はかない別れの後、ようやくわかった夕顔の正体 「源氏物語」を角田光代の現代訳で読む・夕顔⑧

3/24 14:02 配信

東洋経済オンライン

輝く皇子は、数多くの恋と波瀾に満ちた運命に動かされてゆく。
NHK大河ドラマ「光る君へ」で主人公として描かれている紫式部。彼女によって書かれた54帖から成る世界最古の長篇小説『源氏物語』は、光源氏が女たちとさまざまな恋愛を繰り広げる物語であると同時に、生と死、無常観など、人生や社会の深淵を描いている。
この日本文学最大の傑作が、恋愛小説の名手・角田光代氏の完全新訳で蘇った。河出文庫『源氏物語 1 』から第4帖「夕顔(ゆうがお)」を全10回でお送りする。

17歳になった光源氏は、才色兼備の年上女性​・六条御息所のもとにお忍びで通っている。その道すがら、ふと目にした夕顔咲き乱れる粗末な家と、そこに暮らす謎めいた女。この出会いがやがて悲しい別れを引き起こし……。
「夕顔」を最初から読む:不憫な運命の花「夕顔」が導いた光君の新たな恋路

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 夕顔 人の思いが人を殺(あや)める

 だれとも知らぬまま、不思議なほどに愛しすぎたため、
ほかの方の思いが取り憑いたのかもしれません。

■なんとか気持ちを奮い立たせ

 帰りの道中は、草にたくさん露が下りている上に、ひとしお濃い朝霧が立ちこめていて、光君は、どこともわからずにさまよっているような気持ちになる。昨夜、まだ生きていた女が横たわる姿や、互いに着せ掛け合って寝た自分の紅(あか)い着物が、女の亡骸に掛けてあったことを思い出し、自分たちにはいったいどんな宿縁があったのかと、道すがらまたしても考えてしまう。光君が馬にもしっかり乗れないほど衰弱しているので、また惟光(これみつ)が付き添っていくのだが、賀茂川堤のあたりで光君はついに馬からすべり落ちてしまう。ひどく具合悪そうに、

 「こんな道ばたでのたれ死んでしまうのかもしれないな。とても帰り着けるようには思えないよ」

 などと言うので、惟光はひどくうろたえる。自分さえしっかりしていれば、いくら光君が行くと言ってもこんなところにお連れ申したりしなかったと、気が気ではない。川の水で手を洗い浄(きよ)め、清水寺の観音さまにお祈りするが、それにしてもどうしていいのやら、惟光は途方に暮れる。光君はなんとか気持ちを奮い立たせて、心の中で御仏(みほとけ)に念じ、ふたたび惟光に介抱されながらなんとか二条院に帰り着いた。

 まったくわけのわからない深夜の忍び歩きを見て、女房たちは、

 「まったくお見苦しい。いつもより落ち着きなく、せっせとお忍び歩きなさっているけれど、昨日はずいぶんとご気分が悪そうでしたのに。どうしてこうもうろうろお出かけなさるのかしら」と嘆き合うのだった。

 自分で言った通り、光君は夜になるとそのまま苦しみ続け、二、三日しかたたないのにどんどん衰弱してしまった。このことは帝の耳にも入り、ひどく心配して、病治癒のため、方々で絶え間なく、大騒ぎして祈禱(きとう)をさせた。祭や祓(はらえ)、加持祈禱、とにかくありとあらゆることを行った。この世に二人といないであろう、物の怪に魅入られても無理もない美貌の持ち主がこうした病状とあっては、やはり長生きはできないのかもしれないと、天下くまなく騒ぎとなった。

■快方に向かいはじめた

 そんなに重い病状でありながら、光君はあの右近を山寺から呼び寄せ、自分の寝室近くに部屋を用意した。惟光は気を動転させながらも、なんとか自身を落ち着かせ、主人を亡くして心細そうな右近の世話を焼き、面倒をみた。光君も、いくぶん気分のいい時は右近を呼んで用を言いつけるので、右近も、だんだん邸の勤めにも慣れてきた。悲しみの意を表してひときわ色の黒い喪服を着ている右近は、顔立ちはいいとはいえないが、とくに目立った欠点のない若い女房である。

 「不思議なくらい短かったあの人との宿縁のために、私ももうこの世にはいられないのだろう。長年頼りにしてきたご主人を失って、あなたも心細いだろうと思うよ。それではあんまり気の毒だから、私が生きているあいだは万事面倒をみようと思っていたけれど、もうじき私もあの人のところへ行くようだよ、残念なことだけれどね」

 と、光君はひっそりと言って、さめざめと泣く。今さらどうすることもできない姫君のことはさておいて、光君にもしものことがあったらたいへんなことだと右近は思う。

 二条院の人たちは地に足もつかない様子でうろたえている。帝のお使いは雨脚(あまあし)よりも頻繁にやってくる。帝が心配し心を痛めていると聞くと、光君は畏れ多さになんとか元気を出そうとする。左大臣家でも懸命に奔走し、左大臣が毎日訪れては、医者や薬の処置を手配をする。

 そんな甲斐(かい)あってか、二十日あまり、一向に快復することなく光君は臥せっていたが、これといって後もひかずに快方に向かいはじめた。その快癒と穢れの忌み明けがちょうど同じ夜だった。光君は、心配してくれた帝の気持ちが畏れ多くもありがたいので、その夜、内裏(だいり)の宿直所(とのいどころ)に参内した。退出すると左大臣が車を用意していて、光君を左大臣邸に連れ帰り、病後の謹慎についてこまかく言い聞かせる。光君はまだぼんやりとしていて、その後しばらくは、まるで別世界に生まれ変わったような気持ちでいた。

