「城が大好き」人気気象キャスターが厳選、その地の気候が生み出した「風光明媚」な2つの城

3/22 11:02 配信

東洋経済オンライン

NHK総合サタデーウオッチ9の人気気象キャスターである久保井朝美さんは、大のお城好き。気象予報士になってからは、お城を見る視点に「天気」という専門性が加わり、新たな疑問や仮説が浮かんでくるようになったといいます。
久保井朝美著『城好き気象予報士とめぐる名城37 天気が変えた戦国・近世の城』より、風土が異なるからこそ楽しめる「絶景」や、そのメカニズムをご紹介します。取り上げるのは、「今治城」と「松本城」です。

 霧に包まれた「天空の城」は、一般的に標高が高いお城とされていますが、平地のお城でも、霧との競演が期待できます。

■「海城」に現れる朝霧

 愛媛県の今治城は朝霧に包まれやすいお城で、まるで水上に浮いているように見えることがあります。霧の向こうから太陽が昇って朝日が差しこむと、オレンジがかって神々しいです。

 今治城は、日本三大海城(うみじろ)といわれています。お城を築いたのは、豊臣秀吉にも徳川家康にも才能を買われた、築城の名手・藤堂高虎(とうどうたかとら)です。

 瀬戸内海に目をつけ、お城に船入(ふないり:港)を設けて、直接海に出られるようにしました。現在も、今治港として港の役割を担っています。

 お城には瀬戸内海から海水が引き込まれていて、クロダイやフグ、ヒラメなど海の魚が泳いでいます。潮の満ち引きによってお城の水位が変わるのも面白いです。ほかにも、石垣には牡蠣の痕跡が見られる石があるなど、随所に「海」を感じられるお城です。

■「春の雲海」の正体

 今治城は瀬戸内海に面した「海城」ですが、これが霧の多い理由です。

 瀬戸内海は陸地に囲まれているので、霧のもととなる水蒸気を多く含んだ、湿った空気が溜まりやすいのです。そのため濃い霧が出やすく、霧が長い時間続く傾向があります。

 霧は、湿った空気中の水蒸気が水滴に変わって発生します。水蒸気のときは目に見えませんが、たくさんの水滴になると白く見えるようになるのです。

 発生する霧は2種類

 瀬戸内海で発生しやすい霧は、主に2種類あります。

 1つは、暖かい空気が冷たい海上に流れこみ、冷たい水に冷やされて空気中の水蒸気が水滴に変化することで発生する「移流霧(いりゅうぎり)」です。「海霧(うみぎり、かいむ)」ともいいます。

 もう1つは、性質が違う空気がぶつかる前線の近くで、湿った暖かい空気が冷たい空気に冷やされることによって水蒸気から水滴に変わる「前線霧」です。

 瀬戸内海で霧が出やすいのは、3月から7月にかけてです。霧の発生日数は、春先から一気に増え、梅雨明けとともに急激に減ります。

 晴れている日に陸から瀬戸内海を見ると、瑠璃色の海の美しさに心が洗われます。

 ただ、船乗りにとっては難しい海だそうです。理由の1つは霧。濃い霧が出ると、20~30メートル先が見えないこともあります。

 さらに航海を難しくしているのは、潮の流れです。大小の島がたくさんある瀬戸内海は、地形や潮の満ち引きによって複雑な潮流が生まれます。

■複雑な気象を知り尽くした村上海賊

 「鳴門の渦潮」もその1つ。昔の船はエンジンがなかったので、今よりずっと航海が難しかったはずです。村上海賊は、海賊といっても略奪をメインとするパイレーツではなく、瀬戸内海の水先案内人として、収入を得ていたそうです。

春の雲海を見るには

時期:春先から梅雨明け(3月から7月)

条件:前日が雨で、翌朝、晴れたときがチャンス! 
① 「移流霧」(海霧)の発生=気温が高くなるとき、暖かく湿った南西風が吹くとき
② 「前線霧」の発生=低気圧や前線が九州や四国・中国地方にあるとき
出典:『瀬戸内海の気象と海象』(海洋気象学会発行/2013年)
愛媛県 今治城(県指定史跡)
愛媛県今治市通町3-1-3
JR予讃線今治駅から、せとうちバスで「今治城前」下車

 戦の施設だったお城に、月を愛でる場が誕生。お城から眺める月、暗闇に浮かぶお城と月の競演、どちらも情緒があります。

 平和な時代ゆえの風情

 松本城は、徳川家康から豊臣秀吉に主君を替えた石川数正と息子・康長が大規模な改修をしました。大天守、渡櫓(わたりやぐら)、乾(いぬい)小天守は、戦国時代末期の1590年代にできたと考えられています。

 江戸を治めていた家康を見張るための秀吉側のお城で、長野県にある上田城や高島城、小諸城などとともに、秀吉は「江戸包囲網」を形成していたそうです。

 地盤が弱い場所なので、1000トンもの重さがある大天守を支えられるように、実は天守台の石垣の内側には16本の太い丸太杭が立てられていました。また、石垣が沈まないように、堀底に丸太を筏のように敷きつめて、その上に胴木を2本置いてから石垣を積んでいます。

