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神戸の「万年筆インクが年2万個」も売れる深い理由~「Kobe INK物語」の誕生秘話

6/30 9:01 配信

東洋経済オンライン

 ある初夏の日、ナガサワ文具センター(兵庫県神戸市)の商品開発室室長・竹内直行さん(67)は、神戸市立森林植物園を訪れた。目的は、万年筆インク「Kobe INK(神戸インク)物語」の新色を作るため。

 「神戸市民の花」といわれるアジサイをインクで表したいが、アジサイにはさまざまな色がある。青、紫、ピンク、どの色がきれい?  その答えを求めて植物園に通い、答えが出ないまま季節が移り変わった。翌年も、その翌年も植物園に通い、8年の時を経てKobe INK物語の「神戸ヒメアジサイ」が完成した。

■50歳を目前にしてインクづくりを始めた原動力とは

 このようにして、竹内さんが一色一色生み出してきた「Kobe INK物語」は、2022年6月時点で117色に及ぶ。2017年に年間3万個の売り上げを記録して以来、年間で2万個以上は売れてきた。神戸の街を色で語るKobe INK物語は、地域に根ざした「ご当地インク」の代表格と言える。

 竹内さんが「神戸の魅力を伝えるインクを作ろう」と思い立ったのは2005年、49歳のときだった。竹内さんはなぜ、50歳を目前にしてインクづくりを始めたのか。何が竹内さんを突き動かしているのか。

 1955年、兵庫県明石市に生まれた竹内さんは、小学校高学年の頃から神戸市で育った。中学生になると、父に買ってもらったカメラにのめり込む。姿を消しゆく蒸気機関車、建て替えが進む北野異人館街――。移り変わる街並みを記録に残すことに興味を持ち、数え切れないほど写真を撮った。カメラ越しの神戸の街は、幼心を惹きつけた。

 「例えば北野町では、異人館だけではなく名もない路地にも独特の歴史が息づいていました。散歩中に外国人に出会うことも珍しくなかった。神戸は、国際色豊かですごい街やなと思いました」

 カメラを片手に神戸の街を歩くことは、「生活の一部」だった。

 カメラのほかにもう1つ、出会いがあった。高校生のとき、神戸・三宮センター街の一角にあった文具店「ナガサワ文具センター」で、衝撃を受けた。目にしたのは、すらっとしたデザインのドイツ製ボールペン、動物や果物の形をしたイタリア製ボールペン。

 「ボールペンってどんな形になってもいいんやな。面白いなぁ、文房具の世界は」

 「文房具は書ければいいモノ」と思っていた竹内さんにとって、想像すらできなかった世界がそこにあった。

■「神戸で働きたい」

 大学生になると、ナガサワ文具センターで短期アルバイトを始めた。その一方で、カメラや街歩きへの関心が衰えることはなかった。ナガサワ文具センターでアルバイトをしては、アルバイト代で旅に出る。その繰り返しで、学生時代は過ぎ去っていった。

 北海道から沖縄までを旅し、主要な都市を撮り歩いた。そして導き出した結論は、「やっぱり神戸が一番好き」。神戸で働きたい、この街と一緒に歩んでいきたいと心に決めた。

 文房具、カメラ、旅行と、好きなモノやコトは複数あったが、最終的に選び取ったのは文房具。1978年、竹内さんは「神戸の文具店」であり、文房具との出会いをもたらしたナガサワ文具センターへ入社した。

 入社時の夢は、「神戸発の文房具を作って神戸の魅力を全国に伝えること」。当時の文房具は、大阪や東京から仕入れたものか、輸入したものだった。最初は販売推進の仕事から始め、20代後半にして文房具の企画に携わり始めた。

 キャップのトップ部に「イカリ」のマークを施した万年筆。メーカーのロゴをあえて削り、シンプルなデザインにすることで「自分ブランド」として愛用できるノート。アイデアを形にするとお客さんに喜んでもらえて、売れ行きも好調だった。

 「これはいける。さあ、やりたかったことを実現していこう」

 39歳の竹内さんが意気込んでいた矢先の1995年1月17日、阪神淡路大震災が発生した。

 震災後の1カ月間は、まともに通勤できる状況ではなかった。竹内さんは、自宅から職場までマウンテンバイクで通った。国道2号線沿いを走ると、街がいかに変わり果ててしまったかが、手に取るようにわかる。あれだけきれいだった街が、なぜ――。呆然とせずにはいられなかった。

