上手で流麗な文章が「まるで読まれない」根本原因とは珍しいエピソードよりも熱烈に意識すべきことがある

5/15 13:02 配信

東洋経済オンライン

さまざまな媒体でバズを巻き起こしてきた人気ライターで、テキストサイト「Numeri」の管理人でもあるpato(ぱと)さんですが、文章を書き始めた当初、まったく誰にも読まれなかったときがあるといいます。
そこから脱却するためにもがく中で気づいた書き方の掟を、pato(ぱと)さんの著書『文章で伝えるときいちばん大切なものは、感情である。 読みたくなる文章の書き方29の掟』より一部抜粋・再編集してご紹介します。

■人が「読みたい」と思うのはどんな文章か

 ぼくはかつて、誰にも読まれない文章を発表したことがある。

 それはべつに、「読まれなくていいや」と思って書いたのではない。「きっと読まれるだろう、ワクワク」と思いながら書いたのだ。

 だから、その文章が自分以外たった1人にしか読まれなかったとわかったときは、ひどく落ち込んだものだった。

 世の中には、たくさんの文章が溢れている。誰でも発信できるようになったというけれど、注目してもらえる人なんてごくわずかだ。一般人の他愛のない日常など、たとえば、「5000円を落とした」というたんなる不幸な告白など、誰にも読まれないだろう。まあそれは僕のことなんだけど。

 誤解なきよう言っておきたいのは、こういった日常の事実が悪いということではない。事実は事実でいいのだ。その「5000円落とした」という事実はたいへんに悲しいことで、筆者にとってショックなことだった。けれども、その「事象」自体に希少性はない。つまり価値がないということだ。

 これが、あまり日本人が行ったことがない場所、マニアックな国だとか宇宙ステーションだとかそういった場所で5000円を落としたのなら、その情報には価値がある。だれしも、宇宙ステーションで5000円を落とした話は聞きたい。果たして落ちるのか、浮いたりするんじゃないの、それは落としたという表現でいいの、と興味津々だ。

 また、誰もが知っているような著名人やアイドルなどが「5000円を落とした」と書くことには意味がある。それを読みたいと思う人がたくさんいるからだ。

 ただ、希少な場所でもない、そのへんのよく知らない一般人が「5000円を落とした」ことにあまり情報としての価値はなく、人は読みたいと思わない。

 では、どんなものを読みたいと思うか。

 それは、その人の主義主張が入った文章だ。たんなる感想ではなく、その事象を受けてこの人はなにを伝えたかったのか、それが込められた文章はただの日記とは一線を画する。この伝えたいことの有無こそが、人に読まれるために書かれた文章と、そうでない単なる日記との明白な違いになる。

 どんなに日記のようだったとしても、自分以外に見せようと何らかの意図をもって書かれた場合、そこには何かしら伝えたいことが潜んでいるものだ。ただ、それを書く人が意識していないから、なにも響かない文章になってしまうのだ。

■「綺麗なだけの文字列」を文章とは呼ばない

 一度、原点に立ち返って考えてみよう。なぜ僕らは文章を書くのだろうか。

 それは伝えたいことがあるからだ。人は伝えるために生きている。あらゆるコミュニケーションは伝えるために存在する。それをなるべく多くの人に向けてやろうと試みることが文章を書いて公表することだ。

 だから、書く行為の前には必ず伝えたいことがあるべきなのだ。

 いくら文章が上手で綺麗で流麗であっても、そこに伝えたいことがないのならばそれはただの文字列の羅列でしかない。

 どんな文章だって誰かに何かを伝えるために書かれるはずで、伝えたくて仕方がない、そんな気持ちから文章が発生すべきだ。逆説的に言うと、その気持ちがないのならば文章を書くべきではない。

 さらに逆説的にいうと、業務などで乗り気でない文章をどうしても書かねばならない際も、なんとかしてこの気持ちを起こさせることが重要となる。

■ダメ出しをくらった「コンソメスープ」のコラム

 では、どんな過程を経て伝えたいことを形にしていくべきだろうか。

 少年時代にお金持ちの友人の家に行って大量のグッピーが華麗に泳ぐ巨大水槽に心奪われ、餌をあげてみたいと熱望し、友人の目を盗んで餌をあげたら、それがコンソメの顆粒だった。巨大水槽が一気にコンソメスープみたいになった。こんな事件があったとしよう。

