和田誠さんが妻の平野レミさんから「愛情が足りない」と怒られた理由

4/23 15:02 配信

ダイヤモンド・オンライン

 200冊以上の著作を残したイラストレーターの和田誠さん。装丁やイラストのお仕事も加えると枚挙にいとまがありません。しかしながら、ご自身やご家族について書いた本は決して多くありません。そんな“めったに自分を語らなかった”和田誠さんが、家族や仕事、趣味、交友関係などについて書いた貴重なエッセイ『わたくし大画報』を42年ぶりに復刊することとなりました。その中から和田誠さんだから書ける妻・平野レミさんとのエピソードや知られる一面を抜粋して紹介します。

● わが家の猫「桃代」

 わが家に猫が来た。

 妻はこの猫の種類をアビタシオンだと言う。高級マンションのような名前の猫だなあと思ったが、よく聞いてみたらアビシニアンというのであった。そう言えば結婚した時に、いずみたく氏から蘭を贈られたのでありますが、この蘭の名をシンポジウムだと言うのですね。蘭の品種について討論でもするみたい。これも人に聞いたらシンビジウムというのだそうである。

 さて、この猫だが、実は片親がアビシニアンで、どちらかが雑種なのだそうだ。ぼくはその方を好みます。名門は肌に合わない。ところでクレオパトラが飼っていた猫がアビシニアンだったそうで、アビシニアというのはエジプトの地名なのだという知識を妻はどこからか仕入れて来た。妻はもうクレオパトラになった気でいるようである。

 七月十四日生まれだから誕生日を憶えやすい。しかし猫の誕生日を憶えていても役に立つかどうか。それはそうと名前であるが、妻は「桃代」と名づけたのであります。何故か妻は幼い頃から猫に対して「桃代」というイメージがあったのだそうで、もっと正確には「桃代のシン子さん」というのが適当なのだと言う。

 「だって一重瞼の人はシン子さんていう感じだし、猫は一重でしょ。どうしても洋子さんて感じじゃないもん」

 と言うのだが、このへんを理解できる人は少いのではないかと思うのですけれども。

 しかし飼ってみると相当可愛いね、猫という奴は。夫はもともと猫なんぞ飼うな、と言っていたのである。アパート借りてる分際で猫でもねえだろ。猫をうちに入れたら俺が出て行く、と宣言していた。それがどうだろ、ふと気がつくと誰もいない時に「桃代や、もうごはんは食べたかい」などと猫に向って話しかけていたりする。これは相当恥ずかしいことだと思うのだ。まだ猫と政治の話などはしていないから、いくらか救われているのだが、そのうち「桃代や、文藝春秋を読んだかい」なんて言うようになったらどうしよう。

 猫は神秘的であるという。魔物だという人もいる。桃代を飼うふた月ほど前に、友人が外国旅行するというので、二週間だけ猫をあずかったことがある。ドジという名の猫だったが、実はこの二週間で多分に猫に魅せられた。

 それはさておき、このドジをあずかると間もなく、「きみは猫である」(マグダ・レーヤ 晶文社)という本の装幀に猫の絵を描く仕事が来た。家にモデルがいるのでちょうどよかったのであった。そして桃代が来たとたんに、都築道夫氏の「猫の舌に釘をうて」の装幀と、田中光常氏の猫の写真集をレイアウトするという仕事を依頼されたのである。招き猫ですね。玄関に飾っておいてもいいくらいだ。

 ところがペンが動いていると机に登ってじゃれつくし、じゃれるのに飽きるとその場所に坐りこむ。つまり原稿用紙のちょうど書いてる部分に坐ってしまうから、この場合は魔物じゃなくて邪魔物だ。

● 妻のために作るスパゲッティ

 妻が寝込みますと、いちばん困るのは食事であって、掃除洗濯などはうっちゃらかしておいて汚れるままになっても驚かぬが、つまり独身生活が長かったからね、そんなことは馴れていて平気だけれど、めしは抜かすわけにいきません。一人だと出かけて行って食えばいいのだが、病気の妻に食わせなければならぬ。そこでテンヤ物を取るということになる。これがいちばん簡単。しかしテンヤ物はできれば避けたいと思う。冷めちゃうとかね、めん類ならばのびちゃうとか、持ってくる店は少いからバラエティに欠ける、待たされる、値段の割にはうまくない、エトセトラの理由がありまして。

