京産大から初「国家一種合格」浪人重ねた彼の覚悟 母校初の快挙を成し遂げた彼の驚きの人生

5/12 9:41 配信

東洋経済オンライン

現在、浪人という選択を取る人が20年前の半分になっている。「浪人してでもこういう大学に行きたい!」という人が激減している中で、浪人はどう人を変えるのか。また、浪人したことで何が起きるのか。 自身も9年間にわたる浪人生活を経て早稲田大学の合格を勝ち取った濱井正吾氏が、さまざまな浪人経験者にインタビューをし、その道を選んでよかったことや頑張ることができた理由などを追求していきます。
今回は京都産業大学を卒業後、公務員試験で3浪を経て、京都産業大学出身者で史上初めて、国家一種試験(行政職)に合格して省庁に勤務。2浪で横浜国立大学の大学院に合格後、現在も公務員として勤務を続けているKenjiさんにお話を伺いました。

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■一見浪人とは関係のない人生だが…

 今回お話を伺ったKenjiさんは、現役で京都産業大学に入ってから大学を4年で卒業し、大手企業に勤務した経歴の持ち主です。一見、浪人とはまったく関係ない「ストレートの人生」のようにも思えます。

 しかし、ご本人は「私は5浪です」と言います。いったいどういうことなのでしょうか。

 気になってお話を伺ってみると、大学を出てから国家一種試験に合格するまでに3浪し、その後働きながら大学院受験をして、合格を掴むまでに2浪したという経験の持ち主でした。さらに掘り下げてみると、どうやらKenjiさんは京都産業大学出身者で史上初めて、国家一種試験(行政職)の合格だったそうです。 (※行政職以外はいるそうです)

 今回は、昔も今も東大出身者が大半を占める省庁に入るまでの、彼のすさまじい努力の日々について、伺いました。

 Kenjiさんは、昭和40年代に兵庫県神戸市に生まれました。2歳くらいのときに、芦屋市に引っ越してからは、幼稚園から高校まで芦屋市で暮らしていました。

 「父親は中卒で、大手製鉄会社の工場勤務。母親は旧制高等女学校の出身で、パートの主婦をしていました。子どもの多い時代にうちは一人っ子だったので、外に出て遊ぶといじめられました。だから、小さいころは家に引きこもって本を読んでいましたね。幸い、本はたくさん買ってもらえる家庭だったので、勉強は好きではないですが、読書は好きになりました」

 「読書量と成績はある程度比例する」とも言われるように、公立小学校時代のKenjiさんの成績もかなりよかったそうで、公立中学校に進学してからも、上の下~上の中の成績をキープしていました。中学時代には高校の受験勉強にも早めに取り組み、月々届けられる学研の『マイコーチ』をやっていたそうです。

 「高校受験に関しては、そこまでの不安はなかったです。当時、兵庫の高校受験は『15の春は泣かせない』(高校全入運動とともに広がった言葉)があって、公立高校の受験は内申書で8~9割決まっていたので。内申点もよかった私は、学費が安くて家から近い県立芦屋高等学校を受験し、合格しました」

■現役で大学に入り、ふつうに大学生活を送る

 芦屋高等学校に入学したKenjiさんは、すぐに西宮にあったYMCA予備校に通い始めます。塾と高校の両立が難しくなって、高校2年生でやめたものの、その後は進研ゼミで赤ペンで先生に解答を添削してもらいながら、受験対策をしていました。

 「周囲が大学に進む高校だったので、大学に行こうと思って受験勉強はしました。ただ、この時点では浪人してでも、大学に行こうとまでは思っていませんでした」

 高校入学後のKenjiさんは、途中で高校数学についていけなくなります。1年生の最初に受けた試験では195/450人と上位でしたが、卒業するときは300番より後ろくらいになり、学力を伸ばすことには苦戦したようでした。

 「高校3年生からの進路選択では、文系クラスに入って私立大学を目指しました。ですが、模試を受けてみて、関関同立(関西大学、関西学院大学、同志社大学、立命館大学)には届かなさそうだと思いました。そこで産近甲龍(京都産業大学・近畿大学・甲南大学・龍谷大学)への進学を考え、近大と京産大を受験してどちらも合格をいただきました」

 京都産業大学の経済学部に進学し、「ふつうに大学生活を送った」と語るKenjiさんは、簿記の教室にお金を払って通うなど、大学で学問に打ち込んだこともあり、難関の筆記試験を突破して、地域別採用のあった大手通信会社に就職します。

