江戸時代に幕府が唯一公認した「人気の賭け事」その正体 碁や将棋、双六といった勝負事での賭けは厳禁

3/9 16:02 配信

東洋経済オンライン

賭け事が盛んだった江戸時代において、幕府が公認していたのは「富突」でした。富突とはどんなものなのか。そしてなぜ富突だけを許していたのか。その裏側について歴史家の安藤優一郎氏が解説します。
※本稿は安藤氏の新著『江戸時代はアンダーグラウンド』より、一部抜粋・再構成のうえお届けします。

■総じて賭け事がさかんだった江戸時代

 江戸時代、総じて賭け事は盛んであり、武士の間でも碁や将棋、双六といった勝負事での賭けが珍しくなかった。当然、幕府や藩は、碁や将棋などでの賭けを厳禁している。刃傷沙汰のようなトラブルの原因となるとして、碁や将棋を指すこと自体、禁止する事例さえみられた。

 しかし、幕府や藩は喧嘩両成敗の方針のもと、武士どうしのトラブルを抑え込むことに躍起であったものの、賭け事の禁令は有名無実化していた。碁や将棋、双六での賭けは繰り返し禁じられたものの、禁令に効果はなかった。

 もっとも、それは賭博犯を処罰しなかったことを、意味したわけではない。幕府や藩は、摘発した者を厳罰に処している。ケースバイケースではあったが、遠島や追放などの重罪が科される事例は多かった。死罪という極刑も珍しくない(江戸初期にその傾向が強かった)。

 しかしそれでも、賭博を根絶することはできなかった。庶民にとっても事情は同じで賭け事は横行しており、根治することは事実上、不可能だった。庶民の身近な賭け事は賽子やかるたを使ったものだが、現代の宝くじにあたる富突も外せない。

 幕府が唯一公認した合法的な賭け事でもあった。幕府は何であれ賭け事の公認には消極的だったが、寺社主催の富突に限り、許可制とすることで公認した(理由は後述)。

 幕府の許可を得た富突は御免富と呼ばれた。富突自体は合法的なものだったが、いつの世にも悪だくみをする者はいるもので、富突を利用した幕府非公認の賭け事も、横行することになってしまう。

■2日に1度は行われるほど人気を博した「御免富」

 まずは、富突の仕組みから解説しよう。参加者は、寺社が販売する富札を購入する。富札には、「子の八十八番」などの番号が付けられており、番号が抽選会であたれば賞金ゲットというわけだ。

 抽選会は、寺社の本堂や拝殿が使用されることが多かった。抽選方法は独特で、発売された富札と同じ番号の木札を箱に入れ、箱の小穴から錐で木札を突き、当たりを決める仕組みであった。当たり札を突くシーンは時代劇で描かれることも多い。

 その後、当たり札をめぐって悲喜交交のドラマが展開されるのが、お決まりのパターンだ。1等賞に相当する一の富は、100両から1000両まで、けっこう幅があった。次いで2等賞の二の富、3等賞の三の富となる。

 現代と同じく前後賞(「両袖附」)や組違い賞(「合番」)、組違いの前後賞(「合番両袖」)まで設定することもあった。主催者があれこれ知恵を絞り、購買意欲を高めようと狙っていたことがわかる。

 富突はどれぐらいの頻度で興行されたのか。最盛期には、江戸だけで2日に1度ぐらいの割合だった。いかに、江戸っ子に人気のギャンブルであったかがわかる。

 一獲千金を夢見て富札を買った江戸っ子にとっては、当選金もさることながら、富札の値段が一番の関心事だったはずだが、その値段にはかなりのばらつきがみられた。

 「江戸の三富」と称された感応寺・湯島天神・目黒不動が発行した富札は1枚あたり金2朱というから、1両の8分の1にあたる。現代の貨幣相場に換算すると、1万円以上となるため、庶民にはかなりの高額だった。

 他の寺社の場合はその半額にあたる金1朱、さらに安い銀2匁5分という事例が多かった。5000~6000円ぐらいだろう。現在、宝くじは1枚300円が相場であるから、いずれにせよ高額だ。

 江戸っ子にしてみれば、奮発して1枚買うのがせいぜいである。そのため、数人から数十人で共同購入する事例が多かった。この購入方式は「割札」と呼ばれた。発行枚数は富札の価格と連動しており、富札が高額ならば枚数は3000~5000枚、低額ならば数万枚だった。

