江戸時代の武士が利用した「介護休暇」 老親介護をバックアップした驚きの中身

10/29 15:02 配信

東洋経済オンライン

現在、日本人の平均寿命は80代ですが、江戸時代の平均寿命は30代くらいだったと言われています。しかし、全ての日本人が短命だったわけではありません。幼少期に亡くなる人の多さが全体の平均を下げているものの、実際には90歳を超える高齢者が一定数いたこともわかっています。つまり、高齢者介護の問題と直面していたはずです。
医療が未発達で、現在のような介護保険サービスも整っていない時代に、日本人はどのように介護に取り組んだのでしょうか? 

日本では団塊世代の全人口が75歳以上(後期高齢者)となる、いわゆる「2025年問題」が大きな注目を集めています。
書籍『武士の介護休暇』では、江戸時代を中心に、様々な資料を駆使して日本の介護をめぐる長い歴史を解き明かします。そこから浮かび上がる、介護に奮闘した人々の姿と、意外な事実の数々――。介護の歴史を振り返ることで、きっと何かのヒントが見つかるはずです。
『武士の介護休暇』より、江戸時代の介護休暇制度である「看病断(かんびょうことわり)」について、一部抜粋、再構成してお届けします。

■武士が利用した「看病断」という介護休業制度

 幕府は1742年(寛保2年)に、父母や妻子が病気の際には無条件で、祖父母・叔父伯母の場合はその内容次第により介護休業を認める制度を整備しており、この規定と前後し、多くの藩でも同様の制度が設けられています。こうした制度を幕府は「看病断(かんびょうことわり)」と呼んでいましたが、藩によって名称が異なり、例えば沼津藩では「看病引」と呼んでいました。他にも「看病願」「付添御願」「看病不参」などの名称が各藩の記録で確認されています。

 この看病断の制度は、現代の育児・介護休業法に基づく「介護休暇」「介護休業制度」に該当するといって良いでしょう。ただし商人・職人に対して適用される制度ではなく、あくまで旗本・御家人、藩士を対象としたものです。

 看病断制度の適用例を示す史料は各地に残っており、その中から丹波亀山藩(現在の京都府亀岡市付近)のケースをご紹介します。

 江戸の文政期(19世紀初め頃)、丹波亀山藩は幕府から、京都で火事が発生したときの火消の役割を担う「京火消詰」の役目を他の数藩と共に任されていて、担当の藩士が京屋敷に赴任する必要がありました。1820年(文政3年)4月、丹波亀山藩士の「伊丹孫兵衛」がその役目を果たすべく京屋敷に詰めていたのですが、その現場の上役に対して「祖母が病気になり具合が良くないので、看病をするため火消詰の休業をしたい」と願い出ています。

 原文には「以御憐愍看病之御暇被下置候様」などとあり、看病断の一種であると考えられます。ただ上役への届け出書によると、急に現場の上役に願い出たのではなく、事前に孫兵衛の関係者から藩の重役に申し出があって、すでに協議はされていたようです。申し出が認められ、孫兵衛が祖母の看病をしたところ、すぐに快方に向かったようで、5日後に現場に戻ったとのこと。つまりケアを理由とする休みの取得日数は5日だけでした。

 こうした看病断に該当する制度とその運用の記録は、幕府をはじめ、広く実施されていたようで、既存研究によると幕府のほか、弘前、八戸、盛岡、秋田、仙台、米沢、勝山、新発田、小田原、松代、高崎、拳母(ころも)、沼津、徳島、久留米の諸藩で制度化されていたといいます。

■武士の「近距離介護」

 武士が看病断を取得した事例の一つに、秋田藩(佐竹家)の藩士であった「渋江和光(しぶえ・まさみつ)」が記していた『渋江和光日記』があります。和光は53歳で亡くなりましたが、24歳から49歳までの約25年にわたって日記を書き続けていて、それが現代まで残っているのです。

