ライター必見「上手な文章」に欠かせない3つの要素とは?なぜ「12歳の子が読める文章」を目指すといいのか
事件ルポから教育問題まで、独自の視点で社会に切り込んできたノンフィクション作家・石井光太さん。石井さんの新著『本を書く技術』では、自身の取材・執筆の方法論を初めて明かしています。
取材時のノート術や文章表現のコツ、文章構成の基本などを同書から抜粋し3回にわたってお届けします。
■質の高い文章表現とは何か
原稿執筆を生業としたい人にとって、「どうすれば上手な文章を書けるか」というのは永遠の課題だ。
スポーツの世界でもそうだが、活字の世界でプロとして食べていきたければ、それなりの勉強と訓練が必要となる。私は学生時代から今に至るまで、本を月に最低30冊は読んでいるし、毎日数千字の文章を書いてきたが、プロならごく当たり前のことだ。
文章の熟練度は、読書量、執筆量に比例する。私自身を振り返っても、デビューしたばかりの頃は、敬愛する作家の影響を受けて修辞技法にこだわって、描写が過剰になりがちだった。ただ、5年目くらいにはそれが薄まり、10年目くらいには新たな文体が生まれた。15年目くらいには、テーマによって複数の文体を書き分けられるようになった。
文章スキルを磨くのに遅いということはない。成長するには、「真剣に本を読んで書く」ということを日々淡々とやりつづけていくだけだ。
これを踏まえた上で、本稿ではノンフィクションにおいてプロとして優れた文章表現とは何かについて考えたい。要素を三つ挙げれば、次のようになる。
1 万人に伝わる表現であること。
2 文章にリアリティがあること。
3 テキスト以上の世界を読者に想像させること。
最初の「万人に伝わる表現」というのは、プロとしては当然のことだ。
WEB記事にせよ、雑誌にせよ、本にせよ、それらはあらゆる人が読むメディアであり、専門知識を持っている人だけが読めるとか、特定のファンだけが満足するといったものであってはならない。
だが、ノンフィクションは科学や経済といった複雑な問題を題材にしたり、歴史や海外の出来事を扱ったりするため、書き手がついそこで使用されている言語を多用しがちだ。こうした作品は、幅広い読者を獲得することができない。
ノンフィクションの中でも売れている作家は、どんなにニッチなテーマを取り上げていても、万人に開かれた表現で本を書いている。小中高の教科書や入試問題に用いられているものもあるし、漢字にふりがなをつけただけで児童書として再刊行されているものもある。
■12歳の子が読める文章を目指し、作品を磨き上げる
私が出した大人向けの著書もいくつか児童を対象としたシリーズになっているが、それは本を書く時に「12歳の子どもが読める文章」を目指しているからだろう。少なくとも表現に関しては12歳の子が最後まで読めて、理解できて、心を揺さぶられる体験ができるものにするように意識しているのだ。
これを言うと、「え? そんなレベルまで落とすんですか?」と驚かれることがあるが、考えてもみてほしい。
小説の好きな子なら、12歳だって村上春樹さん、宮部みゆきさん、三浦しをんさん、辻村深月さんらの作品を難なく読んでいる。文体も内容も大人向けなのに、普通に読める。
元来はノンフィクションも同じはずなのである。純粋に人間ドラマ、社会ドラマとして描けば、小中学生だって読めるものになる。
たとえば『聖の青春』は、内容はそのままで、ふりがなとイラストをつけただけで、小中学生を対象にした「角川つばさ文庫」のシリーズとして刊行されている。
著者の大崎善生さんは将棋の戦術や、将棋界の背景の説明を極力減らし、平易な言葉で青春ストーリーを書くことに徹している。だから、ふりがなさえつければ、小学校高学年から読めて、感動できる作品になっているのだ。
実は、本の対象年齢を下げるのは、読者層を広げるだけでなく、物語をシャープにすることにも役立つ。
