大谷翔平選手が投稿した“ドジャーブルー”の鉄瓶 南部鉄器9代目の挑戦 「ものづくりのバトン」を次の時代へ

5/22 10:32 配信

東洋経済オンライン

 メジャーリーグのドジャースで活躍を続ける大谷翔平選手のInstagramで紹介され、世界から注目を集めるのが、大谷選手の地元・岩手県で生産される南部鉄瓶だ。

 長い歴史を持つ工芸品である南部鉄器は、鍋やフライパンなど多種多様で、中でも鉄瓶は南部鉄器を代表するアイテム。

 最近ではアスリートやモデルが、南部鉄器の鉄瓶を使い、白湯(さゆ)を飲んでいる様子がSNSやテレビ番組で紹介されるたびブームを繰り返してきた。

 冬の時代を経て、じわじわと盛り上がりつつあった鉄瓶人気は、“だめ押し”の大谷効果で勢いを増している。そこには、先祖からの伝統を守りながら現代的な手法でファンを増やす伝統工芸の担い手がいる。

■受注殺到で納期は1年待ち

 大谷選手が5月9日、Instagramのストーリーズに「ありがとうございます」の文字とともに、深い青色の鉄瓶とふたつの湯飲み茶碗の写真を投稿。

 すると、写り込んだ商品タグを手がかかりに、フォロワーたちがこの鉄瓶が大谷選手の地元・岩手県奥州市の南部鉄器の工房「及富(おいとみ)」で作られた製品だと突き止めて投稿し、X(旧Twitter)などで話題になった。

 「及富」は江戸時代後期1848年創業。9代目で同社アートディレクターの菊地海人さんは、職人としての技術を磨きながら、ECサイトの運営や広報を担当してきた。

 大谷選手の投稿は知り合いからのLINEで知ったという。「最初は、まさか! ありえないというのが正直な感想でした」と衝撃を振り返る。

 Instagramで紹介されたのは「みやび」と名付けられた1リットルの鉄瓶。同社で30年ほど前から制作しており、黒と青の2色展開で国内外に販売されている。

 SNS上では、鉄瓶の色合いが「ドジャーブルー」に似ていると話題になったが、もともとある定番商品のひとつ。

 鉄瓶の贈り主が誰かは分からないが、八角形で末広がりのフォルムから、縁起が良いギフトとして以前から人気があるという。

 菊地さんは自身のXに「大谷選手のストーリーズで及富さんの鉄瓶がのってるよとメディアから電話が次々と」「ただただ驚いていますし、光栄なことです。大谷選手の地元であるここ奥州市から日々応援しているのでとても嬉しいです」と投稿。

 すると同社には問い合わせや注文の電話、メディアの取材が相次ぎ、あっという間にECサイトの在庫は売り切れた。

 「大谷選手の投稿後、通常1年分の製造数を半日で注文いただき、納品予定は2025年春以降。まさにうれしい悲鳴です。大谷選手の地元で作った鉄瓶が、これからの彼の新しい人生に迎えてもらえたことはうれしい」と菊地さんは言う。

■発信に影響力、モダンなポット復刻も実現

 今回の件で注目を集めた菊地さんだが、実はその前からXでのフォロワーは3万人を超え、たびたびバズらせてきた発信力のある人物だ。

 「アマビエ」の形をした鉄玉(写真下)を商品化するまでのプロセスや、父親で専務の章さんが若き日にデザインした鉄瓶「スワローポット」への思いを綴った投稿で大きな話題を呼んできた。

 章さんが26歳の時に手がけたスワローポットは、鉄瓶の日本的なイメージからかけ離れたモダンなデザインで、当時としては斬新で挑戦的なものだった。しかし昭和の終わりには評価を受けることはなく、その後は廃番になっていたという。

 2020年に海人さんがこのスワローポットへの思いを伝えた投稿は4万以上の「いいね!」がついた。その反響を知った章さんは、長く封印していた過去の作品への情熱に火が付き、30年ぶりに製造を決意。

 2021年には復刻版がグッドデザイン賞を受賞。さらに今年、大谷選手の投稿で騒然となった同じ日には、イタリアの国際的なデザイン賞で銀賞を受賞したというエピソードもある。

 日々、国内外に発送する鉄瓶の写真の投稿を続けている菊地さんのSNS運用のモットーは「情報ではなくストーリーを伝える」こと。

 若い世代にとっては縁遠いと思われがちな伝統工芸だが、開発秘話や職人たちがその鉄器にむけるこだわりを、自らも職人である菊地さんがシンプルな表現で伝えることで共感を呼んできた。

■業界の盛衰と人生をともに

 南部鉄器職人の家の長男として生まれ、今では南部鉄器の価値を伝える“伝道師”としてその存在感を発揮している菊地さんだが、この世界に入ったのは意外に遅く、30代になってからだという。

