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90年代米国が罹った「みんな子ども症候群」の正体

6/25 17:02 配信

東洋経済オンライン

1990年代アメリカ。ポスト冷戦を迎え、1970年代、1980年代に国内社会に生まれていた様々な問題もどこかに行ってしまったかのような感覚を、多くの人々に味わわせたのかもしれない。
しかし、それは儚(はかな)い錯覚だった。
流され行く日々の中で、アメリカが見失っていた大事なものとは、いったい何だったのか? アメリカ、喪失の90sの正体とは? 
サブカルチャーから社会を考察する歴史家にしてボストン大学教授ブルース・シュルマンと「ファンタジーランドー狂気と幻想のアメリカ500年史」で日本でも多くの読者を獲得しているラジオパーソナリティもこなす洒脱な作家カート・アンダーセン。この二人を迎えた異色の企画『世界サブカルチャー史 欲望の系譜 アメリカ70-90s』から一部抜粋してお届けする。

■ジェネレーションXの登場

 1990年代に社会に出た若者たちは、「ジェネレーションX(X世代)」と呼ばれる。

 この言葉は、ダグラス・クープランドの著書『ジェネレーションX──加速された文化のための物語たち』(原著1991)に由来しており、1960年代半ばから1980年代初頭にかけて生まれた世代を指す。

 彼らは、ベトナム戦争の失敗やヒッピー運動の衰退の後を見ながら育ったため、改革によって社会が良くなるといった夢を見ることはない。一方で、情報技術の発展により、音楽や映画などを浴びるように摂取しながら育った世代でもある。

 1990年代前半のアメリカは、冷戦後の不況に喘いでいた。企業はリストラによってなんとか生き残ろうと必死であり、そんな時代に社会に出ていく彼らは、始めから就職難という荒波に直面することになった。

カルチャーを通して現実を生きるジェネレーションX──シュルマン
 『リアリティ・バイツ』(1994)は、「ジェネレーションX」と呼ばれる、90年代に成人したアメリカの若者たちを表現したすばらしい映画だと思います。このX世代の葛藤や不確実性を描いた作品としては『マイ・プライベート・アイダホ』(1991)や『スラッカー』(1991)などがあります。

 『リアリティ・バイツ』はウィノナ・ライダー演じるリレイナ、イーサン・ホーク演じるトロイら、大学の仲間たちの卒業後を描いた作品です。ある意味で非常にステレオタイプなハリウッドのラブ・ストーリーのようにも見えますが、そのテンプレートから逸脱しているところが多分にあるのが特徴です。

■ポップカルチャーに媒介された世界で生きる

 彼らはポップカルチャーに没入しています。カルチャーは単なる趣味にとどまらず、彼らはそれを通して現実の社会を生きているのです。そのことを象徴するシーンがあります。映画の序盤で、主人公たちがガソリンスタンドのコンビニで買い物をしているとザ・ナックの「マイ・シャローナ」が流れてきます。みんな歌詞を完璧に暗記していて、曲に合わせて歌いながら踊り狂っているのを店員が呆然と見ているのです。

 あるいは、監督でもあるベン・スティラー演じるMTVの局員が、リレイナをデートに誘いに家にやってくるのですが、その時に他の友人たちは『GoodTimes』というテレビのシットコムを見ていて、酒を飲みながらそのエピソードをどれだけ完璧に覚えているかを競うゲームをしています。

 つまり、彼らは現実の世界を生きているようでいて、生きていないようなものです。彼らが生きているのは、映像や歌などのポップカルチャーに媒介された世界なのです。自分自身の感情から切り離され、ポップカルチャーを通してそれに触れるという「経験の間接性」は、この世代の特徴の一つです。

 もう一つの世代的な特徴は、60年代の反体制派のユートピア的願望──若者が世界を改革できる──の否定です。

 映画は、リレイナが大学の総代としてスピーチをするシーンで始まりますが、そこで彼女はメモをなくしてしまいます。彼女は即興で話すのですが、その内容は60年代に若者だった自分の親たちの世代──すなわちベビーブーマーであり、ヒッピー世代──が、いかに彼らを裏切ったかということを糾弾するものでした。

 より良い世界を作ると言っていたはずの彼らが残したのは、経済的搾取と環境破壊、限られた機会と人種差別の世界だったというわけです。「今の若者はBMWを買うために週80時間も働いたりしない」とリレイナは言います。この時代の若者たちは、不景気による不確実な経済的未来と政治的展望など様々な課題に直面しており、永続的で献身的な愛や人間関係を築くことの難しさを感じているのだと思います。

