カレッタ汐留のゴーストタウン化には予兆があった? 湾岸エリアの開発史《楽待新聞》

3/26 19:00 配信

不動産投資の楽待

東京都港区に所在する大規模複合施設「カレッタ汐留」が「ゴーストタウン化している」と話題だ。

カレッタ汐留は、大手広告代理店の「電通」が本社機能を置き、低高層階にはレストランやカフェ、展望台などがある。

2002年のオープン直後は、近隣で働くオフィスワーカーのみならず、多くの来街者を集めた。それから20年以上が経過した現在、カレッタ汐留がまさか「ゴーストタウン化している」と注目されるとは誰も思わなかったことだろう。

しかし、その予兆はあった。「お台場」が若者の街からオフィスと住宅街が混在する落ち着いた街へと変貌したことだ。

汐留も台場も、明治期から現在に至るまでの約150年間の歴史において、東京が一貫して推進してきた湾岸エリアの開発事業という部分で共通している。

今回は、カレッタ汐留を入口に、東京都が取り組んできた湾岸エリアの開発史に迫ってみたい。

■一度は幕を下ろした「汐留」

「カレッタ汐留」は2002年にオープンした大規模複合施設で、新橋駅から徒歩数分の場所にある。電通本社を核にレストランやカフェ、劇団四季の劇場、「アドミュージアム東京」という広告博物館などが展開されている。

この場所は以前、国鉄の貨物専用駅である「汐留駅」が広がっていた。時代とともに鉄道貨物はトラック輸送へと切り替えられたことで、汐留駅は幕を下ろしたのだった。

広大な貨物駅跡地は都心の一等地にあり、それだけに当時の再開発への期待は高かった。それは、「汐留」という地名が復活したことからも窺える。

一般的に汐留と認識されているエリアの住所は、正確に言えば東新橋や湾岸となっている。「東」と冠されているものの、新橋はサラリーマンの街というイメージが強い。

そのため、差別化の意味でも再開発時には「汐留」が積極的に用いられた。建物のみならず駅名やコンビニなどの店名にも「汐留」が氾濫した。

開発の期待高まる当時の汐留エリアでは、カレッタ汐留の他にも大型開発が目白押しだった。鳴り物入りでオープンしたカレッタ汐留は、新スポットとして注目を浴びた。

■「お台場」の成り立ち

同じ2000年代初頭、その対岸には「お台場」と呼ばれる繁華街が少しずつ形成され始めていた。

現在、一般的に「お台場」と通称される一帯は、厳密には江東区・品川区・港区の3区にまたがっている。台場は港区の町名だが、隣接する東八潮は品川区、青海や有明は江東区だ。

このようなややこしい区割りになった理由は、同エリアが埋立地だったから。行政関係者や開発関係者はこれら台場一帯の区域を、東京港港湾計画の「13号地」と呼んでいる。

バブル期に次々と開発されていった東京湾の埋立地。この中でもっとも成功したのが13号地(お台場)で、その次は東京ビッグサイトなどが立地する10号地(有明)と受け止められている。

ちなみに、汐留が「◯号地」と呼ばれることがないのは、江戸時代から埋め立てが始まった地域のためだ。

13号地(お台場)は繁華街として群を抜く発展を遂げたが、これには複合的な要因が考えられる。その中でも、東京臨海新交通臨海線(ゆりかもめ)と東京臨海高速鉄道りんかい線が多大な貢献をしたことは間違いない。

特にゆりかもめは当時、都心部から13号地へアクセスできる唯一の鉄道路線だったこともあり、13号地を繁栄に導いた立役者と言っても過言ではない存在だった。

ゆりかもめは、1995年に新橋駅(仮駅)~有明駅で開業。約11.9キロメートルの路線は、新交通システムと呼ばれる。新交通の定義は曖昧で、ゆりかもめをモノレールとも勘違いしている人もいるかもしれないが、ゴムタイヤで走行しているため厳密にはモノレールではない。

ゆりかもめ開業の翌1996年には、球体展望台が特徴的なフジテレビ本社が完成。

それ以前の13号地には、船の科学館(1974年開館)があるぐらいで、多くの来街者を引き寄せるような施設はなかった。当時の13号地は、お世辞にも繁華街といえるような場所ではなかったのだ。

■都市博の中止で狂った開発計画

そこで、東京都は13号地の開発を促進させるべく、世界都市博覧会(都市博)を企画。大手企業のパビリオンを展開し、都市博終了後の跡地は大規模な開発が行われる予定になっていた。

都市博を立案した鈴木俊一都知事(当時)は、1979年の就任直後から、都市問題として浮上していた東京都心部の過密解消に取り組んでいた。当時の都庁舎は有楽町にあったのだが、行政機能を分散するべく、1991年に西新宿へと移転された。