 では俺が作る、ということになるのでありますが、これが容易ではない。経験がないから何をどうすればどういう味になるのかわからない。ただし一つだけ得意なものがある。スパゲッティである、これはただ茹でればいいし、ミートボールとか面倒なことはしないからね、チーズをかけるとか、鱈子をまぶすとか、簡単にやっちゃう。鱈子をまぶすのは渋谷のNHKのそばにある「壁の穴」というスパゲッティ屋の親父さんの発明らしいが、これが実にうまい。茹で方については、伊丹十三氏の「女たちよ!」(文藝春秋)という本で教わった。実はこの書物を読んだらスパゲッティがあまりにうまそうに記されていたので、俺もやってみようという気になったのである。

 ところが「スパゲッティ作ってやろうか」と言うと妻は「いやだいやだ」と拒否する。それは前回の病気のときに、ぼくがこればっかり作っていたのですっかりイヤになっちゃったらしいのだ。そこで仕方なく冷蔵庫から手あたり次第いろんなもの出して、フライパンでいためたりして創作的な料理を作った。食えば死ぬというほどの味でもないものができる。ぼくは「うまいうまい」と言いながら食ってみせるのですが、妻は一口でやめてしまう。「どうして食わない」と聞くと「おなかがいっぱい」と答える。そうなのかなと思っていると、ぼくのスキを見て近所のソバ屋に電話かけてキツネうどんなんか注文しているのだ。結局テンヤ物になってしまうのである。

● 「絵を習うことにした」どんどんうまくなっていく妻

 妻が突然「絵を描く」と言い出したのは、二年程前のことであった。ある雑誌の「絵入り随筆」の欄から依頼されたためである。引き受けてから「困った困った」と言っているのですね。絵なんか描けないから。で、亭主に「描いてよ」と言った。そんなこと出来ますか。

 亭主はこう見えてもプロのイラストレーターだからね。描いたらバレちゃうじゃないか。「駄目」と言ったら仕方なく自分で描いた。たしか自分が魚屋に買物に行く図であったと思う。うまくもないが下手でもないという出来栄え。シロウトにしてはですよ。

 それが始まりである。まもなく「絵を習うことにした」と言うわけ。ラジオのディレクター橋本隆、アナウンサー遠藤泰子夫妻と語らって、先生を招いて絵の勉強をやり出したのだ。先生とは誰かと申しますと、高名なイラストレーター灘本唯人さんである。贅沢なもんですね。

 先生の教え方がうまいとみえて、三人の生徒は短期間に長足の進歩をとげた。絵なんてものは、誰だって描けるもので、シロウトだから描けない、と自分で思うから描けないだけなんです。ちょっと慣れて先生からも「うまいよ」なんて言われると自信がついて本当にうまくなっちゃう。今は妻をのぞく二人の生徒と先生が忙がしいために画塾は中断しているが、それでも妻は毎月連載で書く文章に自分で挿絵なんか描いているのである。これが結構さまになっていたりするので、プロである亭主は困ることもあるのだ。「手伝ってるんだろ」と言われるからである。妻の親父さんから電話がかかって、「今度は君が描いたんだよな」なんて言われる。

 イラストレーター仲間はさすがに違いをわかってくれるのですが、そのかわり山下勇三などは「猫の絵は女房の方が圧倒的にうまい」なんて言うのである。亭主の立場がなくなるじゃありませんか。

● 「愛情が足りない」と怒る妻

 赤ん坊と生活するのは一種の闘いでありまして、何故なら赤ん坊ほどエゴイズムむき出しの生物はいないのではないか。共同生活者をおもんぱかるということを知らないから、自分の都合でぐずる、泣き叫ぶ。その度に大人は原因を究明すべく努力をし、ミルクを与え、おむつを変え、抱く、あやす、のテンテコ舞イ。そのため仕事の予定が大幅に狂うこと、しばしばであります。

