なぜ大谷翔平はゴミ拾いもトイレ掃除も嫌がらないのか…高校時代から守り続けている「佐々木監督の教え」

4/18 9:17 配信

プレジデントオンライン

大谷翔平選手はグラウンドに出たとき、しゃがんでゴミを拾うことがある。また高校時代には、寮のトイレ掃除を文句一つ言わずにやっていたという。なぜそうするのか。ジャーナリストの桑原晃弥さんの書籍『圧倒的な力で世界を切り拓く 大谷翔平の言葉』(リベラル社)より一部を紹介する――。

■「人間性」も必要だと考えてきた

 真面目にやってきた人間が「てっぺん」にいくべきだと思っています。(『道ひらく、海わたる 大谷翔平の素顔』扶桑社文庫)

 大谷翔平が花巻東高校時代に作成していた「目標達成シート」。その中央には「ドラフト18球団」と書かれていました。

 これ自体はいかにもプロ野球を目指す高校生らしいものですが、大谷はそのために何が必要かを考えます。

 挙げられた要素の中には「体づくり」や「メンタル」だけでなく、意外にも「人間性」や「運」が書き込まれていました。

 世の中にはスポーツや芸能などに秀でていれば人間性は関係ないと考える人もいますが、大谷はそのようには考えていなかったのです。

■「模範となる人物」を目指してきた

 トップに立つ人間、成果を上げる人間は、模範となる人物、真面目にやってきた人間であるべきで、自分もそうありたいというのが大谷の考え方です。

 だからこそ、大谷は今でもグラウンドを歩いているときにしゃがんでゴミを拾うことがあります。高校時代は、佐々木監督から言われた「球場の一番高いマウンドに立つ人間は、みんなが一番嫌がる仕事をしなさい」という教えを守り、寮のトイレ掃除も文句一つ言わずにやっていました。

 表の努力だけでなく、裏の努力も惜しまない。

 大谷は常に「てっぺん」を目指すにふさわしい人間であろうとしているのです。

■「権利と義務」を教えられてきた

 プロ野球選手としてやらなきゃいけないことをやる。だからこそ、自分にしかできないプレーをする権利が出てくる。(『大谷翔平 野球翔年Ⅰ 日本編2013-2018』文藝春秋)

 大谷翔平は花巻東高校で佐々木洋監督からさまざまな影響を受け、その教えをプロになってからも大切にしています。

 佐々木が部員たちに教えている言葉の一つに「権利と義務」があります。

 バッターは、ボールを打つと一塁まで走る「権利」を手にするが、同時に全力で走る「義務」も負うことになる――。

 これが佐々木の教えでした。

 同校の野球部には、大谷が在籍していた当時、100人超の選手が所属していました。甲子園でベンチに入れるのはスタメン9人を含む18人、それ以外の選手はスタンドで応援します。

■「ファンに支えられている」意識を持つべき

 バッターに権利と義務が生まれる理由は、ベンチに入れない選手に対して、バッターが全力で走ることによって初めてその思いを伝えられるからです。

 大谷は「プロ野球選手としてもそこは大事」と考えています。

 プロである以上、試合中はもちろん、練習や普段の生活でも、たくさんのファンに支えられている(見られている)という意識を持ち、やるべきことを全力でやる義務がある。

 そして、その義務を果たすからこそ「自分にしかできないプレーをする権利」が生まれる。それが大谷の考え方なのです。

■「翔平はこんなもんじゃない。もう一度甲子園に連れて行くぞ」

 野球は一人じゃ勝てない。全員が絡み合い、出塁も走塁も一つのプレーに何人かが協力する。(中略)そこに自分の力を加えたい。(『大谷翔平 挑戦』岩手日報社)

 大谷翔平は2年生の夏と、3年生になる春に甲子園に出場しています。しかし、速い球を投げることはできても、勝てる投手にはなれませんでした。

 夏の大会前に、左太もも裏の付け根付近の肉離れで故障。1回戦で帝京高校と対戦したときも、4回途中から登板して150キロを記録したものの、足の痛みから立ち投げのような状態になり、敗れています。

 当初の肉離れの診断は「骨端線損傷」とわかり、安静が必要となりました。

 花巻東校はエースが登板できない危機に陥りますが、チームメイトが「翔平はこんなもんじゃない。もう一度甲子園に連れて行くぞ」を合言葉に結束します。

 その結果、秋の東北大会でベスト4に入り、春のセンバツの出場を勝ち取ったのです。

■チームの力を結集して初めて勝てる

 当時、大谷の名は全国に知られ始めており、多くのマスコミが大谷目当てに取材に押しかけました。

 大谷はインタビューにチームメイトの名前を出しながら答えています。

 そこには、「野球は一人では勝てない」「全員が一つのプレーに協力するものだ」という強い思いが込められていました。

 大谷にとって、野球はチームの力を結集して初めて勝てるものなのです。

■クリスマスにも練習に励んでいた

 何が正しいのかを考えて行動できる人がオトナだと思いますし、(中略)制限をかけて行動することは大事なのかなと思っています。(『大谷翔平 野球翔年Ⅰ 日本編2013-2018』文藝春秋)

 野球選手というと、かつては夜遅くまで飲み歩くようなイメージがありましたが、大谷翔平は日本にいた頃からほとんど外食もせず、飲み歩くこともしませんでした。

 先輩に誘われれば、たまにはつきあいで軽く飲むことはあったようですが、せっかく時間をかけてトレーニングをしたにもかかわらず、それが1、2杯のお酒で台なしになることを警戒していたようです。

 クリスマスなど世の中が浮かれているときも練習に励んでいたといいますから、大谷の厳格さは徹底しています。

■「楽しいより正しいで行動しなさい」

 なぜそこまでストイックになれるのでしょうか?

