安すぎる大学の学費により日本社会が失ったもの 学生の経済的負担が小さいことは利点だが

5/16 9:41 配信

東洋経済オンライン

 慶應義塾大学の伊藤公平塾長が、3月に文部科学省・中央教育審議会の特別部会で「国公私立大学の設置状態にかかわらず、大学教育の質を上げていくためには、公平な競争環境を整えることが必要。国立・公立大学の家計負担は、年間150万円程度に上げるべき」と提言しました。今回は、日本の大学と学費のあり方について考えてみましょう。

■文科省は火消しに回る

 4月中旬に伊藤氏の提言がメディアで明らかになると、大きな波紋を呼びました。ほぼ反対一色で、SNSやネット掲示板には次のようなコメントがあふれていました。

 「学費の値上げと大学教育の質の向上がどうつながるのか。私立大学と国公立大学が公平な競争をする必要があるのか。ちょっと意味がわからない」

 「値上げすると、いよいよ裕福な家庭しか大学に進学できなくなる。努力すれば国公立大学で安く学べるという今の仕組みを変えるのは反対」

 文科省の担当者は、早々に「あくまで提案が議論に上がった段階で、決定事項ではない」「この内容が独り歩きするのは、われわれも本意ではない」(フジテレビ「イット!」4月22日放送より)と火消しに回りました。

 火消しの甲斐あって今回の「伊藤騒動」は一件落着した印象ですが、本当に安価な学費は善、値上げは悪なのでしょうか。伊藤氏の提言を脇に置いて、日本の大学と学費のあり方についてゼロベースで考えてみましょう。

 グローバル化の時代に国内の事情だけで学費を論じることはできません。まず世界の状況の確認から。世界の主要大学の1年間の学費は、以下の通りです。

 アメリカやイギリスでは、受益者負担の考えから優れた大学ほど学費が高くなっています。一方ドイツでは、大半の大学で学費はゼロです。他にも北欧諸国など学費ゼロの国があり、東京大学の53万5800円が世界最安値というわけではありません。ただ、昨今の円安の影響もあり、日本は世界だけでなくアジアの中でもかなり安い部類です。

■安価な学費で社会が安定

 日本の大学の安価な学費には、良い点と悪い点があります。まず良い点は、何と言っても学生・親にとって経済的な負担が小さいことです。

 アメリカでは、世界一高いと言われる学費が学生にとって過酷な負担になっています。アメリカの奨学金は給付型で、奨学金が受けられなかった学生の多くが教育ローンを借ります。金利が低い公的なローンは、親ではなく学生自身が借りる仕組みです。

 そのためアメリカでは、学費を払えずに中途退学する学生が後を絶ちません。教育ローンの残高は、なんと1兆7700億ドル(約280兆円)に達します。卒業後にローンを返済できず破産する若者が増加し、大きな社会問題になっています。

 一方、日本でも、返済が必要な奨学金負担の問題はあるものの、アメリカに比べれば深刻ではありません。結果として、進学率が上昇し、教育の裾野が広がり、国民の学力が上がります。さまざまな格差が縮小し、安定した社会が実現します。

 また、海外からの留学生にとっても、日本の大学の学費は魅力的でしょう。近年、国内の少子化を受けて、各大学とも留学生の獲得に注力しています。安価な学費は、留学生を確保し、大学の経営を安定させることにつながります。

■優秀な研究者が日本に来ない

 一方、あまり指摘されていませんが、安価な学費には悪い点もあります。一言でまとめると、研究が高度化しないという問題です。

 近年、日本の大学の研究力の低下が顕著です。学術出版大手シュプリンガー・ネイチャーが昨年公表した理科系の大学・研究所の研究力ランキングによると、首位は中国科学院、2位はハーバード大学、3位は独マックス・プランク研究所で、日本勢では東京大学の18位(前年14位)が最高でした。

 原因はいろいろあるでしょうが、やはり何と言っても“金”です。日本の大学は、学費収入が少なく、国からの運営補助金などに依存する脆弱な財政構造です。そのため、金のかかる先端研究はどうしても制約されます。また、金主である文部科学省の顔色をうかがわなければならないので、思い切った自由な研究ができません。

 大学教授の平均月収は、国立大学45万7300円、私立大学46万8100円(文部科学省「学校教員統計調査<令和4年度>」)で、ボーナスを含めた年収は1000万円程度です。3000万円以上が当たり前、1億円プレイヤーも珍しくないアメリカとは比べものになりません。この薄給では、日本語の壁もあり、海外から高給で優秀な研究者を集めるのは困難です。

 以上をまとめると、日本の大学の安価な学費は、国民の教育水準を上げ、大学が学生を確保するには有効ですが、大学の競争力を高め研究をレベルアップさせるには不適切だということになります。

■大学に期待する役割によって学費は違ってくる

 では、日本の大学は今後も安価な学費を続けるべきでしょうか、それとも値上げするべきでしょうか。答えは、大学に教育機関の役割を求めるか、研究機関の役割を求めるかによって違ってきます。

 大学を希望すれば誰でも学べる「全国民の準義務教育機関」と位置づけるなら、学費は安価なままのほうが良いでしょう。日本の大学進学率は56.6%(文部科学省「令和4年度学校基本調査」)で、アメリカ・中国・韓国など主要国と比べて低水準にとどまっています。進学率を維持・向上させるには、学費の抑制は重要です。

 一方、大学を「日本の科学・技術をリードする研究機関」と位置づけるなら、学費を値上げし、その増収分を研究や教員の待遇改善に使って、研究をレベルアップさせるべきでしょう。

 個人的には、150万円と言わず300万円くらいまで値上げし、アジア最高額にするべきだと思います。知識社会の現代では、大学の競争力が国家の競争力に直結しており、大学の収入基盤を改革しないと日本全体がジリ貧になってしまうからです。学費だけでなく、低迷する特許収入についても改革を期待します。

 もちろん、値上げによって優秀な高校生が経済的な理由で進学を断念することがあってはいけません。値上げと同時に給付型の奨学金を大幅に拡充する必要があります。また、研究機関として価値のない大学を思い切って縮小・廃止するべきでしょう。

 ところで今回、少し意外だったのは、伊藤氏の提言に対し一般国民から強い反発があった一方、当の大学関係者からはほとんど意見表明がないことです。

 自由な研究ができ、大学も教員も収入が増えるのは大学にとって好都合なはずですが、学生数が減ることを懸念しているのでしょうか。国際的な競争を警戒しているのでしょうか。微妙な問題なので大学から箝口令が敷かれているのでしょうか。ともあれ、議論が盛り上がっていないのは残念なことです。

 大学は企業と並ぶ国家の命運を左右する存在。この機会に、国家百年の計として大学と学費のあり方をゼロベースで検討したいものです。

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最終更新:5/16(木) 9:41

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