人間の腸には、およそ約38兆個の腸内細菌が存在している。健康的に長生きするために求められる、菌と上手に“共存関係”を築く秘訣とは――。本稿は、『「利他」の生物学 適者生存を超える進化のドラマ』(中央公論新社、鈴木正彦・末光隆志著)の一部を抜粋・編集したものです。
● 共生生物との付き合いが 健康的に長生きする秘訣
人生100年といわれる長生きの時代、健康的に長生きしたいと願う人が増えてきました。世界的に見ても、日本人の平均寿命が長いことは有名です。ただ近年、長命なものの介護を必要とする日本人も増えているため、健康的に長生きするにはどのような生活を送ればよいのかが問われています。そこで、共生生物との上手な付き合い方こそが、健康的に長生きする秘訣であるという話をしたいと思います。
最近、「腸活」がよく取り上げられます。すなわち、腸内の健康を保つことが健康の維持にとって非常に重要だということです。腸にはおよそ約38兆個の腸内細菌が共存しており、その種類は1000種にも及ぶといわれます。
なぜ、このような大量の腸内細菌がヒトの体のなかに住んでいるのでしょうか。それは、体の維持にヒトは腸内細菌を利用し、腸内細菌もまたヒトの“食べ残し”から餌を得ているという、共に利用しあうWin-Winの関係だからです。
以前から、腸内細菌はヒトには消化できない食物繊維の分解を担っているといわれていました。植物性多糖類からなる食物繊維を消化する酵素をヒトはほとんど持っていませんが、腸内細菌はこれらの酵素を多数持っています。それらの酵素を活用して、食物繊維を微生物発酵によって分解することができるからです。
分解産物は単糖類と短鎖脂肪酸(酢酸、プロピオン酸、酪酸など)になって、単糖類はエネルギー源に、短鎖脂肪酸は脂質や糖質の合成に利用されています。このとき、微生物発酵によって腸内細菌の作り出すエネルギー量は、エネルギー源全体の5~10パーセントにもなるそうです。
このような微生物発酵を行うのは、主に嫌気性腸内細菌(酸素を嫌う腸内細菌)です。しかも、腸内細菌の種類は数多く、異なる種の腸内細菌どうしで栄養を供与し合って互いに共存しています。こうしたことはヒトに限らず、一般に動物では自身の酵素で消化できない食物を消化するために腸内細菌を利用しています。
腸内細菌は、難消化性食物からの栄養やエネルギーの獲得だけでなく、他にもビタミンKなどのビタミン合成、セロトニン、ドーパミンなどのホルモン合成を行うことが明らかになっています。さらに、微生物発酵で作りだした短鎖脂肪酸によって、ヒトの体の代謝経路にも影響を及ぼすことが近年知られてきました。腸は人体の免疫のうち、70パーセントもの免疫を司っているといわれますが、そこにも影響を与えています。
実際、腸内環境を整えると免疫力が高まり、がん、アトピー、うつ病、脳梗塞、自閉症、認知症など多くの病気の予防や改善に役立つことが分かってきました。
腸内環境を整えることは精神状態にも影響し、精神を健康的に保つといいます。なお、腸内細菌の集合体は腸内フローラ(腸内細菌叢)と呼ばれていますが、この腸内フローラを形成する菌種のバランスが大いに健康に関与していることが明らかにされてきました。このように、腸内細菌が作る腸内フローラは人体のなかで多様な働きをしているので、「もう一つの臓器」ともいわれています。
● 脳と腸はつながっていて 感情面にも影響を及ぼす
腸内細菌や腸内フローラは健康面だけでなく、脳と密接に関与しており、感情面にも影響していることが知られています。そもそも、“脳”は腸の先端部分が進化した器官ともいわれており、脳と腸が密接な関係性を持っていることは不思議ではありません。腸には腸管を取り巻く腸管神経系があり、腸管神経系は5000万個の神経細胞から成り立っています。
そして、腸管神経系は迷走神経系と密接につながっており、さらに迷走神経系は脳にもつながっています。
