを上回るメリットがあった。

■関東大震災と東大の危機

 1923年に発生した関東大震災では、東大にも大きな被害があった。工学部や医学部の実験室などから出た火が燃え移り、震害を含めて本郷キャンパスの建物の3分の1が失われたという。

 震災直後、東大は研究・教育機関として当面立ちなおれないのではないか、という見方が広がった。

 とりあえず学生をほかの帝大に転学させるアイディアも浮上し、九州大では東大工学部の学生を引き取る案が協議された。

 東大当局も乗り気で、転学希望者について、東大に在籍したまま京大や東北大で勉学を続けられるよう便宜を図る決定を下した。

 ところが、転学希望者はほとんどいなかったようである。『東京朝日新聞』は、「焼けても恋しい 東京の帝大 地方の大学へ転校者尠(すくな)し」という記事を掲載し、転学希望がごく少数にとどまったことを報じている。

 75万冊の図書館蔵書が燃え、実験設備が焼けてもなお学生は東京、東大にいることを選んだということだろう。三木が東大一極集中の背後に見た東京の魅力の強さの一例といえる。

 東大側もこの点には自覚的だった。関東大震災の後、この際東大を郊外に移転させる案が浮上したが、学内からの強い反対もあり、頓挫した。

 文学部教授の松本亦太郎によれば、東大の指導的役割は東京都心に位置することによって維持されている、というのが大きな反対理由である。

 「伯林(ベルリン)に伯林大学の光があり、巴里(パリ)にソルボーン(ソルボンヌ)の光が輝く如く、東京に東京帝国大学の光が無ければならない」と移転反対者はいう。

 なにより、東大が郊外に去った隙をついて私学が躍進する懸念があった。裏を返せば、東大に打撃を与えようと思うならば、まず東京都心から引き離すのが有力策になりうる、ということでもある。

■田中角栄の“東大移転論”

 東大の地位を脅かしかねない都心からの移転案は、高度経済成長期にも浮上した。

 戦後の東大移転案というと、70年代後半に登場した米軍立川基地跡地への理系学部などの移転案(頓挫)が知られるが、それ以前に田中角栄が主唱していたことは意外に忘れられた事実である。

 池田勇人内閣で大蔵大臣を務めていた田中は、1964年の参議院大蔵委員会で、「東京や大阪にある大学」を「理想的な環境」に移転させるアイディアを語った。

 「大蔵省の諸君は大体東大の出身者ですから、自分たちの学校を移そうなんていう気にならぬ」ので田中が独自試算し、東大移転に最低600億円、世界的な大学にするためには1000億円かかるとの見方を示した。この年設置される国立学校特別会計を推進する理由の中で述べられたものである。

 田中の東大移転案は新聞各紙で報道されたが、大蔵・文部の事務当局は、予算が膨大な上に東大側が移転を望んでいないとして打ち消しにかかった。

 だが田中は手を緩めず、東京の過密解消のための中央省庁移転を検討する内閣の方針に乗じて、東大などの地方移転をぶち上げ、具体案を検討することが閣議で了承される。

 翌1965年、佐藤栄作内閣でも蔵相に留任した田中は、学校の地方移転に国からの借入金を認める国立学校特別会計法改正案の国会提出の際、記者会見で「東京大学移転の機が熟した」と語った。

 田中は、大河内一男東大総長が文部大臣を訪ねて移転賛成の意思を示したこと(愛知揆一文相は「“移転のムード”だけはできた」と発言)、すでに山梨県では富士山の裾野3300万平方メートルに東大を誘致する動きがあることを示し、本郷は医学部だけ残して総合医療センターにするべき、などと語った。

 実のところ東大側は、過密解消を目的とした移転には反対であり、全面移転も考えていなかった。

 田中の前のめりは、用地に絡む思惑もあったのかもしれないが、東大移転が田中自身の提唱する「列島改造論」的構想の一部であることが大きい。

■構想の背景に「日本列島改造論」

 のちに刊行される『日本列島改造論』は、大都市の大学が「名声と人材」を集める一方で地方大学が停滞していること、東京への大学集中が人口集中の一因であることを指摘した。

 そこで、東京の大学を「地方の環境のよい都市」に分散するとともに、まったく新しい「学園都市」も建設する。

 田中は、最新学術情報へのアクセス環境、教授が長く定着できる居住環境などを整備すれば、地方小都市であっても「世界的な水準の教育の場」になりうると説いた。

 同時に、現在の地方大学を「特色のある大学」に変える必要もある。その地方大学でしか研究できない分野があれば、研究者や学生はイヤでも東京を離れて地方に移らざるを得ない。

 太平洋ベルト地帯の大都市に集中した産業と人口を地方に分散させ、高速道路・高速鉄道のネットワークでつなぐ「列島改造論」そのままの大学改革論である。

 1985年、脳梗塞で倒れる7日前のインタビューでも、田中はかつての東大移転論を蒸し返した(この時は「富士山の麓はうるさいから、赤城山麓でもいい」と発言)。

 本郷の跡地を医療センターにする案も以前と同じで、「そのときになれば全部テレビで脳外科の手術ができるようになります」とも語っている。本人の前途を考えても含蓄(がんちく)のある発言である。

 田中の東大移転論は、大学の自治が重んじられる時代には実現困難である。当時の文部省も東大当局も、移転には東大側の自主的な立場、自主的な拡充計画が不可欠と考えていた。

 だが、もし今後東京で巨大災害が発生するなどして、停滞した首都機能移転論が再び盛り上がれば、東大はどうなるだろうか、という想像を喚起する話ではある。

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最終更新:5/22(水) 13:01

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