書き手はできるだけストーリーから余分な“贅肉”を削ぎ落とし、鋭いものにしなければならない。本の対象年齢を下げれば、書き手は否応なく専門的な用語や小難しい解説を排除しなければならなくなる。これによってストーリーがより磨き上げられるのだ。
万人が読める作品にするというのは、文章のレベルを幼稚なものにするということではなく、作品を極限まで磨き上げ、読者の心にストレートに届くようにするということなのである。
■優れた文章は五感に訴える
では、具体的に万人に届く文章をいかに書くのか。
この問いに、修辞技法を答える人も多いだろう。文章表現の勉強の一環で、比喩法、倒置法、反復法、擬人法、省略法といったレトリックの使い方を学んだ人もいるかもしれない。
ただ、何度も言うように、ノンフィクションで求められている文体は昔の文豪や稀代の名文家のような時代がかったものではない。そうした文体で評伝や企業ルポが書かれれば、読者は逆に噓っぽく感じるだろう。
現実を描くノンフィクションで大切なのは、読者に文章を通じてリアリティを感じてもらうことだ。この時に鍵となるのが、〝人間の五感を言葉にして表現する描写〞なのである。
描写というと視覚的なものに頼りがちだが、「嗅覚」「味覚」「触覚」「聴覚」「視覚」にまで拡張するのである。むせ返るような臭い、舌に残る濃厚な味わい、ヒリヒリとした手触り、鼓膜をつんざく音量、顕微鏡でしか見えない細かな視界……。描写の中に五感を表現する言葉を組み込むと、一気にリアリティが高まる。
具体的にそれがどのようなものか見ていきたい。
まず、『もの食う人びと』を例に、味覚がどのように描かれているかを紹介しよう。次のシーンは、著者の辺見庸さんがバングラデシュの首都ダッカの駅周辺を彷徨い、粗末な屋台で提供される食事を口にする描写である。
テント横の空き地を起点に、海草のようなものが、線路沿いに蜿蜒(えんえん)とへばりついている。小枝の柱にボロをかけただけの、スラムの小屋の群れだ。カレーの香りはそこから漂っていた。
(中略)
遠吠えで私も空腹を感じた。駅前広場の屋台に入る。直径七十センチほどのブリキの大皿に山盛りになったビラニ(焼き飯)とバット(白いご飯)に食欲をそそられた。いずれの大皿にも骨つきの鶏肉、マトンがたくさん載っている。
(中略)
ここでの習慣に従い、右手の指だけ使って食べてみよう。慣れると、舌だけでなく指もまた味を感じるというではないか。
そうなりたいものだと、小皿のご飯におずおずと指を当てると、おや、ひんやりと冷たい。
安いのだから文句は言えない。親指、人さし指、中指、それに薬指まで動員しても、下手なものだからボロボロとみっともなくご飯粒をこぼしてしまう。
それでもなんとかご飯をほおばった。希少動物の食事でも観察するように、店の娘と野次馬が私の指と口の動きに目を凝らしている。
インディカ米にしては腰がない。チリリと舌先が酸っぱい。水っぽい。それでも嚙むほどに甘くなってきた。
お米文化はやっぱりいい、とうなずきつつ、二口、三口。次に骨つき肉を口に運ぼうとした。すると突然「ストップ!」という叫び。
「それは、食べ残し、残飯なんだよ」
■「複数の感覚」を使い分ける表現術
いかがだろう。辺見さんの味覚を中心にした描写によって、読者の口にはダッカのスラムで食される残飯の味が濃厚に広がるのではないだろうか。
腐敗しかけた残飯の酸味、水っぽさ、糖質のほのかな甘さ……。
文章を通して舌先にこれらを感じるからこそ、読者は訪れたことがなくても、喧騒のダッカの屋台に座り、残飯を手づかみで食べているような身体感覚になるのだ。
これらを踏まえて、「複数の感覚」を使い分ける表現術は『本を書く技術』を参照してほしい。
東洋経済オンライン
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最終更新:11/30(土) 13:32