「めちゃめちゃ」「超」が若者言葉ではなくなる日

7/2 16:02 配信

ダイヤモンド・オンライン

時代とともに、言葉に対する世間の認識は変わってゆくものだ。例えば、江戸時代後期にくだけた会話でよく用いられていた「ほんに」という強調言葉は、約130年後の夏目漱石の時代には「馬鹿丁寧な言葉」として捉えられるようになり、近代以降は衰退していった。90年代末頃から定着している「めちゃめちゃ」や、「超」といった俗語も、年月が経てばいつかは「若者言葉」ではなくなってしまうかもしれない。※本稿は、国立国語研究所編『日本語の大疑問2』(幻冬舎新書)の、市村太郎による執筆箇所を抜粋・編集したものです。● 「非常に」のような程度副詞 「本当に」のような陳述副詞

 日本語の疑問
「めちゃめちゃ」「超」のような俗な強調言葉は昔もあったのですか

 市村太郎先生の回答
「めちゃめちゃ」や「超」は、「今日の話めちゃめちゃよかった」「その服超かっこいい」のように、後に形容詞や形容動詞などの状態性を持つ語が来て、その状態の程度の甚だしさを表す程度副詞です。

 この類には「とても」「非常に」「随分」など様々な語がありますが、「程度の甚だしさ」を表す点では似たような意味を持つため、その使い分けを説明するのは簡単ではありません。

 渡辺(*注1)が挙げたように、「うれしい」などの一人称の感情を表す形容詞との結びつきや、「今朝は昨日よりも多少涼しい」のような比較構文での用いられやすさ、評価のプラス・マイナスなどの尺度での使い分けが考えられますが、それ以外にも、俗な言い方なのか硬い文章語なのかというような文体的特徴も、各語の役割分担に大きく関わっていると考えられます。

 例えば(1)「去年の冬はめっちゃ寒かった」という例文と、(2)「去年の冬は非常に寒かった」という例文があったとき、「どちらがより若者っぽい会話文で、どちらがより書き言葉らしい文章か」と聞かれたら、迷わず(1)が会話文で(2)が書き言葉と答えるでしょう。

 また、強調に使われる言葉は程度副詞だけではありません。程度に限らず文意を強調する「本当に」「まことに」のような陳述副詞といわれる語もあります。例えば公的機関の謝罪会見で「まことに(申し訳ありません)」を聞く機会はあっても「マジで(申し訳ないっす)」は聞かない、といったようにこれらにも文体差や場面差があります。

 このような現代語の状況に鑑みれば、当然歴史的にも文体差があったことが想定されます。もちろん現代と違って資料が豊富にあるわけではありませんから、ある時代においてどのくらい「俗」であったかを詳しく測るのは容易ではありません。

 ただ、主として話し言葉に現れやすいか、書き言葉に現れやすいかくらいならばわかることがあります。ここでは、その一例として、「ほんに」という語の、江戸時代後期での使用状況を挙げましょう。

*注1 渡辺実(2002)『国語意味論』塙書房

● 江戸のくだけた言葉「ほんに」は 漱石の頃だと“馬鹿丁寧”だった

 試みに『日本語歴史コーパス 江戸時代編Ⅰ洒落本』(*注2)を対象に、江戸時代の「ほんに」の会話文と会話以外の文で用いられる比率を集計したところ、全用例のうち97%が会話文に出現していました。これは類語「まことに」34%、「じつに」50%に比べても非常に高い値で、ほぼ会話文に限定されて用いられていることがわかります。次のように、威勢のいい江戸の勇み肌の男による会話文でも「ほんに」が用いられています。

 (1)芝のはてへいつてもナ。ずつと下谷のはてへいつてもホンニおやぶんのめへだけれども。どうらくものといふどうらくものにみそじやアねへが。たゞのひとりもしらねへなアねへ。
[現代語訳:芝の果てへ行っても下谷の果てへ行っても、【ほんに】親分の前だけれど、道楽者という道楽者に、自慢じゃないがたった一人も知らないものはない。]
(『侠者方言』1771年、52-洒落1771_01004 33640 訳は市村、表記は一部変更した。)