 事務所のビルは半壊。売り場では、倒れた棚や崩れ落ちた商品が腰の高さまで積もっていた。「街も店も、復興できるのかな」と疑問を抱えながら、片付けに追われる日々が始まる。それから10年、「片付けしていたことしか思い出せない」。

 「神戸ではもう働けないかもしれないと、心が折れそうになることもありました。ただ、後輩の前で仕事を放り出すわけにはいかなかった。店が立ち直るまでは見届けないと。その一心で、なんとかやってきました」

 そんな竹内さんを癒やしたのは、ほかでもない神戸の街並みだった。仕事の合間にビルの屋上に立つと、目に飛び込んでくる六甲山。震災前と変わらない深緑が、心に染みていった。晴天の日、メリケン波止場から遊覧船に乗って沖合に出ると、空を映しこむ海が信じられないほど真っ青だった。

 気づけば震災から10年が経ち、49歳になっていた。「まだ何もできてへん」とハッとした。そこで、ふと思いついたのが、お世話になった人にお礼の手紙を書くことだった。震災後、鉄道や道路が復旧するまでの間に、船で手伝いにきてくれた大阪の同業者や、わざわざ岡山県を経由して商品を届けてくれた仕入れ先に、感謝の気持ちを伝えたかった。

 文字で気持ちを届けるなら、ハネやハライ、強弱を表現できる万年筆が最適だ。万年筆を手にとり、「さあ、どのインクを使おう」と思ったとき――。手が止まった。インクの色には、黒、紺、青しかなかったのだ。

■「神戸三原色」の誕生

 「神戸の街をインクの色で表現したい」

 まず思い浮かんだ色は、仕事の合間にビルの屋上から眺めた六甲山の深緑だった。知り合いのインクメーカーに頼み、3、4カ月かけて色の微調整を重ね、Kobe INK物語の1色目「六甲グリーン」が生まれた。

 六甲グリーンを販売開始した2007年は、奇しくも初代iPhoneが発売された年だった。万年筆の売り上げは右肩下がりで、万年筆のボトルインクは全メーカー合わせて1カ月30個売れる程度。社内の反応も「なんで今さら万年筆インク?」と懐疑的だった。それでも開発に漕ぎ着けたのは、「ぜひやってみてください」という社長の声があったから。

 まず最小ロットの50個を販売したところ、地元企業のオーナーらが「神戸を色でPRするなんて、面白そう」と注目した。六甲グリーンは1カ月半で完売し、手応えを感じたため、2、3色目を約2カ月おきに展開。

 2色目「波止場ブルー」は遊覧船に乗ってメリケン波止場沖から見た真っ青な海を、3色目「旧居留地セピア」は幼い頃から歩いた旧居留地を表現した。ここまでの3色を「山と海に囲まれた街・神戸」を象徴する「神戸三原色」と名付けて店頭に並べると、予想以上の反響があった。

 「『えー、こんな色あるの?』と興味を示してくださるお客さんが目に見えて多かったんです。文房具にこだわりたい方、神戸が好きな方がこんなにいらっしゃるんやなと驚きました」

 もともとは「神戸三原色」で完結するつもりだったが、お客さんの反応に勇気づけられ、「続き」を紡ぐことに。「北野異人館レッド」「海峡ブルー」など、幼い頃から脳裏に刻んできた色をインクにしていった。

 販売開始から2年が経つ頃、神戸新聞でKobe INK物語が紹介されると、記事の切り抜きを手にした地元のお客さんが店を訪れ、声をかけてくれた。

 「こんなええこと、ようやってくれた」「頑張ってな」

 その言葉が、竹内さんの心に火をつけた。「Kobe INK物語に人生をかけよう」。

■地域と共に色を作る

 休日のほとんどをインクづくりのための取材に費やした。インクで表現したい地域を訪れ、色のイメージが固まるまで歩き回る。記録のため、写真を撮ることも欠かさない。取材回数は10回以上に及ぶこともある。ちなみに開発期間が最も長かったのが、冒頭で紹介した「神戸ヒメアジサイ」だ。

 開発で大切にしているのは、「地域の賛同を得ること」。関係者のもとに通い「こんな色はどうですか?」と確認をしながら、色を作り上げていく。色の名前を地域の人につけてもらうこともある。例えば「南京町フォーチュンレッド」は、南京町商店街振興組合の理事長が名付け親だという。

 「地域の色を作っているのに、地域の方に『この色、なんか違う』と思われてしまってはいけません。自己満足にならないよう、自分のイメージだけではなく地域の方の声を色に反映させてきました」

