マスク氏と「大ゲンカした日本人」が元リクの必然 人材輩出企業「リクルート」強さの秘密【後編】
ベストセラーとなったリクルート創業者・江副浩正の評伝『起業の天才!』の著者・大西康之氏が、リクルート出身者の強さの秘密に迫る。
前編:「元リク」が日本サッカーを史上最強にした理由
■イーロン・マスクの「社員を半分に」に抵抗
さまざまな業界で活躍するリクルート出身者(元リク)の中でも、異彩を放つのが2023年までツイッター(現X)ジャパンの社長を務めた笹本裕氏だ。
リクルート→起業→MTVジャパン社長→マクロソフトのアジア太平洋地域統括責任者→起業→ツイッタージャパン社長→DAZNジャパン・インベストメント社長と華やかな経歴の笹本氏だが、ツイッター時代には全世界の社員を半分以下にする「イーロン・ショック」の直撃を受けた。
激動の「外資人生」を支えたのは、リクルートで学んだ「とにかくやってみる」のマインドだった。
「社員を半分にする」
イーロン・マスク氏がそう宣言したのは、2022年10月28日。マスク氏によるツイッター買収が完了したその週のことだ。
マスク氏に買収されるまで、ツイッターはある種の「理想郷」だった。IT業界きってのビジョナリーである創業者のジャック・ドーシー氏の影響が強く、「民主主義の健全な発展に貢献する上でわれわれの社会的責任は何か」と真剣に議論するような社風だった。
理想を追求するエンジニアたちが莫大な開発費を使い、世界に6億人と言われた月間アクティブユーザーが快適かつ安全に使える「最高の言論プラットフォーム」を目指していた。だが、その世界的な影響力とは不釣り合いなほど、収益力は弱く、大金持ちのイーロン・マスク氏に買収された。
理想郷の日本法人を任されていた笹本氏は、「社員を半分に」と聞いたとき、金槌で叩かれたような衝撃を受けたという。
その日から、世界で最もパワフルかつ変人と言われるマスク氏と笹本氏の戦いの日々が始まる。「人を減らせ、コストを減らせ」と迫るマスク氏に「日本には日本の事情がある」と争う。
だが「世界一のワンマン経営者」に「それは違う」と言い続けるのは、7カ月が限界だった。
「とりあえず、減らせるところまで減らしてみて。マズいことが起きたら、また雇えばいい」
「とりあえずやってみる」がマスク流。リクルートでも「とりあえずやってみろ」と教わった笹本氏もその考え方は理解したが、200人のスタッフを率いる日本法人の社長としては「はい、そうですか」というわけにもいかない。
「それなら私を先に切ってください」
思い余ってマスク氏に迫ったら、「そうだな」とあっさり切られた。ほぼ同時にメールのアクセスを止められた。
「サブスクの退会か?」
あまりのドライさに、開いた口が塞がらなかった。
■途切れないキャリアの源泉は「リクルート」での経験
今をときめくマスク氏に、ここまで強く対応できたのは「ツイッターをやめたらいつでもうちに来てください」というオファーが複数あったからだ。実際、2023年5月にツイッター・ジャパンの社長を退任した笹本氏は、次の月にはKADOKAWA、サンリオ、吉本興業ホールディングスの社外取締役になり、2024年2月にはDAZNジャパンの社長に収まっている。
キャリアが途切れないのは、ジェットコースターのようなリクルート時代に、鍛えられ、打たれ強くなったからだろう。
笹本氏は1964年にタイのバンコクで生まれた。帰国子女の笹本氏はその英語力を生かし、大学時代の4年間はアメリカのテレビ局NBCのニュース部門で通訳のアルバイトに精を出していた。
帰国子女で世情に疎く、バイトに夢中だったこともあって、すっかり就活に出遅れ、周りがしっかり内定をもらったころに、就職活動を始めた。馴染みのあるNBCなどテレビ局に行ってみたが、当時のアメリカのテレビ局はケーブルテレビに押されてリストラの嵐。
仕方がないので段ボール箱で分厚い「就職情報」を送ってきたリクルートという会社を覗きに行くと、まだ採用をしていて、天ぷらをご馳走してくれた。
「いい会社じゃないか」
時は1988年。創業者の江副浩正氏が「紙からデジタルへのシフト」をぶち上げ、人事部に「1000人採用しろ」と発破をかけていた。
「とにかく手当たり次第、採用してましたから。あの年じゃなかったら僕はリクルートに入れなかったと思います」
笹本氏はそう振り返る。
就職先を伝えると祖母が言った。
「よかった、よかった。プロ野球をやってるくらいだから、立派な会社なんだろ」
「おばあちゃん、それヤクルト」