 ストレートで大学に進学し、ストレートで卒業して大手企業に勤務。何も浪人と関係のない人生を送ってきたKenjiさんですが、ここで彼は22歳にして初めて、“浪人生活”を始める決意をします。その理由は「今のままではリストラの対象になると思ったから」と答えてくれました。

■リストラの対象に怯え、公務員試験受験を決意

 「私が入った会社は、運転免許が必須でした。そのため、会社がお金を出して、教習所に通わせてくれたのです。でも、私はどんくさい人間なのでぶつけたり、脱輪したり、のろのろ運転しかできなかったりして……。なんとか免許は取れたのですが、会社の中で『こいつに運転させたらダメだ』という空気になったのです。私の会社はコネで入ってる人がいっぱいいたので、コネもないし、運転もできない私は、リストラ候補になる可能性が高いと思い、危機感を抱きました」

 そこで、目をつけたのが地方公務員試験でした。当時、Kenjiさんが受験しようと考えた「地方上級」の都道府県庁は26~27歳まで受験することができたので、働きながら受けようと決意しました。

 「9時から17時で仕事をして、家に帰ってきてから、実務教育出版の通信教育を使って、勉強していました。父・母もいたので、掃除・洗濯をしてもらったり、ご飯を作ってくれたりした環境がありがたかったですね。残業した日は勉強できなかったですが、平日は多いときは5時間、休みの日は10時間くらいの勉強をしていました」

 当時の地方上級の試験は、センター試験に近い知識分野・中学入試に近い知能試験からなる一般教養試験と、憲法・民法・行政法などが出される専門試験から構成されていました。

 当時、「教養試験は4割の壁がある」と言われていたようですが、Kenjiさんからしたら、3割を確保することさえ、容易ではなかったそうです。

 「教養試験は国公立の対策をしている人が有利になるように作られているので、1浪目では3割に到達するのがやっとでした。これを伸ばすのはなかなか難しいと思ったので、私はなんとしても、専門試験の出来でカバーしなければならないと感じましたね」

 当時、Kenjiさんが受けた都道府県の「地方上級」の筆記試験のボーダーは6~7割だという噂があったそうです。

 対策が間に合わなかったKenjiさんは、初年度の受験は回避し、2浪目の試験に向けて勉強を重ねます。

 「実務教育出版の教材はやってしまったので、『憲法の頻出問題』『行政法の頻出問題』『民法判例百選I・II』などの参考書を使った勉強や、大学の経済学の基本書を復習しました。京産大の経済学部に通っていたときも、『貧しい家庭なのに、私学に行かせてもらっている』という負い目があったので、本を読み続けたのですが、そのおかげで基礎的な知識がついていてよかったですね。2年目には、産経公務員模擬テストの成績が、受験するたびによくなっていったので、合格できるかもしれないと手応えを感じました」

■筆記は受かったものの、面接で落とされる

 こうして2浪目に某県庁を受験した彼は、無事に筆記試験で好成績をたたき出し、筆記試験は合格することができました。しかし、残念ながら面接で落とされてしまったようです。

 「面接は学問的な口頭試問ではなく、普通の民間企業がするような、一般的な受け答えを見る試験でした。ただ、それが難関でして、筆記試験を通過した者も面接で3割以上落とされてしまい、1次試験・2次試験合わせると、5倍くらいの倍率がありました。私が落ちた理由は、推測ではありますが、勤務していた企業と県庁が上層部でつながっており、若手の人材の引き抜きになるのでまずいと判断したのかもしれません」

 落ちた理由がわからずに、絶望的な分析に思い至ったKenjiさんは、失意のどん底にいました。

 しかし、それでも、「年齢制限までは諦めず、一生懸命勉強しようと思った」という理由で、3浪目のチャレンジを決意します。そして勉強を続け、成績を伸ばし続けていた彼は、県庁の筆記試験の合格で自信を持ったこともあり、さらなる高みを目指して、日本を代表する難関試験といわれる国家公務員一種試験の受験を決意しました。