 しからばそういう生き物が憎らしいかと言えば、そんなことはない。これが親の妙なところである。赤ん坊というものは、泣くばかりではありませんから。すなわち、笑うのね。歯のない口を三角に開けて笑顔を作る。一体何が面白いのかよくわからぬことが多いのだが、泣く場合と違って原因究明の必要がない。ケケケと声を立てて笑うことすらある。実際、あの笑顔を見るためなら、何物をも犠牲にしてもいい、という気持になっちゃうのですね。そこで笑わせようと努める。実にさまざまな演技を、親は赤ん坊の目前でいたしますね、笑わせるために。しかしあの姿を他人には見られたくないなあ、まったくの話。

 ある夜、赤ん坊を風呂に入れた。四カ月め頃のことだったと思う。風呂の中で赤ん坊はウンチをした。赤ん坊専用の風呂じゃないです。一緒に入っているのだ。赤ん坊のウンチというのはコロッとしておりません。軟便である。したがって湯の中で、カキタマのようになっちゃった。「ああっ!」と叫んでも遅いのよね。しかしなるべくウンチまみれにならぬよう、身体を動かさないようにして、洗面器でそのカキタマをすくっては外へ捨てていた。ところがその光景を見て妻は怒った。愛情が足りないというのである。自分の子どものウンチなんだから、捨てることはない、そのままにしておくべきだと言う。これは母親の強さでしょうね。父親はなかなかそこまで徹底できない。

 しかし気がつかないだけでションベンはいつでもしてるんだろうなあ。

● 「唱ちゃんが車とぶつかった」妻からの電話

 事件があった。結果は大事件にならなかったのだが、まあわが家にとっては大事件だ。四歳の長男が自転車に乗っていて、ハイヤーとぶつかったのである。

 曲り角で、お互いにスピードは出していなかったと見えて、怪我はなかった。母親と一緒に近所の公園に行き、その帰り道、自転車が一瞬早く角を曲ったと思ったら、キキーッというブレーキの音と、ガシャンという自転車の倒れる音。「もうダメだと思った」と妻は言う。

 駆けつけると自転車が倒れ、子どもは投げ出されている。ハイヤーの運転手が降りてきて、自分の車にキズがあるのを見つけ、「このキズをどうしてくれるんだ」と妻に言ったという。

 妻は怒り心頭に発した。車のキズと人命とどっちが大事ですか! と怒鳴ったらしい。その話を聞いてぼくも怒った。子どもが目の前に倒れているのに車のキズの文句を言う奴がいるかね。ぼくが現場にいたら、きっと殴りかかっていただろう。妻は怒鳴りながら子どもを抱き、倒れた自転車を引きずって、交番へ行った。途中で運転手の態度が変わり、自分は子どもに当たっていない。目の前で子どもが倒れたのだと言い出した。このままでは不利だと思ったのだろうが、だったら車のキズはどうなるんだ。

 やがてハイヤー会社の上役がやってきて、子どもと母親を救急病院につれて行って一応検査をした。子どももケロッとしているし、医者も大丈夫だ言う。ただし、まれに後遺症が出ることがあるから注意していろということであった。まれとは言え、可能性皆無ではないから一件落着ではないのだが、とりあえずカスリ傷さえないのだから、奇蹟みたいなものである。

 しかしこの報告を仕事場の電話で受けたぼくは驚きましたね。第一声が「唱ちゃんが車とぶつかった」でしょう。心臓が止まるかと思った。「怪我はないけど」が次にきたのだが、やはり本人を見るまでは安心できない。予定していたことをキャンセルして家に帰ったのであった。

 帰ると子どもは元気なのに、妻が胸をおさえて痛がっている。怒鳴りすぎて呼吸がおかしくなった上に、子どもを抱き自転車を引きずり、さらに下の子の乳母車も押したから胸のスジがどうかなっちゃったのだと言う。二本の腕でそんなにいろんなことができるのかと思うが、気が転倒していて自分の行動についてはよく憶えていないのだ。火事場の馬鹿力のようなものが出たんでしょうね。

 それからしばらく、妻は神経が高ぶったまま、亭主の方も似たようなもので、つまらぬことから夫婦ゲンカになったり、思わぬ影響があった。わが家に平穏が戻るまで、事件後十日ほどかかったのである。

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最終更新:4/23(火) 15:02

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