恋川春町に、朋誠堂喜三二…看板作家たちが次々去り、ピンチに陥った《蔦屋重三郎》のその後

4/26 15:02 配信

東洋経済オンライン

今年の大河ドラマ『べらぼう 〜蔦重栄華乃夢噺〜』は横浜流星さんが主演を務めます。今回は恋川春町や、朋誠堂喜三二といった看板戯作者たちを失った蔦屋重三郎のその後を解説します。
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■看板作家が次々いなくなる

 蔦屋から幕府政治批判・風刺の黄表紙を刊行した戯作者・朋誠堂喜三二と恋川春町。

 『文武二道万石通』の著者・喜三二は、本名を平沢常富と言い、秋田久保田藩の留守居役にまでなった武士でした。藩主の佐竹氏から威圧を受けたという喜三二は、戯作の筆を折り、以後は、狂歌・狂詩を詠むという無難な道に進みます。

 春町は本名を倉橋格(通称・寿平)と言い、駿河小島藩(1万石)松平氏に仕える武士。『悦贔屓蝦夷押領』や『鸚鵡返文武二道』の著者ですが、老中・松平定信から呼び出しを受けるも、病を理由としてこれを拒否。それから約3カ月後の寛政元年(1789)7月に死去してしまいます。病死でしたが、余りにも突然の死ということで、自死説も流布したほどです。

 蔦屋から書籍を刊行し、大ヒットを飛ばした戯作者たちが、筆を折る、あるいは死去してしまう。蔦屋重三郎にとって、交流のあった彼らに起きた出来事は衝撃だったでしょう。

 しかし、書籍の出版という「商売」は続けていかねばなりません。そんな重三郎が頼みにしたのが、浮世絵師・戯作者の山東京伝だったと言われています。

 京伝というのは戯作号で、本名は、岩瀬醒。宝暦11年(1761)、江戸深川の質屋・伊勢屋伝左衛門の長男として生まれました。

 京伝は若くして、浮世絵に関心を持ち、浮世絵師の北尾重政の弟子となります。それに伴い、京伝は「北尾政演」を名乗り、作画活動を行います。

 京伝の才能は浮世絵だけにとどまらず、黄表紙・洒落本・狂歌の執筆・制作にまで及びました。1778年には、黄表紙『開帳利益札遊合』に挿絵を描き、デビューした京伝。その翌年以降、京伝は、鶴屋・松村・いせ次・岩戸屋といった有名・老舗版元から書籍を刊行しています。それだけ、京伝に才能があり、その才能に多くの版元が目を付けたということです。

 町人出身のマルチ文化人・京伝の誕生です。その京伝に重三郎が目を付けないはずはなく、安永9年(1780)頃、2人は接点を持ったと言われています。

 ところが、その頃にはまだ鶴屋と京伝との関係のほうが強かったようで、鶴屋は毎年のように、京伝の黄表紙を刊行していました。京伝は鶴屋の「準専属作家」と評される状態だったのです。

■山東京伝の才能を買っていた蔦重

 一方、重三郎は、当初、浮世絵師としての京伝の才能を買っていたようです。黄表紙などの執筆よりも、絵を多く描かせていたことから、そのことがわかります。

 重三郎も、戯作者としての京伝の資質はある程度は理解していたけれども、鶴屋らが戯作で京伝を売り出すならば、うち(蔦屋)は作画(浮世絵)で売り出すという「差別化」の想いもあったのかもしれません。

 天明2年(1782)、京伝は『御存商売物』という黄表紙を鶴屋から刊行しますが、これが、天明期を代表する文人・大田南畝に認められます。これにより、京伝は戯作者として、より注目を集めるようになります。

 一方で、同年に重三郎と京伝は、吉原で遊んだりもしています。そして、天明5年(1785)、京伝は、蔦屋から黄表紙を刊行しています。『江戸生艶気樺焼』は、その1つであり、同書は「黄表紙の代表的傑作」と現代においても評されています。

 『江戸生艶気樺焼』は、金持ちの一人息子・艶二郎を主人公としています。艶二郎は、不細工であったものの、自惚れ強く、また悪友に唆されたこともあり、色男の評判を高めたいと考えます(ちなみに、艶二郎の鼻は獅子鼻で、目立って描かれています)。

 芸者に50両を与えて、艶二郎に惚れたと家に駆け込ませると、それを瓦版で売り込んだり、吉原の遊女と狂言心中を行うなどの「売名行為」に奔走した艶二郎。

 しかし、それらはことごとく、失敗に終わります。艶二郎は、情死の真似事の最中に、泥棒に身ぐるみ剥がされるのです。

 実は、それは艶二郎の父と番頭が仕組んだ「狂言」でした。艶二郎を改心させるために、少し手荒な所業に出たのです。

 そのことを知った艶二郎は、とうとう改心するというのが『江戸生艶気樺焼』の概略です。京伝がこうした作品を書けたのは、吉原に出入りしていたことが大きいでしょう。

■山東京伝は「希望の星」だった

 さて、天明5年、蔦屋は京伝の黄表紙を4作品も刊行しています。鶴屋は2作品だったことを考えれば、重三郎と京伝との、吉原でのこれまでの交歓が実を結んだ結果と言えるのかもしれません。

 京伝の才能に目を付けた重三郎は、彼と交流を重ね、ついには、鶴屋を抜くほど著作を執筆してもらえるようになったのです。

 冒頭に述べたように、喜三二、春町という看板作家を失ったことは、重三郎にとって、打撃だったでしょうが、重三郎の手中には、京伝というマルチ文化人がおりました。

 寛政の改革が進行するなかでも、京伝は著作を次々と刊行していくことになりますが、重三郎にとって、京伝はまさに「希望の星」だったのではないでしょうか。

 (主要参考引用文献一覧)
・松木寛『蔦屋重三郎』(講談社、2002)
・鈴木俊幸『蔦屋重三郎』(平凡社、2024)

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最終更新:4/26(土) 15:02

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