 高校卒業後は、飲食店や携帯電話ショップのスタッフ、広告代理店のディレクター、自動車工場の派遣社員など、いくつもの職を転々とし、リーマンショックの後には“派遣切り”も経験。

 一時期はほぼひきこもり状態の1年間を過ごした。「南部鉄器を継ぐ家の9代目に生まれながら30歳を過ぎてからも自分探しを長引かせ、迷走していた」と振り返る。

 実は菊地さんの40年の人生は、昭和から平成、令和にかけての南部鉄器業界の盛衰に大きな影響を受けてきた。

 菊地さんが小さかったころの南部鉄器業界は、往時ほどの勢いはなかったもののまだ安定した生産量があり、祖父や父、叔父とともに働く職人たちにかわいがられて育った。自ずと工芸や美術への関心が深まり、美大への進学を希望するようになった。

 しかし、高度経済成長を経て、大量生産・大量消費の浸透とともに工芸は衰退し始める。南部鉄器も例外ではなく、バブル期以降は2000年代後半まで生産量の縮小が続いた。

 菊地さんが多感な少年時代には「及富」の経営も厳しい時期が続き、職人の退職が相次ぎ、工房の雰囲気もかつてのような明るいものではなくなっていた。

 家業の厳しい実情を目の当たりにした菊地さんは美大進学を断念し、高卒で働き始めた。

 そこから自分探しを続けた菊地さんの最初の転機は、岩手県沿岸部でも甚大な被害を出した2011年の東日本大震災。当時、働かずにひきこもり生活をしていたが、未曽有の事態を前に「立ち上がるしかない」と奮起し、定職を探し始めた。

 その後、ひきこもり時代からの数少ない知人だった女性と結婚し、第1子が誕生。

 「子どもが生まれたことで、代々受け継いできた仕事を次の世代に引き継いでいくことの大切さが身に沁みた」という菊地さんは、それまでは折り合いが良くなかったという父・章さんに頭を下げて工房に入った。

■「爆買い」ブームで中国で人気

 ちょうどそのころ、岩手県が2010年の上海万博に向けて力を入れていた南部鉄器の対中輸出戦略が功を奏し、最高級プーアル茶で有名な上海大河堂との連携によって、中国の富裕層に鉄瓶が浸透。

 さらに「爆買い」と揶揄されたほどだった訪日中国人観光客の購買意欲が高まる中で、南部鉄器が広く知られるようになり、人気土産品の地位を確立。

 その影響は、南部鉄器の産地である岩手県の奥州市と盛岡市に大きなインパクトを与え、「及富」の工房も数十年ぶりに活気を取り戻した。

 そこに菊地さんと弟が加わり、先祖代々の南部鉄器づくりが次の時代に継承されていくことになったのだ。

 結果的に、20代のころ、菊地さんがインターネットショッピング黎明期の広告代理店で働いた経験や携帯電話の販売経験が、家業のECサイトの運営やファンを増やすSNS発信に活かされることになる。

■海外の模造品に対抗「越境EC」を開始

 もともと「及富」では、菊地さんの曾祖父の代である1954年から輸出に取り組み、ドイツなどでの商談会に参加してきた。しかし、中国での南部鉄器人気を受けて、海外で生産された模造品が急速に広がった。

 海外のショッピングサイトには模造品ばかりが並び、商談会では「及富」の隣に明らかな模造品が「NANBU TEKKI」として展示されたこともある。

 菊地さんはXで模造品があふれる現状を発信。「世界には本物の南部鉄器を買えないと嘆いている人がいる。彼らに本物を届けたい」という思いを綴ると、賛同した人から協力の申し出があり、クラウドファンディングで約600万円を調達できた。

 これを受けて「及富」は鉄器業界ではいち早く、2022年に国際発送が可能な越境ECでの販売をスタートさせた。今では国内ECと越境ECでの売上が、売上の半分以上を占めるまでに成長しているという。

 ECだけで見ると、国内と海外の割合は2:1。円安の影響もあって輸出はさらに増加を見込んでいる。その矢先の今回の大谷選手の投稿だったというわけだ。

 「SNSから生まれたつながりがあったから越境ECが生まれ、SNSの声が新しい商品の開発にも活きている。これからもものづくりの背景にある物語を伝えていきたい」

 そう語る菊地さん。根源にあるのは、ものを作るという人間のいとなみへの敬意なのだという。

 「代々続いてきた南部鉄器は、守ってきてくれた人たちのおかげで今があり、それをつないでいくのが自分の使命です」

 揺るがない哲学と時代に合わせた流通で、ものづくりのバトンを次の時代につないでいく。

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最終更新:5/22(水) 22:11

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