 「当時の各都道府県の受験生のレベルを考慮すると、肌感覚的には国家一種試験は東大・京大クラスが合格を争う試験で、地方上級はGMARCH(学習院大学、明治大学、青山学院大学、立教大学、中央大学、法政大学)・関関同立あたりのレベル感なので県庁のほうがだいぶやさしいと言われています。でも、私が受けた県庁は志望者が多い難関で、『国家二種よりも難しい』とも言われていたので、一般教養試験・専門試験といった試験科目も変わらないし、長く勉強を続けているから、受かるかもしれないと思って一種を受けようと思いました」

 面接で落ちたのが自身の能力ではなく、外的要因であることも考慮した、この判断は、彼の人生に大きな影響をもたらします。

 「3浪目のスケジュールとしては、2浪目までとそんなに変わりません。ただ、さまざまな分野の参考書に加えて国家一種10年分、地方上級の過去問5年分をしっかりやりました。『日本史の分野でも現代史は出ない』というように、過去問をたくさん解くと、試験に出やすいポイントがわかってくるのがよかったですね。

 2浪のときと同様に、模試もちゃんと受けてそのたびに成績がよくなるのを確認していました。1浪目では3割取るのも難しかった教養試験でしたが、最後のほうは半分程度は取れるようになりましたし、専門科目も7割程度取れるようになったので、同じ調子が本番で出せれば合格できるかもしれないと思いました」

■母校で初めて国家一種試験に合格

 幸い本番でも力も出し切れた彼は、県庁こそ、またしても面接で落ちてしまったものの、3浪で国家一種試験に合格し、省庁に勤務することが決まりました。

 まさに思いもしなかった合格のようで、母校の就職課に聞いたところ、最終学歴が京都産業大学で国家一種(行政職)に合格した人はKenjiさんが初めてだったそうです。「公務員にならないと生きていけないと思っていたから頑張れた」と語るKenjiさんは、次のように続けました。

 「長く勉強した結果が、このような形で表れてよかったですね。高級官僚や一流大学の出身者に対して、劣等感を持たなくなったので、自信を持って人生を送れるようになりました。その点で、3浪して、公務員試験の勉強をし続けてよかったと思います」

 省庁に入ってからのKenjiさんは、大学院に行ける制度を知り、横浜国立大学の大学院・国際経済法学研究科修士課程を受験して合格を掴みました。Kenjiさんは、「院試でさらに2浪したので合計5浪です(笑)」と語ります。

 「当時も、現在の『自己啓発等休業制度』と同様の制度があったので、利用させていただくことにしました。受験は勤務しながら受けたのですが、大学院に行っている間は仕事をしないで、勉強をさせてもらいました。横浜国立大学大学院の試験では、大学院における研究に必要な英語力が問われたのですが、3浪して勉強したのがとても役立ちましたね。あの勉強をしないと受かっていないと思います。

 横浜国立大学の院に入ってからは、とてもきびしい環境だったのでついていくのが本当に大変でしたが、集中して研究活動をする期間を2年与えてもらったので、大学時代と同じく、大学院も絶対留年しないようにしようと思い、必死に勉強して留年せずに修了できました。親族に大卒者がそんなにいない環境から、アカデミックな環境に行けたことが、私の財産です」

 横浜国立大学の大学院を修了した後は省庁に戻り、現在も国家公務員として勤務を続けるKenjiさん。彼は最後に自身の勉強経験・浪人経験を振り返って、こう語ってくれました。

■過去のすごい先人たちと同じ山に登る喜び

 「クライマーズ・ハイという言葉がありますが、最初は苦しかったはずの勉強が、次第に楽しくなってきたので、続けられたのだと思います。大学入試にせよ、大学院入試にせよ、それを乗り越えて、人生を勝ち取った人が大勢いらっしゃいますが、私も過去に試験を突破したすごい人たちと同じ山に登っていく喜びが、自分を奮い立たせてくれました。一生懸命勉強して、働いてきて50代を迎えましたが、退職してからは、今までの分ものんびりしようと思っています」

 先人が辿ってきた山を目指し、母校初の国家一種 (行政職)合格という頂に到達し、「社会の発展と人々の幸福のために働くことを目指して勉強してきた」と語るKenjiさん。努力して勝ち取ってきた功績と、その不屈の精神は、次世代の受験生、特に浪人生たちにも語り継がれ、受け継がれていくのだと思いました。

Kenjiさんの浪人生活の教訓:すごい人と同じ成果を挙げると、すごい人にも劣等感を持たなくなる

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最終更新:5/12(日) 9:41

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