 藩士といっても渋江家は代々秋田藩の家老職を務める由緒ある家柄であり、自家でも家臣団を抱える藩の最高幹部です。ただ渋江家には直系の宗家と分家があり、家老を輩出しているのは宗家の側で、和光が生まれたのは分家でした。

 渋江和光は1791年(寛政3年)1月14日、渋江家の分流である「渋江光成(みつなり)」の長男として生まれました。そのままいけば和光も分家の当主となったわけですが、宗家の当主が病気になって余命いくばくもなくなり、加えて宗家には跡継ぎとなる男子がいなかったため、和光が13歳のときに急遽宗家の養子に入ります。

 これはかなり急だったようで、養子に入った時の宗家の主は「渋江敦光(あつみつ)」でしたが、この人が亡くなるのは1803年(享和3年)6月20日であり、和光が養子に入ったのは同年6月12日。わずか一週間ほど前です。通常、こうした家の存続だけを目的として、現当主が亡くなる直前に慌てて養子縁組をしても認められないことが多く、渋江宗家についても、慣例に従えば知行召し上げとなっても仕方なかったといえます。

 しかし渋江宗家は藩の特別な計らいにより、和光を当主として家名が存続しました。先祖である「渋江政光(まさみつ)」が大坂冬の陣で戦死しているので「先祖抜群之戦功」であり(この時から約190年前の出来事ですが)、さらに1778年(安永7年)に秋田藩のお城である久保田城が焼失した際、渋江家の屋敷が「仮御殿」になった点を配慮したとの旨が、秋田藩の公式文書として残っています。

■24歳のときに親の介護に直面

 渋江宗家の跡を継いだ和光の知行高は2962石(1811年〔文化8年〕時点)であり、これは秋田藩の中でも最上位層に位置する石高の多さです。ただし跡を継いだときは13歳の若年であったため、実父である「渋江光成」と、親族である「荒川宗十郎」の2名が「加談(補佐役)」を命じられています。なんとか無事に宗家を継いだものの、和光は亡くなるまで、宗家の先祖の多くが就いてきた家老職にはなれなかったようです。

 ともかくも宗家に養子に入って偉くなってしまった和光でしたが、日記を書き始めて間もない24歳のときに、親の介護に直面します。実家に住む実父・光成が、1814年(文化11年)10月6日に、中風を再発して倒れてしまったのです。その日の日記には、以下の記述があります。

 「九ツ時少過根小屋かゝさまより御使者にて、親父様中風御当り直しにて御勝不被成候故、早々参候へと申来候故、……」
(正午過ぎに根小屋の母から御使者があり、親父様が中風を再発してしまい、体調が宜しくありません、早々に参られたしとのお知らせがありましたので、……)

 文中にある「根小屋」とは和光の実家のある地名であり、久保田城の南側に広がる武家屋敷街の一つである「東根小屋町」を指します。先述の通り、和光は分家である渋江光成の家を継ぐはずでしたが、13歳のときに渋江宗家の養子となりました。そこで和光の代わりとして実家では、和光の妹の夫であり、秋田藩士の宇都宮家から迎え入れた婿養子・「渋江左膳光音(さぜんみつね)」が光成と暮らしています。この人は和光と近しい間柄で、「左膳」と呼ばれて日記にも頻繁に登場しますが、光成が倒れたとの知らせを受けた日、和光はこの左膳と一緒に夜を徹して光成のケアに当たりました。

 そして翌7日、和光は五ツ半時過(午前8時過ぎ)に東根小屋町の実家から宗家に戻っています。一晩ずっと実父の傍にいて、朝になってから帰宅したわけです。宗家は東根小屋町の通りを北に進み、堀・門を通った先の三の丸の一角にあり、およそ500メートルほどの距離です。和光は自宅に戻った後、午前11時頃からひと眠りして午後1時頃に起き、午後2時には再び実家に行って、午後10時過ぎに帰宅したと日記に記しています。