それゆえ、感情の起伏やストレスが、胃や腸などの消化管内の分泌にも影響するのです。ストレスが多い生活をしていると、便秘になりやすいのもそのためです。この脳と腸の関係は「脳腸相関」といわれています。
脳腸相関でも、腸内細菌は重要な役割をしており、シグナル物質を通して脳に影響を与えています。しかも、腸内細菌は神経成長因子をコントロールする神経伝達物質に影響を与え、脳や神経の成長を促しているのです。
精神を安定化するホルモンとして知られるセロトニンは腸管で作られますが、それにも腸内細菌のビフィズス菌が関わっています。ビフィズス菌はセロトニンを自ら作り出します。このセロトニンは迷走神経の発達を促して脳を育てています。
腸内細菌を除去すると、どのような変化が起こるのでしょうか?こうした実験がマウスを使って行われました。その結果、抗生物質で腸内細菌を駆除して作成した無菌マウスでは、落ち着きがなくなり、学習能力も低下することが見られました。
また、恐怖反応を示さず、無鉄砲な動きをするようになりました。ところが、このマウスにビフィズス菌(善玉菌)を与えると、そうした行動がなくなり、正常なマウスと同じように振る舞うようになります。
この場合、どんな菌でもよいというわけではなく、別の腸内細菌であるバクテロイデス菌(日和見菌)を与えた場合には、何の効果もなかったそうです。無菌マウスの落ち着きがなく学習能力が低下する気質は、どうやらビフィズス菌を除去したことが原因だったようです。
他にも、GABA産生菌が少ないと行動異常や自閉症を起こすことが知られていますし、食物繊維を多く取る国では自殺が少ないという研究結果もあります。腸内細菌は、ヒトの精神衛生にも大いに影響を与えているのです。
● 赤ちゃんが老いて死ぬまで 人間は菌と共に生きている
ここまで、ヒトが生きていくうえで、腸内細菌がいかに役立ってきたかを見てきました。これに対して、腸内細菌は何のためにヒトの体内に住んでいるのでしょうか。
ヒトに限らず、動物は昔から菌のお世話になっていました。草食動物は、牧草などの草を主食にしていますが、肉を食べずとも隆々とした筋肉を持っています。これは、草食動物の消化器官に生息する菌のおかげです。
そもそも、動物は植物の細胞壁を形成するセルロースを分解できません(カタツムリなど特殊な例はありますが)。牛や羊が草を食べて消化できるのは、彼らの特殊な胃(ルーメン)に存在する菌のおかげです。
セルロースを分解できる菌が、ルーメン内で植物の細胞壁を分解し、栄養源にしているからです。さらに植物は、リグニンという細胞壁を保護する強固な物質に囲まれています。そのため、動物は植物を食べたとしても細胞壁を消化できません。
共生によって、動物はセルロースやペクチン、リグニンなど、植物の強固な細胞壁成分を分解することに成功し、植物を消化できるようになりました。分解能力がある菌の力を借りたのです。
さらに、消化管に住む菌によって栄養物の転換を行い、必須アミノ酸を含むタンパク質を獲得することもできるようになりました。このようにして、反芻動物はルーメン発酵で微生物タンパク質を作り出します。反芻動物にとって、ルーメン内の菌は生存になくてはならないものです。
同じように、乳酸菌やビフィズス菌もまた、生まれたときから亡くなるときまで、ヒトの体のなかに住んでいます。そしてお互いに利用しあっています。乳酸菌やビフィズス菌の共生は、一般に赤ちゃんが分娩時の産道を通るときに、母体の乳酸菌などが赤ちゃんの体内に入るとされています。
しかし、胎内環境に関する近年の調査によって、胎児のときからすでにこれらの菌があるらしいともいわれるようになりました。また、赤ちゃんの腸内フローラは一定ではなく、生まれたあとも変化していきます。
たとえば、母乳を与えると母乳に含まれるミルクオリゴ糖を利用できるビフィズス菌が増殖していきます。ちなみに赤ちゃんの腸内フローラが一定化し、そのヒト特有の腸内フローラが確立するのは、3歳ごろといわれています。