 竹内さんのインスピレーションだけではなく、地域の人の依頼をきっかけに生まれた色もある。その1つが「有馬アンバー」だ。「有馬の色を作ってほしい」という声が寄せられたため、温泉街を歩き金泉に浸かった。湯をすくいあげ、窓から射す陽光に透かしたとき、指の間からこぼれ落ちていった琥珀色。その色を再現したいと考え、温泉旅館のオーナーと相談しながらインクを開発していった。

■海外へ、若い人へ広がる神戸の色

 開発だけではなく、販売も担った。店頭でKobe INK物語の開発ストーリーを語ると、興味を持って購入してくれるお客さんが多い。その一方で、「万年筆なんて今さら使わない」というお客さんには、手書きの良さを伝えるところから始めなければならなかった。「販売後4、5年は採算をとれていなかった」と竹内さんは振り返る。

 それでも、年に約6色のペースで新色を作り続けた。人気色がある一方で人気とは言えない色もあったが、期間限定販売の色を除き、1色も廃番にしなかった。「地域の色を廃番にすること」は考えられない。それに、一時的にヒットさせるのではなく「長く続けていくこと」にこだわりたかった。

 30色に達した2012年、知り合いの大学教授の後押しで第4回日本マーケティング大賞にノミネートされた。だが、最終選考まで残るも入賞を逃してしまう。「地域の文具店やとダメなんかな」と落胆していたところ、事態は思わぬ方向へと展開した。ノミネートを機に朝日新聞社から、神戸市立博物館で開催するマウリッツハイス美術館展とのコラボインクを作ってほしいと依頼されたのだ。

 そこで、展覧会の目玉作品であるフェルメール《真珠の耳飾りの少女》のターバンに着想を得た「フェルメール・ブルー」を開発。この「フェルメール・ブルー」が、多くの人の心をつかんだ。販売開始とほぼ同時に500個が完売し、追加生産分の1100個も会期中に完売したのだ。

 万年筆を使ったことがない人がインクを購入するほどの人気ぶりだったという。海外からも問い合わせが殺到し、これを機にKobe INK物語は海外の文具店に並ぶことに。現在はアメリカや台湾を含む10カ国以上にKobe INK物語を輸出しているという。

 マウリッツハイス美術館展以降は、地域の色を作りながら、神戸市で開催される美術展とのコラボインクも開発していった。

 時は流れ2018年、第10回日本マーケティング大賞に再度ノミネートされ、「うんこ漢字ドリル」「注文をまちがえる料理店」と並んで奨励賞を受賞した。受賞理由は、「低迷市場における新たな価値創造」。万年筆インクの市場が低迷するなかで、「地域の色」という価値を生み出し、新たな顧客を創造したことが評価されたのだ。

 冒頭に記したとおり、Kobe INK物語の年間売上個数は2017年に3万個を記録し、2018年以降も年間2万個以上は売れている。地域とつながりながらインクを作り続けたこと、遊び心あふれるコラボインクを作ったことが、実を結んだのだろう。

 そんな流れに呼応したのか、2つの変化が起きた。1つは、インクの売り上げに比例するように万年筆の売り上げが伸びていること。もう1つは、若い人がインクや万年筆に興味を持ち始めていることである。店では、小学校高学年の子が親と一緒にインクを試したり、万年筆やガラスペンの使い方を尋ねてきたりする場面をよく見かけるようになったという。

■点が線に、線が面に

 「定年後のほうが忙しくなった」と笑う竹内さんは、これまでの歩みをこう振り返る。

 「震災後10年間のブランクがあるからと、これまで必死にやってきました。苦労しましたが、つらいという感覚はなかった。文具が好き、街歩きが好き、神戸が好き、という点がババッと線になっていく感覚があったからです。そして今は、独創的な面を描く段階にきています」

 現在取り組んでいるのは、神戸のミュージアムのイメージカラーを作ること。2022年7月には、1、2色目の発売を予定している。

 「神戸には20館以上のミュージアムがあります。個性あるミュージアムのカラーを作って、神戸を文化都市として盛り上げていきたい。同時に、手書き文化も広めていきたいですね」

 後継者の育成も欠かせない。「今後は若手社員にも声をかけて、一緒にインクを作っていきたい」と意気込む。

 幼い頃からの思い出、震災を経ても変わらない神戸への想い、地域の人の街への愛着。さまざまな思いが詰まったKobe INK物語は、インクが水中でふわりと広がるように、さらなる展開を見せていくことだろう。

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最終更新:6/30(木) 9:01

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