■「看病断」の申請手順

 翌10月8日には、倒れた光成の様子から介護が長期にわたると判断したのか、藩に対して「看病御暇申立」を行っています。ここでいう「看病御暇」とは、先に触れた「看病断」=介護休暇に該当するものです。和光は1807年(文化4年)から1837年(天保8年)まで、途中間が空くものの、延べ23年にわたって家老に次ぐ役職である「御相手番」を務めました。実父が倒れたときはこの職に就いていた時期に重なります。そのため看病御暇を取る旨は、職場の同僚である「同役衆」に対しても回文(回覧板のようなもの)の形で通知しています。

 「看病御暇」の申請が受理された和光は、この日以降、連日実家通いをして父の看病を続けていきます。和光の介護形態は、現代でいう別居介護に該当し、さらにいえば、自宅から「スープの冷めない距離」に住んでいる親の介護をする、「近距離介護」に当てはまります。

 遠く離れた実家に住む親を、航空機や新幹線で定期的に通って介護することは「遠距離介護」と呼ばれ、大学や就職を機に地方から大都市圏に出てきた人が直面しやすいケア形態です。一方で「近距離介護」は、親とは別居しているものの、お互いが近くに住んでいる場合の老親介護です。「実家がマンション・狭小住宅で同居するには手狭なので、子供は実家を出て近場に居を構える」などの状況が起こりやすい都市部で良く見られます。

 渋江和光の場合は婿養子に入ったことで実父と別居しているわけですが、親が住む実家と自宅との距離が近いため、毎日行ったり来たりしてケアを続けたわけです。

■毎日記録した介護の内容

 ただ和光は父の介護のため、具体的に何をどうしたかまでは日記に残していません。『水野伊織日記』に見られた「暁九時両便御快通」のような内容は見られないのです。しかし看病のために何時に実家に行き、何時に自宅に戻ったのかを毎日記録し続けています。何日かピックアップしてご紹介しましょう。

 十月九日 「四ツ半時帰宅申候」「日暮より又々根小屋へ参申候て、夜四ツ半時頃帰宅申候」
 十月十四日 「九ツ時帰宅申候而、七ツ半時頃より又々罷越申候」
 十月二十日 「九ツ時帰宅申候」「七ツ半時過より又々根小屋へ罷越申候」
 十一月六日 「九ツ時帰宅申候」「日暮より又々根小屋へ罷越申候」

 シンプルな文面なので訳は省略しましたが、おおむねの傾向として、夜中ずっと実父の傍にいて、翌日の「昼九ツ(正午頃)」前後に宗家の自宅に戻っています。そして自宅で一休みした後、「昼七ツ半(午後五時頃)」前後にまた実家に出向く生活を繰り返しています。やや早めに自宅に戻る日もありますが、基本的にこのパターンを厳格なまでに維持し続けました。例えば11月3日には次のような記述があります。

 「七ツ時より小場小伝治殿被参候、我等ハ小伝治殿被居候内申断、七ツ半時過根小屋へ罷越申候」
(午後4時に小場小伝治〔おば・こてんじ〕殿がいらっしゃった。私たちは小伝治殿がいらっしゃるうちに断りを申し上げて、午後5時過ぎに根小屋に行きました)

 来客中であってもいつもの「ケアに行く時間」が来ると、退出して実家に向かっているのです。ここからは毎日どのようにケア・見守りを行うかのスケジュールを事前に取り決めていて、それを守ろうとしていたのでは、といった想像もできます。もしそうなら、実家の「左膳」ともケア方針について相談・取り決めをしていたのかもしれません。

 こうした近距離介護生活を1カ月半以上続けたところ、父・光成の状態が次第に改善していったようで、11月22日に次のような記載があります。

 「此間根小屋ニ而も格別御快気ニ趣候故、……看病御暇御礼并返上之義問合候処、……」
(このところ根小屋の実父も格別快方に向かいましたので、……看病御暇の御礼およびその返上について問い合わせましたところ、……)