 さて、それからかなりの年月を経て大人になってから、職場の社内報に「コンソメスープ」に関するコラムを書く必要が出てきたのだ。社員が持ち回りで、「悩んだ時にコンソメスープを飲んでほっと一息、救われた」みたいな文章を持ち回りで書くコーナーだ。

 業務だからと書きたくもない文章を書くのは辛いことだけれども、そこに書く意味を見出して書くことが肝要だ。そこで、このグッピーコンソメ事件を書くことにした。

 そこに、このようなおもしろい事件の顚末を書くことで、本当にコンソメスープに救われたのかも疑わしい文章が並ぶ当該コーナーに対するアンチテーゼ的な意味を見出したのだ。

 しかしながら、この文章はその社内報の編集長から強烈なダメ出しをくらった。

 グッピーがかわいそうなことになっているのでクレームがくる。コンソメが悪者のように描かれている、クレームがくる。コンソメとわからない表現で書くべき。そもそもホッと一息的なエピソードが好ましい、などの理由で完膚なきまでに修正され、訳のわからない文章になってしまったのだ。

 「なんらかの魚の水槽になんらかの調味料をいれてしまい、でもなんらかの魚は無事だった。ほっと一息」という出来の悪い暗号みたいなコラムに仕上がってしまったのだ。

■「引き算」で書く文章には限界がある

 このエピソードから伝えたいことが見えてくる。これは、なにもこの社内報に限ったことではなく、そして珍しい話でもなく、多くのメディアで起こっていることだ。

 書いたら炎上しそうなこと、クレームがきそうなこと、それらを過度に避ける傾向が昨今のメディアに存在する。書き手も書いたら面倒なことになりそうなもの、クレームがきそうなもの、炎上しそうなものを無意識に避けて書くようになっている。もはや書き手は書きたいものを書いているのではなく、書きたいものから書けないものを間引いて書いている。引き算で書いているのだ。

 このような主張につなげることで、グッピーの水槽にコンソメを入れたエピソードも、その後の社内報が完膚なきまでに修正されて意味不明な暗号になってしまったことも生きてくる。

 これはBooks&Appsというサイトにある「職場で『わたしのコンソメスープ』という意味不明コラムを書かされた時のこと。」というコラムを書いたときの実際の構成手順だ。

 この文章で最も伝えたいことは「多くの書き手は引き算で書いている」という点だ。それらは当たり前のように蔓延しているけど、それってどうなの?  という問いかけだ。

 これがない場合、グッピーをコンソメスープにしたというおもしろエピソードと、社内報を死ぬほど修正されて意味不明な暗号になったというおもしろエピソードだけが存在する。確かにおもしろいと感じてもらえる可能性はあるけれども、それまで止まりの文章となる。

 逆に、伝えたい事象だけを書いても伝わらない。いきなり「好きなことを書いていない!  もう引き算だ!」と書いても共感してもらえないし、いきなり何いってんだとなる。狂ったかと思われる可能性もある。

■「何を伝えたいか」を強烈に意識する必要がある

 このように、何を伝えたいかから組み立てはじめ、それを補強するエピソードを記述していく、そうすることで伝えたいこともエピソードもどちらも伝わりやすくなるのだ。「とにかく書きたい」で書かれた文章はとにかく伝わりづらい。

 なぜなら書くことでほとんど完結してしまっているからだ。これが「とにかく伝えたい」になると、どう書けば伝わるのかを考えるようになる。

 伝えるためには上手な文章が必要と感じたのなら、練習すればいい。アッと驚く構成が必要と感じたのなら、試行錯誤して作っていけばいい。いきなりそれをするのは難しいかもしれないが、そういった過程を経て作っていれば、伝わりやすい文章はできる。

 文章の練習をいくらしても、たぶん伝わるようにはならない。伝える練習をしなくてはならないのだ。そのためには何を伝えたいかを強烈に意識する必要がある。

 「何を伝えたいか」

 真っ白なメモ帳を前にして、まずそれを書き始めることから始めよう。伝えることは書くことより大切であり、伝えたいことがないなら、べつに無理して書く必要はないのだ。

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最終更新:5/15(水) 14:04

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