■幕府の責任逃れを理由に許されていた「富突」

 幕府公認の興行であるため、主催する寺社の名前、富突を行う場所や日時、富札の販売期間などの情報が、町奉行所から江戸の町に向けて布告されることになっていた。この御免富の制度がスタートしたのは享保15年(1730)のことである。

 なぜ幕府は、こんな射幸心をあおる興行を認めたのか。それは、寺社造営費用を賄うためである。幕府の財政に余裕があれば堂社の整備費を補助できたかもしれないが、折しも将軍吉宗による享保改革の真っ只中だった。

 幕府の財政難を背景に、支出を大幅に切り詰める倹約政策が断行中であった。よって、幕府は寺社に富突を許可して整備費を集めさせることで、みずからはその負担から逃れようとしたのである。御免富の制度とは、みずからの懐を痛めないで済む巧妙な寺社助成策に他ならなかった。

 富札を大量販売して短期間に大金を集められる御免富の興行は、寺社にとってたいへん魅力的だった。だが、これに便乗する形で「影富」が広まってしまう。影富とは、感応寺・湯島天神・目黒不動の一の富の当たり番号を予想した賭け事である。

 現在の宝くじで言うと、購入者が番号を自分で決められるロト6やナンバーズに似ている。三富で富札を買うのではなく、影富の札を買って賭け事をする賭博行為だ。これが江戸庶民の間でたいへんな人気を呼ぶ。

 御免富の札は庶民には高額であったが、『守貞謾稿』によれば、影富はわずか1~2文(数十円)で札が買えた。当たれば、8倍もの当選金が手に入った。このことが、影富が大いに人気を呼んだ理由だったのは間違いない。そんな高配当が魅力的に映ったのは、庶民だけではない。

■幕府と寺社にとって目の上のたんこぶだった「影富」

 影富に大金を注ぎ込む裕福な者も現れる。影富を主催する者は江戸市中に大勢の人を走らせ、札を売り歩いた。もちろん、御免富を主催する寺社非公認の札であるから、露見すれば幕府の処罰は免れない。

 当初は「富の出番」と言いながら影富の札を密売したが、処罰対象となる以上、幕府の目をくらます必要があった。よって、「おはなし、おはなし」というフレーズを隠語として、札を販売するようになる。そのため、影富は「お咄しうり」と呼ばれた。「見徳売り」「札売り」という名称もあった。

 こうして影富の主催者たちはおおいに懐を暖めたが、御免富を主催した寺社からすれば、営業妨害そのものであった。影富の対象が江戸の三富にとどまらなかったことは想像に難くない。高配当に惹き付けられたことで影富の売り上げが増えれば、そのぶん御免富の売り上げは落ちてしまう。

 影富の存在自体が当の寺社にとっては死活問題だった。幕府にしても富突を許可制とした以上、影富の横行を捨て置くことはできなかった。根絶を目指して、取り締まりを強化している。だが、影富に大きな需要があった以上、その効果は不充分なものにならざるを得なかった。

 『守貞謾稿』では驚くべき事例も紹介されている。抽選会当日、寺社奉行所の役人は検使のため会場の寺社に赴くことになっていたが、その検使役人の奉公人が、門前などに筵を敷いて、富突の見物客を相手に影富を行ったという。

 影富を取り締まる側が御免富の会場で影富を開帳していては、その根絶など夢のまた夢であった。天保改革の嵐が吹き荒れた天保13年(1842)に、影富が便乗した御免富の制度は廃止される。結局のところ、御免富の廃止まで影富は根絶できなかった。

■最後までなくならなかった違法賭博

 しかし、御免富と関係なく行われていた「隠富」は続いた。隠富とは、参加者から集めた賭け金を元手とした賭け事だ。幕府や藩の許可を得たものではない以上、違法賭博となる。

 影富と同じく御禁制とされたが、次のような方法により幕府や藩の目をくらましていた。

 鎌倉時代からの金融システムに、頼母子講(無尽講ともいう)というものがある。

 講への参加者たちが一定の掛け金を拠出し続けた上で、一定の期日ごとに抽選や入札を行い、その当選者が所定の金額を順次受け取るという、互助的な金融組合であった。

 全員が所定の金額を受け取るまで掛け金を拠出するルールが採用されていたが、この頼母子講のシステムが悪用される。

 表向きは何々講という名目で参加者から掛け金を集め、それを元手に札を発行して抽選日に当選者と当選金を決めたのだ。この頼母子講のシステムを隠れ蓑に、隠富と称された賭博は続いたのである。

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最終更新:3/9(土) 16:02

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