しかし、それだけで都心部の過密が解消されるはずがなく、鈴木都知事は企業のオフィス分散も推進した。この施策の1つとして、東京の核となる副都心を指定。13号地を含む湾岸エリアは「臨海副都心」と名付けられた。

この臨海副都心には、1990年代から勃興する情報産業ビジネスを集積することが企図された。都市博の開催が、臨海副都心の開発の第一歩になるはずだった。

ところが、その矢先にバブルが崩壊。日本社会は金の無駄遣いを改める風潮が強くなり、都市博への批判も強まった。鈴木都知事は4期16年の実績を残して知事を勇退。後任を決める1995年の都知事選で当選した青島幸男氏が公約に掲げていたこともあり、その後に都市博の中止が決定された。

こうした経緯をたどり、13号地の開発計画は大幅に狂った。ゆりかもめ開業と青島都知事が誕生した1995年は、まさに東京の湾岸開発のターニングポイントとなった。

■大型商業施設を立て続けにオープン

13号地の開発計画に大きな変更があったことで、ゆりかもめでつながる汐留エリアの開発計画にも狂いが生じる。

1998年時点の臨海副都心エリアの居住人口は、わずか3150人。オフィスワーカーも多いとは言えなかった。これは、都市博が中止になり、開発計画が白紙に戻されたことと無縁ではないだろう。

13号地への足を担うゆりかもめとりんかい線は、共に都市博を訪れる人の利用を見込んでいた。都市博の開催が撤回されたことの打撃は大きい。

また、当時のゆりかもめの新橋駅は、JR新橋駅から徒歩10分ほどの距離にあり、その不便さが利用者を遠ざけた。そこで、ゆりかもめの新橋駅は、2001年にJR新橋駅寄りの現在地へと移転。乗り換えの利便性が向上し、13号地に人が足を向けるようになった。

生活インフラが整備されているとは言い難い13号地には、住宅地としての開発は期待できない。都は、大型商業施設の開発に希望を見出すしかなかった。

その嚆矢となったのは、1996年に開業した「デックス東京ビーチ」だ。続いて1999年に「パレットタウン」がオープン。パレットタウン内には同年、商業施設「ヴィーナスフォート」が開業した(2022年に閉館・解体)。

さらに2000年には「アクアシティお台場」が、2012年には「ダイバーシティー東京」がオープン。

傍から見れば、13号地はかなり順調に発展を遂げているように見えるかもしれないが、波瀾万丈の歴史が埋もれているのだ。

■タワマン建設ラッシュになった江東区

13号地の開発に一定のメドをつけた東京都は、別の湾岸エリアへと開発の軸足を移していく。それが、湾岸エリアながらも、より都心に近い江東区豊洲だった。

2003年には、江東区豊洲に「アーバンドッグららぽーと豊洲」がオープン。ここは「5号地」と呼ばれるエリアで、かつて石川島播磨重工業(現・IHI)の工場が立地していた。工場移転に伴い、跡地は大型商業施設へと姿を変えた。

同施設が完成したことにより、豊洲駅一帯はファミリー世帯をターゲットにしたタワーマンションが増えていくことになる。タワマンの増加は急激な人口増を引き起こし、特にファミリー世帯を大きく増やした。

この豊洲の発展と反比例するかのように、お台場は若者の街としての輝きを失っていく。

発展が著しく、大幅な人口増加を続けていた江東区は小中学校の新設が間に合わず、つなぎとして、既存の校舎に仮設校舎を継ぎ足す形で対応した。

しかし、そんな行政の姿勢に対して、デベロッパーはどこ吹く風。というのも、デベロッパーは豊洲のタワマンに入居するファミリー世帯について、子供を公立小中学校に進学させるのではなく、私立に通わせる富裕層と見ていたからだ。

実際に私立へ通わせる親は多かっただろうが、それでも公立の小中学校が不足した。豊洲一帯のタワマン建設ラッシュが収束する気配はなく、江東区は事態を深刻に受け止め、タワマンを抑制する政策を打ち出した。

当時、筆者は江東区役所のいくつかの部署や多くの区議を取材している。彼らは「タワマンが1棟できると人口が500人単位で増える。それが1年に10棟前後もできる。小中学校を新しく建設してもキリがない。タワマンの建設を抑制するしか術がない」と一様に語っていた。

人口増は自治体の税収増にも寄与する。また、ファミリー世帯の流入は地域活性化にも弾みがつく。それだけに、ファミリー世帯による人口増を歓迎しない自治体はない。

それでも、急激な人口増という現象に対して、江東区の関係者たちは嬉しいような困ったような顔をしたことが印象的だった。

現在、江東区が打ち出したタワマン抑制政策は解除されているため、江東区では再びタワマンが増える兆しを見せている。そして、その波は2020年前後から都心に近い中央区へ寄り始めている。