 「めへ」「じやアねへ」「しらねへ」「なア」などのくだけた表現が用いられている、敬語のないぞんざいな発言です。現代語の「マジで」や「めちゃめちゃ」と同じくらいかどうかはわかりませんが、「まことに」や「じつに」に比べれば、「ほんに」がくだけた話し言葉であることは明らかでしょう。

 ところが、そのくだけた語感がその後ずっと維持されたかというと、どうもそうではなさそうで、1905年発表の夏目漱石『吾輩は猫である』に次のような記述があります。

 (2)[「新道の二絃琴の御師匠さん」と「下女」が話している場面]
「えゝ、あの御医者は余程妙で御座いますよ。(…中略…)あんまり苛ひどいぢや御座いませんか。腹が立つたから、それぢや見て戴かなくつてもよう御座います是でも大事の猫なんですつて、三毛を懐へ入れてさつさと帰つて参りました」「ほんにねえ」(…中略…)「ほんにねえ」は到底吾輩のうち抔などで聞かれる言葉ではない。矢張天璋院様の何とかの何とかでなくては使へない、甚だ雅がであると感心した。(…中略…)天璋院様の何とかの何とかの下女だけに馬鹿丁寧な言葉を使う。
(『吾輩は猫である』:伊藤整・荒正人編(1982)『漱石文学全集一』集英社。表記は一部変更した。)

*注2 国立国語研究所(2022)『日本語歴史コーパス』(バージョン2022.3、中納言バージョン2.5.2 https://clrd.ninjal.ac.jp/chj/2022年12月14日確認)

 これを見ると、近世後期の江戸語ではあれほどぞんざいな発話に用いられた「ほんに」という語が、「雅」で「馬鹿丁寧」な言葉と「吾輩」に評価されています。この語に対する認識が、130年の時を経て大きく変わったのではないかということを窺わせます。なお近代以降「ほんに」は衰退し、代わりに「本当に」という新しい語が台頭して、現代に至ります。

● 「めちゃめちゃ」も「超」も 今や若者言葉ではない?

 さて、例に挙げられた「めちゃめちゃ」は、1996~2018年に放送されたフジテレビのバラエティ番組『めちゃ2イケてるッ!』のタイトルにもなっており、少なくとも私が高校生だった90年代末頃から「俗語」だったことが確認できる語です。その頃「超ベリーバッド」の略で「チョベリバ」という表現も流行りました。

 「めちゃめちゃ」や「超」は、一体いつまで「俗」で「若者」風の言葉でいられるのでしょうか。私も大人になり、最近では「若手」と言ってくれる人もだんだん少なくなってきましたが、『めちゃイケ』を見ていた世代としてはこの経過から目が離せません。

 そもそも「めちゃめちゃ」にも、「めちゃくちゃ」「むちゃくちゃ」「めっちゃ」「むっちゃ」「めっさ」など、類似する表現が複数あります。最近の大学生の会話やバラエティ番組での若い人の発言では、「めっちゃ」をよく耳にする印象があります。もしかすると、すでに「めちゃめちゃ」は少しずつ大人びてきているのかもしれませんし、あるいは役割分担をしつつもまだ「若者言葉」であり続けているのかもしれません。

 これらの表現が一体今どのような役割分担をしていて、どう変わっていくのか、それ自体も史的変遷として興味深い問題です。

【執筆者による関連論文】
*市村太郎(2014)「副詞「ほんに」をめぐって―「ほん」とその周辺」『日本語の研究』10-2、日本語学会
*市村太郎(2015)「雑誌『太陽』『明六雑誌』における程度副詞類の使用状況と文体的傾向」『日本語の研究』11-2、日本語学会

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最終更新:7/2(火) 16:02

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