日大の「学祖」と吉田松陰の知られざる“奇縁” 西郷から「用兵の天才」と賞賛された維新の志士
田中英壽理事長体制での一連の事件を経て、2022年7月、作家・林真理子氏を理事長に迎えた日本大学。改革が進むかにみえた新体制だったが、アメフト部薬物事件、重量挙部・陸上部・スケート部における「被害額約1億1500万円超」もの金銭不祥事などが立て続けに起こっている。日本最大のマンモス私大「日大」は、どのような経緯をたどって現在に至ったのか。
話題の『地面師』著者で大宅賞作家でもある森功氏の新刊『魔窟 知られざる「日大帝国」興亡の歴史』を一部編集し、全4回に分けてお届けする2回目(1回目はこちら)。
■「維新の志士」が学祖
学校法人日本大学は1889(明治22)年10月、「日本法律学校」として創立された。いわゆる旧制の専門学校である。ときの司法大臣である山田顕義が大学創立を推し進め、山田は日大の学祖に位置付けられる。
明治時代における日本の私立大学の起こりといえば、誰もが早稲田の大隈重信や慶應義塾の福澤諭吉を思い浮かべるに違いない。
かたや、日大も明治維新後の文部行政によって誕生した私学である。わけても学祖の山田と明治維新の理論的支柱である吉田松陰との奇縁については、あまり知られていないのではなかろうか。
山田顕義は江戸時代の毛利・長州藩士山田七兵衛顕行の長男として、現在の山口県萩市に生まれた。伯父は長沼流兵法学者だった山田亦介だ。亦介は長州藩の軍制改革総責任者として洋式海軍の創設などに尽力した人物として知られる。江戸幕府による第一次長州征伐の際に処刑された長州藩士11人「甲子殉難十一烈士」の一人である。
日大HP(ホームページ)から山田の生い立ちを紐解くと、幕末から明治にかけた長州藩の兵学が山田の考えの根底にあることがうかがえる。長州藩における師弟関係が、山田の人物形成に大きく影響している。
毛利・長州藩の兵学のもとをただせば、天保の藩政改革を断行した家老の村田清風にさかのぼる。杉百合之助の次男として生まれた吉田松陰は村田に師事し、兵学を学んだ。長州藩の山鹿流兵学師範だった吉田大助の養子となってから、吉田姓を名乗るようになる。本人は山鹿流だけで満足できなかったのであろう。やがて山田亦介の長沼流兵学の教えを受けた。亦介は村田の実弟、山田龔之の息子で、村田の甥にあたる。亦介の実弟が山田顕行で、1866(慶応2)年に長州藩の海軍頭取に就任した。顕行は山田顕義の実父だ。
山田の家系を顕義から見ると、実父の顕行が吉田松陰の師として長州藩の軍政を司った亦介の弟で、藩政改革を断行した村田は大伯父にあたる。つまり幕末の長州藩では、村田清風、山田亦介、吉田松陰、山田顕行、そして日大学祖の山田顕義という系譜で藩の兵法が伝授されてきたのである。
兵法学者の偉大な伯父と海軍頭取を父に持つ山田顕義は、14歳になったばかりの1857(安政4)年、松下村塾の門をたたいた。念のため塾生を列挙すると、久坂玄瑞、高杉晋作、木戸孝允、伊藤博文、井上馨、吉田稔麿、入江九一、前原一誠、品川弥二郎、山田顕義、野村靖、渡辺蒿蔵、河北義次郎などの面々がいる。そのなかでひときわ若かった山田顕義は、吉田松陰の最後の門下生となり、自ら幕末、維新の動乱に身を投じた。
山田の松下村塾入りからわずか2年後の1859年10月には、師の松陰が安政の大獄で処刑される。山田は同門の高杉晋作や久坂玄瑞、井上馨や品川弥二郎らとともに攘夷の血判書「御楯組血判書」に名を連ね、明治維新の立役者の一人に数えられるようになる。
1864(文久4)年1月に高杉晋作とともに脱藩した山田は大坂や江戸に向かい、この年の7月には長州藩士が挙兵した京都の「禁門の変」に加わった。25歳にして戊辰戦争における討伐軍の指揮をとり、官軍総大将の西郷隆盛から「用兵の天才」と讃えられたという。
■初代司法大臣となった「小ナポレオン」
明治維新後の山田は、師である松陰の教えに従い、欧米の軍や法の制度を学んだ。1871年10月には兵部省理事官として岩倉遣外使節団に加わり、フランスへ渡る。そこでナポレオン法典に感銘し、「法律は軍事に優先する」という思いにいたったとされる。