 隠れたところにも土地に合わせた築城の工夫があるのです。

■家光をもてなすための月見櫓

 長野県にある国宝・松本城の「月見櫓(やぐら)」は、お月見をするための櫓。戦国時代には考えられない、平和な江戸時代の発想です。

 当時の城主・松平直政は、三代将軍・徳川家光のいとこでした。1634(寛永11)年に家光が松本城に来ることになったので、月見の宴でおもてなしをするために、前年の1633(寛永10)年から櫓を増築したそうです。

 昼間の月見櫓の中は明るく、とても開放感があります。三方はすべて大きな戸で、外からの日差しがたっぷり差しこんでいるのです。戸を外すと、さらに視界が広がり、屋内からお月見ができるように考えられています。

 月見櫓から見上げる月は、きっと格別に美しいでしょう。山の稜線の上に月が輝く様子を肴(さかな)に地酒を飲んだら最高だろうなと、妄想が膨らみます。

 昼間の月見櫓からは、美しい山々を眺めることができます。松本市は周りを3000メートル級の高い山に囲まれた盆地です。内陸性気候で1年を通して湿度が低く、空気が澄んでいるので遠くまでよく見えます。深呼吸をしたくなる気持ち良さです。

 外側に赤い高欄(こうらん:手すり)があるのも優美に感じられます。外から見たときに、全体的に黒い天守群のアクセントとして高欄の赤が映えています。

 さて、江戸時代の話に戻りますが、実は結局、家光は来ることができませんでした。ただ、月見櫓が増築されたことで松本城の魅力が多様になったと私は思います。

■1つの城に「戦」と「平和」が共存

 松本城は、「戦」と「平和」という、2つの顔をもつお城です。

 戦国時代に建てられた大天守、渡櫓、乾小天守、江戸時代に増築された辰巳附櫓(たつみつけやぐら)と月見櫓の5つの建物がつながって、天守群を構成しています。

 「戦」の時代(戦国時代)の建物には、弓矢や火縄銃で敵を攻撃するための穴・狭間(さま)が115カ所もあります。また石垣を登ってくる敵に、石を落としたり火縄銃を撃ったりしてお城を守るための石落としも見られます。窓は、太い格子がついた武者窓(竪格子窓・たてごうしまど)で、敵の攻撃を防ぎつつ火縄銃を撃つことが可能です。

 さらに、天守の目の前にあるお堀の幅は約60メートル、これは火縄銃を精度よく撃てるギリギリの距離です。このように、戦うための設備が各所に整っています。

 一方、「平和」な江戸時代に建てられた辰巳附櫓や月見櫓には、攻撃や防御の仕掛けは見当たりません。心穏やかにくつろげる空間です。順路通りに歩いていくと、一気に雰囲気が変わるので驚きます。

 対照的な建物がつながっていて、戦国と江戸の価値観の違いを体感することができるのが、松本城の個性です。このギャップを楽しんでください。

長野県 松本城(国宝)
長野県松本市丸の内4-1
JR松本駅から徒歩約20分

 月見櫓を備えたお城は他にもあります。ただ、松本城のように当初からお月見のために櫓を建てたのは稀です。

■月見櫓の役割は見張り台

 多くのお城では、本来の目的は「月見」ではなく「着見(つきみ)」でした。文字通り、到“着”を“見”るための見張り台だったのです。

 読み方は同じですが「着見櫓」から「月見櫓」に変わった可能性があったり、両方を表記していたりします。

 例えば、香川県の高松城は瀬戸内海に面している「海城」で、当時はお城から海に直接出ることができました。海の様子を見るのに、月見櫓は絶好の位置にあります。月見櫓から船の往来を監視したり、参勤交代から船が帰り着くのを見ていたようです。

 もしここでお月見をしたら、瀬戸内海に月光が映って光の道が海上に現れるのが見えるでしょうか。月明かりに照らされた海には、吸いこまれそうな神秘的な空気が漂っていそうです。

 また、広島県の福山城にある月見櫓も見張り台として機能していたといわれています。

 街道や城下町が見える天守の南側にあって、参勤交代などのときに城主が帰り着くのを見ていたのではないでしょうか。 

 今は目の前にJR福山駅のホームがありますが、当時は瀬戸内海に面していたので、船の往来も監視していたと思います。

 滋賀県の国宝・彦根城には、着見台(着見櫓跡)があります。現在は石垣だけで櫓は残っていませんが、石段を登ると見晴らしがよいです。城下町や琵琶湖が見えるため、城下を行き交う人々や湖上の船の往来を監視していたと考えられます。

 正式名称は「着見台(着見櫓跡)」ですが、お月見にもぴったりの場所なので愛称で「月見台」ともいわれるそうです。

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最終更新:3/22(金) 11:02

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