■都は湾岸エリアの発展を推し進める

若者の街としての輝きは失ったものの、13号地(お台場)も豊洲のタワマンラッシュを追い風に、住宅街としての体裁を整えていく。

1990年代後半は、とても人が住むような環境にはなかった13号地だが、少しずつ生活インフラが整い、タワマンが少しずつ増え始めた。

2020年には、臨海副都心エリアの居住人口が1万8000人を突破。コロナ禍でテレワークが進められたこともあり、就業人口は2020年に一時的に減少したが、それでも5万5000人を超える規模を保っている。

街の発展は人口だけ指針で測ることはできないが、13号地と10号地(有明)は着実に発展の道を歩んでいる。都はお台場から豊洲へと開発の軸足を移したが、さらなる湾岸エリアの開発に意欲を見せている。

その筆頭が、東京五輪の選手村跡地に整備された「HARUMI FLAG」だ。HARUMI FLAGは、五輪開催前から商業施設と大規模集合住宅へと生まれ変わることが決まっていた。

HARUMI FLAGを含む湾岸エリア、すなわち中央区晴海へ、都は開発の軸足を移した。その開発に弾みをつけるべく、都は2020年10月から東京BRT(バス高速輸送システム)のプレ運行を開始。2024年2月1日には、HARUMI FLAGの住民や来街者に向けた選手村ルートの運行も開始した。

湾岸エリアは埋立地から発展した街ゆえに、交通利便性の低さが弱点でもあった。東京BRTの運行は、その弱点を補う政策でもある。

都はさらに、2040年代までに東京駅と東京ビッグサイト付近を結ぶ地下鉄の計画(臨海地下鉄)も明らかにした。

物理的な面から考えても、同地下鉄計画を2040年代までに完成することは難しい。それでも都が開業年を含めた計画を発表した背景には、湾岸エリアの開発熱を冷めないようにするという意図が透けて見える。

このように公共交通の充実を測る一方、都は湾岸エリアでイベント開催を頻繁に実施するようになっている。

例えば、13号地と10号地をまたぐシンボルプロムナード公園は、これまでイベントなどに使われることは少なかったのだが、近年は都が使用を推奨し、アートやダンスなど多様なイベントが開催されるようになった。

現在、その立地性や集客力からイベント主催者に人気の日比谷公園が大規模改修中のため、イベントを開催できない状態にある。その代替地として、都はシンボルプロムナード公園を積極的にオススメしているのだ。

シンボルプロムナード公園で多くのイベントが催行されれば、湾岸エリアへの来街者が増える。イベントの帰り道に食事をし、あれこれ買い物をすれば湾岸エリアの商業施設も潤う。

そうなれば、都が目指す湾岸エリアの発展にも寄与する。このような意図から、都はシンボルプロムナード公園をイベントに使用するように推奨しているのだ。

これら一連の都の取り組みは、一時期は若者の街として絶大な光を放っていたお台場に、再び若者を呼び戻そうという意図も感じさせる。

■錯綜する湾岸エリア開発

湾岸エリアの発展史を概観すると、南側の港区台場が若者の街を、東側の江東区豊洲がタワマンによる発展を目指したのに対して、西側の港区新橋はオフィス街による発展を目指したと言える。

汐留にオフィスビルが建ち並ぶ2005年前後、筆者は汐留に隣接する旧浜離宮恩賜庭園の関係者を取材したこともある。

旧浜離宮恩賜庭園は徳川将軍家、そして天皇家ともゆかりがある庭園だ。それゆえ、隣接する汐留エリアに高層ビルが立ち並ぶことは景観的によくない。

だからと言って、東京のビルが高層化していく潮流を止めることはできない。そこで、話し合いの末に「旧浜離宮恩賜庭園に面したビルは外壁を奇抜な色にしない」という決まりが設けられた。

東京の湾岸エリアは、こうした紆余曲折の開発と試行錯誤の連続だった。冒頭で触れたカレッタ汐留も、よりハイグレードなサラリーマンをターゲットに据えた戦略が時代とともに大きくズレたことを物語っている。

汐留は新橋と同様、サラリーマンの街を目指したが、少し差別化を図ったようだ。汐留には日本テレビや電通といった一流企業が並んでいることから、ターゲット層をより高級にしたのだろう。

一方で、汐留の開発が失敗したとも断言できない。なぜなら、このまま衰退していくとも限らないからだ。当然ながら、人々のライフスタイルや社会情勢の変化によって、街は発展することもあれば衰退することもある。

常に街や都市は変化している。その変化を読み取ることは誰にもできない。汐留の巻き返しに期待したいところだ。

小川裕夫/楽待新聞編集部

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最終更新:3/26(火) 19:00

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