 光君が全快したのは九月の二十日頃だった。ひどく面やつれしているが、かえって気品が出て、うつくしさに磨きがかかったようである。その光君は、しょっちゅうもの思いに沈んでは、声を出して泣いている。それを見て不審に思う女房もいて、物の怪が憑いてしまったのではないかと言い合った。

 ある穏やかな夕暮れ、光君は右近を呼んであれこれと思い出話をしていたが、ふと言った。

 「やっぱり合点がいかないな。あの人は、どうして自分の素性をあんなにも隠していたのだろう。本当に『ただの海士(あま)の子』だったとしても、あれほど思っていた私の心を何も知らないかのように頑(かたく)なに隠しているんだから、恨めしかったよ」

 すると右近が言う。

■つまらない誤解

 「どうしてご主人さまが頑なに隠したりなどなさいましょう。そもそもあんなに短いあいだのことです、ご自分からいつ名乗ればよいのかおわかりにならなかったのではございませんか。最初から、異様な出(い)で立ちでこっそりいらしてましたから、本当に現実のこととは思えないとご主人さまはおっしゃっておいででした。あなたさまがお名前を隠していらっしゃっても、どなたかはうすうすわかっておいででしたよ。それでも、ただの気まぐれで、本気ではない遊びのお相手だから源氏の君とみずからお名乗りなさらないのだろうと、そのことをつらく思っていらっしゃいました」

 「お互いにつまらない誤解をしたものだな。そんなふうに隠しておくつもりはなかったんだ。ただ、ああいう許されない関係ははじめてのことだった。主上(おかみ)からお小言をいただくし、ほかにもいろいろと気を遣う。女の人に軽口を叩いてもすぐに知られて評判になってしまう。でもね、あの夕方のできごとから、あの人のことがどういうわけか忘れられなくて、無理を押してでも逢いにいってしまった……それも思えば、こうしてすぐに別れてしまう縁だったからだね。そういうことだったのかと思いもするし、恨めしくもある。こんなにはかなく終わる縁なら、あんなに私を惹きつけないでくれればよかった。ねえ、もっとくわしく話しておくれ、もう何も隠す必要はないじゃないか。七日ごとの法要の供養も、名前がわからなくてはだれのためと祈願すればいいんだい」

 それを聞くと、右近は口を開いた。

 「わたくしが何を隠すことがありましょう。ご自身が秘めていらっしゃったことを、お亡くなりになった後でわたくしが軽々しく申すのもどうかと思っていただけでございます。──女君のご両親は早くにお亡くなりになりました。おとうさまは三位中将(さんみのちゅうじょう)でいらっしゃいました。女君を本当によくかわいがっていらっしゃったのですが、ご自身のご出世も思うようにいかないのをお嘆きで、お命まで思うようにいかずにお亡くなりになりました。その後、ふとしたご縁で、頭中将がまだ少将でいらっしゃった時分、女君の元にお通いになるようになって……。三年ばかりはご熱心にお通いになっていらっしゃいましたが、去年の秋頃、頭中将の奥さまのご実家である右大臣家から、たいそうおそろしいことを言ってきたのでございます。女君はともかく臆病でございますから、それはもうこわがられまして、やむなく西の京の、乳母が住んでおりますところにこっそり身を隠すことになりました。そこもずいぶんとむさ苦しく、住みにくくて、山里に移ろうかとお考えになっておいででしたが、今年からは方角が悪うございましたので、方違(かたたが)えのためにあのみすぼらしい宿においでになったのです。そんなところにあなたさまがお通いくださるようになったので、女君もずいぶんとお嘆きのご様子でした。並外れて恥ずかしがりやでございまして、人恋しくもの思いにふけっていると人から見られるだけでも恥ずかしがっておいでで……ですからいつもお目に掛かる時は、あっさりとしたご対応をなさっていたように存じます」

 やはり彼女は頭中将が話していた女だったのだと知り、光君はますます女を不憫に思う。

■逝ってしまったあの人の忘れ形見

 「幼子を行方知れずにしてしまったと、前に頭中将が嘆いていたが、彼女にはそういう子がいたのか」と光君は訊いた。

 「さようでございます。一昨年の春にお生まれになりました。女の子で、とてもかわいらしゅうございます」と言う右近に、

 「どこにいるんだい。だれにも知られずに私のところへ連れてきてくれないか。あんなに呆気(あっけ)なく逝ってしまったあの人の忘れ形見だと思えば、少しはなぐさめられるよ」光君は言う。「頭中将にも知らせるべきだろうが、そうしたところであの人を死なせてしまった私が恨まれるだけだろう。父である頭中将とは親族だし、母の女君とは恋人だった私が、その子を引き取ってもなんの問題もないだろう。そのいっしょにいるという乳母に、私のところだとは知られずに、うまく言い繕って連れてきておくれ」

 「それならばわたくしは本当にうれしく存じます。あのごたついた西の京でお育ちになるのはお気の毒だと思っておりました。五条ではちゃんとお世話する人がいないというので、あちらにいらしたのです」と、右近も同意する。

 次の話を読む:光源氏の内に混在する「亡き人への情」と「浮気心」(3月31日14時配信予定)

 *小見出しなどはWeb掲載のために加えたものです

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最終更新:3/25(月) 12:32

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