「小ナポレオン」と称された山田は、明治の初代司法大臣として近代国家の骨格となる明治法典を編纂した。それが、大学創設の端緒となる。山田は日大の前身である日本法律学校の創設を進めた。
明治維新後の日本の大学制度は、1877(明治10)年4月に創立された東京大学が始まりだ。その後の86年の帝国大学令により、全国に7帝国大学が生まれた。日本の高等教育は明治時代の終盤まで旧帝国大学ならびにナンバースクールと呼ばれた旧制高校が担ってきたといえる。
一方、私立大学の多くは、法律の専門学校がその起点となっている。創立順からいえば、東大から遅れること3年の1880年4月、法政大学の前身である「東京法学社」が創設された。次がこの年の9月創立の「専修学校(のちの専修大学)」、1881年1月創立の「明治法律学校(のちの明治大学)」、1882年10月創立の「東京専門学校(のちの早稲田大学)」、85年7月創立の「英吉利法律学校(のちの中央大学)」といった具合である。
これらの法律学校は帝国大学総長の監督下に置かれ「五大法律学校」と呼ばれた。
1889年10月に山田顕義が創設した日本法律学校は8番目である。
ちなみに大分県の豊前・中津藩士だった福澤諭吉が江戸末期の1858年に江戸藩邸で開いた蘭学塾を起源とする慶應義塾は、明治維新と同年の1868(慶応4)年に創設されている。
そして日本法律学校から遅れること3カ月の1890年1月、大学部に文学、理財、法律の3科を加えたことから、9番目の法律学校となる。ここから私大の前身である五大法律学校は「九大法律学校」といわれるようになり、日大もその一角を占めるようになる。
これらの法律学校が大学として認知されたのは、1903(明治36)年3月に公布された専門学校令である。これにより公立と私立の専門学校が、高等教育機関として一定の地位を与えられた。それが私立大学の起こりだ。
日本法律学校はこの年の8月、日本大学と改められた。もっともこの時点で日大はまだ文部省に学士号の授与を許されていない。私立大学は1918(大正7)年の大学令によって正式に大学として認められ、多くの私立大学が生まれ、ここからそれぞれの道を歩み始めた。日大HPにある〈日本大学の歴史〉にはこうある。
〈山田顕義は、当時の法学教育は欧米法が主流で、日本の歴史や文化から乖離した知識を教えるものであり、現実に即した日本法学の研究こそが喫緊の課題と考えていました〉
日大は前身が法律専門学校だったため、今も法学部が特別な存在として扱われている。HPにはこうも書いている。
〈本学の目的・理念は、社会状況の変化に応じて、幾度かの改訂・制定が実施されましたが、本学の伝統・学風は、表現はかわりつつも、現在に脈々と受け継がれています〉
■学祖に倣った危機管理学部の創設
日大の歴代総長や学長たちは、学祖の師である松陰の教えを意識せざるをえなかった。ワンマンで聞こえた田中英壽もその一人だったに違いない。田中は新たに危機管理学部やスポーツ科学部を設置したが、ことに危機管理学部の創設は学祖に倣った発想だといえる。日大HPには、大学の〈理念(目的及び使命)〉として、次のように記している。
〈日本大学の前身である日本法律学校の創立目的は、「日本の法律は新旧問わず学ぶ」「海外の法律を参考として長所を取り入れる」「日本法学という学問を提唱する」という3点。
欧米法教育が主流な時代にあって、日本法律を教育する学校の誕生は、大いに独自性を発揮することとなりました〉
ちなみにHPには、〈高度経済成長期の日本大学を牽引〉した人物として、古田重二良の名も刻まれている。古田は世界に類を見ない巨大な私立大学グループを築いた功労者として日大の歴史に光と影をもたらした。日大の学生数を増やすべく、学部の新設に血道をあげる。それは危機管理学部の新設をはじめとした田中の大学運営にも引き継がれていった。
(敬称略)
東洋経済オンライン
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最終更新:1/31(金) 8:02