当時の知名度はそんなものだった。
■リクルート名物「ビル倒し」の洗礼
配属先は新しい事業を立ち上げる「企画推進課」。ちょうど海外の不動産情報を扱う業界向けの情報誌を創刊したばかりだった。その春に就職した同世代がお遊戯のような「新人研修」を受けている頃、ビルの上から下まで飛び込み営業をかける、リクルート名物「ビル倒し」の洗礼を受ける。「とりあえず売ってこい」と先輩に名刺を渡された笹本氏は東京の街をさまよっていた。
情報誌を主力とするリクルートで「売る」とは「広告を取る」ことだが、新人の笹本氏にはページ当たりの単価も分からない。
「いくらで売ればいいんですか?」
恐る恐る、先輩に聞くとどやされた。
「やりもしないうちから、いちいち聞くんじゃねえ!」
大きなカバンに見本誌を詰め込んで電車に乗る。海外の物件を扱っていそうな不動産会社に飛び込んで営業をかける。どこにも相手にされず、思い余って突撃した新宿の会社は「そのスジの会社」。ほうほうの体で逃げ出した。
だが雑居ビルに入る不動産会社を上の階からアポなしで全部訪問する、リクルート流の「ビル倒し」をやっているうちに、だんだんコツがつかめてくる。
時はバブル景気の絶頂期。海外のリゾートマンションやコンドミニアムを扱う不動産会社が我が世の春を謳歌していた。うまくプレゼンさえすれば、どんどん広告を出してくれる。半年もすると、笹本氏は「トップ営業」の仲間入りを果たした。
■創業者が逮捕されたリクルート事件
順風満帆に見えた笹本氏のサラリーマン人生だったが、入社11カ月目の1989年2月、リクルート創業者で当時会長の江副浩正氏が贈賄の疑いで逮捕された。政治家や官僚への子会社リクルート・コスモスの未公開株譲渡が賄賂とみなされた「リクルート事件」である。
世間のリクルート・バッシングは凄まじく、それは新入社員の笹本氏にも及んだ。
「笹本くん、僕にもお金くれるんだろ?」
入社1年に満たない笹本氏には、会社を選び直すチャンスもあった。そうしなかったのは会社にこう説明されたからだ。
「江副さんが何をやったかは知らないが、少なくとも俺たち社員は悪いことをしていない。取引先やマスコミに聞かれたら、知っていることは全部話していい」
笹本氏は思った。
(この会社はいい会社だ)
多くの社員が笹本氏と同じ気持ちだったのだろう。東大で心理学を学んだ江副氏は「目標達成意欲」の強い学生を大量に採用していた。逆境に追い込まれたことで、彼ら彼女らに火が付き、驚くべきことに事件があった1989年度、リクルートは最高益を叩き出す。
リクルート事件の嵐が収まった1993年、笹本氏は会社の留学制度に手をあげる。狭き門だったが「リクルートを再生するための勉強をしたい」という論文が認められ、ニューヨーク大学への留学を勝ち取った。そのころ、アメリカでは、アル・ゴア副大統領が「情報スーパーハイウェイ構想」をぶち上げ、インターネット産業が爆発寸前の状況にあった。
大学で「情報システムマネジメント」と「ファイナンス」の2つを専攻した笹本氏は多忙だったが、ときどき学業の手を止めて、やらなければならない「仕事」があった。アメリカにやってくる社長の河野栄子氏とランチを共にし、「インターネット」について講釈する仕事だ。
■「だったら、あなたがやってみなさいよ!」
今、アメリカで起きているネット産業の勃興がどんなにすごいことなのか。その息吹を肌で感じていた笹本氏は、口角泡を飛ばして熱弁する。だが河野氏との会話は噛み合わない。
「それって『ダイヤルQ2(ダイヤルキュー=NTTが提供していた情報料代理徴収サービス)』みたいなもの?」
「違います」
「分かった。『キャプテン(NTTが1980年代に展開した付加価値情報網)』と同じね」
「それも違います」
ネットの本質をなかなか理解してくれない河野氏に、笹本氏は啖呵を切った。
「このままじゃ将来リクルートは潰れますよ!」
河野氏は笹本氏をキッと睨んで言った。
「だったら、あなたがやってみなさいよ!」
笹本氏が帰国した1995年、リクルートに電子メディア事業部が誕生した。部員は笹本氏を含めて6人。与えられたパソコンは1台きりだった。
最初の道はか細いものだったが、それはやがて世界的な求人検索サイトのindeed(アメリカ)を擁する今のリクルートにつながっていく。
「だったら君がやれば?」
それは江副氏の口癖でもあった。
東洋経済オンライン
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最終更新:2/14(金) 9:02