 ケアを必要としていた実父・光成の体調が良くなったため、看病御暇を返上する意思が読み取れます。その後27日に、正式に看病御暇を返上して出勤する旨を伝える回文を「お相手番」の同役衆に送っています。

 看病御暇を返上した後は、出来る日はやっているようですが、基本的には泊まりがけでの介護は行わないようになります。しかし実家に向かえないときに行っていることがありました。例えば12月6日には以下の記述があります。

 「根小屋ヘ御容子御尋使者指遣候」
(根小屋にご様子を尋ねるための使者を遣わしました)

 この記述の前日である5日はかなり忙しかったようで、日記の中身は仕事関連の内容で埋め尽くされています。こうした実家に行けなかった日の翌日には、父の様子を尋ねる使者を送っています。看病御暇を取得中は毎日欠かさず実家に通い続け、休みを返上した後でも、使者を送って状態の確認を行っているわけです。ただこの使者を送る行為も、わざわざ尋ねなくても良い状態まで回復したのか、12月の下旬頃になると見られなくなってきます。

■介護の中心役は男性だった

 この和光の約1カ月半に及ぶケアの記録からは、当時の武士が持つ親への孝心の篤さが改めて感じられます。『水野伊織日記』の水野重教もそうでしたが、渋江和光も実家を出て養子に入っています。他家の人間になっているのに、実父が要介護状態になったことを知るや否や、わき目もふらずに実家通いをしてそのケアに当たっています。

 しかも和光にいたっては藩の重鎮であり、家老に準ずる「御相手番」の職に就いていました。現代人が持つ素朴なイメージとしては、それほど身分の高い人であれば、ずっと家にいる妻や使用人などに介護を任せきりにして、自身は介護については何もしない……などの状況が起こりそうにも思えます。実際、和光の実家には、和光の妹や「根小屋かかさま」などの女性も父・光成と一緒に住んでいました。

 しかし和光は父の介護を任せきりにせず、「看病御暇」を藩にわざわざ申し出て、実家通いをして実父のケアに当たっています(もっとも渋江家は由緒ある武家なので使用人も多いでしょうから、そうした人たちにあれこれ指示・命令することも多かったとは思われますが)。

 この「息子が率先して父の介護に取り組む」「女性ではなく男性が介護の中心役になる」などの特徴は、水野重教、渋江和光に共通している事象といえるでしょう。なお、和光の実父・光成の介護には、妹の婿養子である左膳もまた、「看病御暇」を取得してケアに当たっています(和光が「看病御暇」を返上してから2日後である11月29日の記録に、「左膳」も同様に返上して出勤したとの記載があります)。

■父が倒れた翌々日に介護休暇を取得

 もちろん介護には光成の妻や娘も協力していたとは思いますし、介護現場で使用人があれこれ指示される状況もあったとは思います。しかし和光と左膳は、父(和光にとっては実父、左膳にとっては義父)のケアを最優先事項として位置づけ、父が倒れた翌々日に藩から介護休暇をとって、体調が安定するまでしっかりと介護に向き合っていたわけです。

 なお快方に向かった父・光成は、年が明けた1815年(文化12年)1月に剃髪(ていはつ)して名前を「逸斎(いっさい)」と改め、隠居生活を送りました。外に出歩いたりしているので、病後も元気だったようです。それから約3年後の1818年(文政元年)8月12日に脳卒中の再発により倒れ、翌13日に亡くなっています。

 倒れたときはすでに重体で、和光は12日に看病御暇を藩に申し出ました。しかし介護する必要はなかったわけです。光成の最期は苦しむこともなかったようで、ピンピンコロリの大往生を迎えたといえます。亡くなる直前の3年の間に、和光は結婚して子供も生まれていました。和光の子、つまり光成にとっては孫の顔を見られたので、幸せを感じられたのではないでしょうか。

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最終更新:10/29(火) 15:02

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