 花巻東高校時代、大谷は監督の佐々木洋から「楽しいより正しいで行動しなさい」と教えられています。

 外食もお酒も遊びに行くことも楽しいことなのに、それらを我慢してきつい練習に取り組むのはしんどいでしょう。

 けれども、その際、大谷は「何が正しいか」という基準で選択をします。

 成長するためには「何が正しいか」を自問して、楽しいことをやろうとする自分に制限をかける。それができるのが「オトナ」なのだ。

 大谷はそんなふうに考えているのです。

■強い衝撃を与えた「初球先頭打者ホームラン」

 高校の頃から言われてきたのは、期待は応えるものじゃなくて〝超えるものだ〟ということ。監督が考える、そのもう1つ上を行けたらいいんじゃないかな。(『大谷翔平 野球翔年Ⅰ 日本編2013-2018』文藝春秋)

 日本ハム時代の大谷翔平は、監督の栗山英樹が「この試合に懸けている」と察して、監督の想像よりさらに上の結果を出すことが多かった選手です。

 2016年7月、優勝を争うソフトバンクとの3連戦で栗山監督は大谷を「1番・ピッチャー」で起用します。

 相手投手へのプレッシャーを考えた判断でしたが、大谷はプレイボールからわずか5秒後にホームランを放ちます。

 プロ野球史上初となるピッチャーによる初球先頭打者ホームランですが、それは栗山監督を含め、誰もが想像しなかったものであり、すべての観客に強い衝撃を与えました。

 この戦いを経て、シーズン後半を迎えた日本ハムは、勢いを維持したままリーグを制覇し、日本一を手にすることになったのです。

■「期待は応えるものじゃなくて超えるもの」

 花巻東高校時代から、大谷は監督の佐々木洋から言われた「期待は応えるものじゃなくて超えるもの」という教えを大切にしてきました。

 もちろん実力を備えているからこそできることですが、「スターはみんなの期待に応える存在。スーパースターの条件はその期待を超えること」という長嶋茂雄の言葉通り、大谷にはスーパースターの条件が備わっているのです。

■ダルビッシュ有と同じ背番号を付けた理由

 僕が新たな気持ちで(中略)17にしようかなと思っただけなので、特に意味があるということはない。(『大谷翔平 挑戦』岩手日報社)

 大谷翔平が日本ハム時代につけていた背番号は「11」です。それはダルビッシュ有が日本ハム時代につけていた背番号であるだけに、入団時からいかに大谷が期待されていたかがよくわかります。

 しかし、エンゼルスでは「11」は永久欠番だったため、代わりに大谷が選んだのは「17」でした。

 理由を聞かれた大谷は、「空いていたら『11』でもよかったんですけど、新たな気持ちというか。『11』は一応、一つの区切りとして自分の中では終わったのかなあ」と答えています。

■菊池雄星も同じ背番号をつけていた

 ただ、選んだ「17」が花巻東高校でつけていたことのある背番号だったことから、関連を指摘する声もありました。

 高校に入学したときの大谷の背番号は1年春が18で、1年夏が17、以後は1番です。同校で17は次世代のエース候補がつける番号で、菊池雄星も1年時には17をつけていました。

 そのため、佐々木洋監督は「大谷もこの番号をつけて成長がスタートしたことを忘れていないのだろうと思い、嬉しかった」と喜びを口にしています。

 大谷は17を「特に意味はない」と話していますが、心の片隅には、高校時代、背番号17をつけて鍛錬したことを意識していたのかもしれません。

■「夢を捨てる」必要はない

 自分がどこまでできるかということに関しては、制限はいらない。(『大谷翔平 野球翔年Ⅰ 日本編2013-2018』文藝春秋)

 子どもから大人になるにつれ、人は自分の限界を知り、より現実的な選択をするようになります。

 それは「夢を捨てる」ことでもあるわけですが、大谷翔平は「安易に、自分はここまでしかできないのかなと、憶測だけで制限をかけてしまうのはムダなことだと思います」と言い切っています。

 大谷が野球を始めたのは小学校2年生のときですが、以来、自信を持って「僕はプロ野球選手になるんだ」と言い続けていました。

■信じれば、たいていのことは実現できる

 プロ野球選手にはなれないんじゃないかと思ったことは、一度もなかったといいます。

 高校時代には球速160キロの目標を掲げて見事に達成し、プロ野球入団時には二刀流での挑戦を明言しました。

 また、プロ2年目にはベーブ・ルース以来の「2桁勝利、2桁本塁打」を達成し、4年目にはチームを日本一に導いてMVPも獲得しています。そして念願のメジャーリーグでも新人王やMVPを獲得しました。

 「『どこまでできるか』に関しては自分から制限をかけることはしない。どこまででもできることがあると信じれば、たいていのことは実現できる」

 大谷は本気でそう信じているのです。



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桑原 晃弥(くわばら・てるや)
経済・経営ジャーナリスト
1956年、広島県生まれ。経済・経営ジャーナリスト。慶應義塾大学卒。業界紙記者などを経てフリージャーナリストとして独立。トヨタ式の普及で有名な若松義人氏の会社の顧問として、トヨタ式の実践現場や、大野耐一氏直系のトヨタマンを幅広く取材、トヨタ式の書籍やテキストなどの制作を主導した。著書に、『スティーブ・ジョブズ名語録』(PHP研究所)、『ウォーレン・バフェットの「仕事と人生を豊かにする8つの哲学」』『トヨタ式5W1H思考』(以上、KADOKAWA)などがある。
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最終更新:4/18(木) 9:17

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