腸内細菌以外にも、私たちの体には様々な生き物が住みついています。たとえば、皮膚の上にも細菌が住んでいます。皮膚の常在細菌は数多く、シャーレの寒天培地に手の平を押し付けて培養すれば、いかに多くの細菌が皮膚に住んでいるかが分かるでしょう。
有用な菌だけではありません。潜伏性のウイルスや病気を起こす病原菌など、様々なものが住みついています。一般的に、ヒトの皮膚には数百億個の常在菌が存在していて、その種類は20種に及ぶといわれます。代表的な皮膚の常在菌には、表皮ブドウ球菌やアクネ桿菌があります。
これらの菌も、ヒトの健康と関わりを持っています。たとえば、表皮ブドウ球菌は、アトピー性皮膚炎の原因となる黄色ブドウ球菌を攻撃する抗菌ペプチドを作り、ヒトの皮膚を守ってくれます。また、アクネ桿菌は、普段は肌を弱酸性に保ち病原菌の侵入を防いでいます。
このように、皮膚常在菌である表皮ブドウ球菌やアクネ桿菌はヒトの皮膚を保護しており、また皮膚に分泌された物質を餌にして生きています。つまり、皮膚常在菌と人間は「共生関係」になっているのです。
いっぽう、アクネ菌はニキビの原因にもなります。人間の毛穴の奥には皮脂腺があり皮脂を分泌して皮膚を保護していますが、皮脂が過剰に分泌されると毛穴が詰まってしまいます。
そうすると、嫌気性細菌であるアクネ菌は酸素の少なくなった皮脂のなかで大繁殖し、皮脂分解酵素であるリパーゼを使って皮脂を分解し炎症物質を作り出してしまいます。いっぽう、毛穴の細胞は、増殖したアクネ菌に対抗するために免疫反応を引き起こし、炎症性生理活性物質を産生します。これらの炎症物質がニキビの原因となるのです。
● 菌と動物との共生は いつごろから始まったか
菌と動物との共生はいつごろから始まったのでしょうか。腸内細菌の場合、動物が消化器官を確立した当時から始まったといわれています。地球上に酸素が現れたときに、それまで嫌気的環境に生息していた嫌気性細菌が新たに現れた酸素から逃れるため、嫌気的環境を探し求めました。そこで見つけた場所が動物の腸内であったのでは、という説です。
つまり、口から取り込まれた嫌気性細菌が酸素の乏しい小腸や、酸素がない大腸に住みついたのではないかということです。そう考えると、嫌気的環境である腸内は、嫌気性細菌である大腸菌や乳酸菌などにとっては絶好の環境であったに違いありません。
この説が正しければ、はるか昔、ヒトの祖先の発生初期からヒトと菌は共生してきたことになり、随分と古い関係になります。一般に、生物は侵入者に対して免疫反応を示しますが、このような古くからの関係だとすると、免疫の面では徐々に寛容になっていったのだと考える他ありません。そして、お互いに利用しあい、共に進化してきたのでしょう。
腸内細菌の分類では、善玉菌、悪玉菌、または日和見菌という名称がよく使われますが、実はこの分類は、微生物学者の光岡知足氏がヒトに役立つかどうかという見地から付けた名称で、分類学的な記述ではありません。
実際の分類では、ヒトの腸内フローラは、ラクトバチラスやクロストリジウムなどのファーミキューティス門、バクテロイデスなどのバクテロイデテス門、ビフィズス菌などのアクチノバクテリア門、大腸菌などのプロテオバクテリア門の四門でほとんど占められています。
腸内フローラは、食事の変化などで菌種の割合は変動しますが、腸内細菌は常時、ヒトの体に住みつき共存しています。そして、これまで述べたようにヒトの心身に様々な影響を及ぼしています。
分子生物学の基礎を築いた先駆者のひとりであるレーダーバーグは、ヒトの体をヒト自身と菌(腸内細菌以外も含めた菌)からなる“超生命体”と呼びました。腸内細菌に限らず、自然界では地衣類のように共生が進んで、一つの生命体のように見られる例が数多くあります。
我々人間もまた、様々な生物と共存して生きていることを忘れてはなりません。
ダイヤモンド・オンライン
最終更新:11/21(火) 18:32
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