 リレイナとその友人たちとの間には、一種の愛憎関係があります。ヴィッキーはGAPの店長として活躍しますが、奔放に男性と関係を持ち、エイズの可能性に怯えています。サミーはゲイであり、そのことで家族との関係に悩んでいます。

 それぞれが個人的に不確実性を抱えているのです。

 そして、X世代の持つ特徴の中でも最も顕著なものは皮肉(アイロニー)です。現実の経験から距離を置くために、すべてのことに真剣にならないし、なれないで、常にアイロニーの鎧を身にまとっているのです。

 この世代の名称の元となったダグラス・クープランドの小説『ジェネレーションX』の中では、様々な不確実性のために自分の感情から疎外され、それを受け入れることができないという感覚が描写されています。

 冷戦後の世界は、敵が明確でなくなっただけでなく、経済的な不確実性の世界でもありました。南カリフォルニアのような兵器産業の中心地だった街では、そうした状況が色濃く表われていました。兵器の需要が減少したことで街の産業は落ち込み、多くの失業者や転居者が出ることになりました。思い出してください。『サタデー・ナイト・フィーバー』(1977)において、主人公のトニー・マネロはダンスパートナーとなった女性ステファニーと恋人になろうとしますが、最終的に「友達でいよう」と振られてしまいます。

 彼らカップルには、非常に明確な階級のボーダーラインがあり、それは産業経済によって作られたものです。高卒のトニーたちの世界は、イタリア系移民であるというエスニックにより明確に定義されている一方で、そこから抜け出すことは容易ではありません。ステファニーは都会で働くことでアイデンティティを得ようとしますが、そこには確実なものは何もないのです。その境界が、あの映画ではブルックリンとマンハッタンを隔てるイースト・リバーに象徴されていました。

■情報化時代のプロフェッショナル

 『リアリティ・バイツ』の時代には、そうした区別は不明瞭なものになっています。リレイナやトロイらは皆、高等教育を受けた人物であることが重要です。自由な生活をしているように見えるトロイは大学を中退していますが、哲学書を読むようなインテリです。

 リレイナはただ働くのではなく、自分が思うようなクリエイティブな世界を目指しています。私は彼らのような人たちを「情報化時代のプロフェッショナル」と呼んでいます。彼らは中流階級以上の出身で高学歴ですが、経済的に不確かな未来に直面し、もがいているのです。

 彼らが住むカリフォルニアでは、民族性というものはあまり現れません。ベン・スティラー演じるMTV局員のマイケルは、おそらくスティラー自身がユダヤ人であることを反映しているでしょう。しかし、そうした民族性は、もはや自らのアイデンティティを規定してくれるものではありません。

 若いカップルというのはいつの時代も不確かな未来に直面し、それをどうにかして切り抜けて愛を育んでいくのだという希望を持ちます。『サタデー・ナイト・フィーバー』も『リアリティ・バイツ』もその希望が共通したテーマではありますが、似て非なるものです。一方は工業化社会、そしてもう一方は情報化社会によって定義されているからです。

90年代ニューヨークの暴力性と噴き出した見えない差別──アンダーセン 
 90年代のニューヨークは、暴力犯罪率が非常に高かった時代です。ニューヨークの殺人率は1960年に約5%だったのが、1990年頃には約30%と6倍に膨れ上がりました。

 実際、私は70年代にニューヨークに引っ越してきたのですが、当時はすでに危険な場所だという認識がありました。80年代半ばからはクラック・コカインの使用率が急激に高まるクラック・ブームが起きましたし、強盗や殺人が冗談ではなく日常茶飯事でした。

 さらには、エイズも蔓延していました。

 もちろん恐怖はありましたが、当時は若かったので何とか耐えられるだろうと思っていたのと同時に、おそらく多くの若者にとって「すべては崩壊し、地獄に向かっているけど、私たちは楽しんでいる」とでもいうような不思議な高揚感があったのだと思います。だから当時の若者たちは狂ったようにパーティに興じていました。

 とはいえ、それらの暴力のほとんどは、同じコミュニティに所属するもの同士のものでした。主に貧困層に属するそれらのコミュニティのあいだで起こる犯罪が多かったと思います。

 そして、もう一つの「暴力」も人種間において根強く残っていました。60年代、70年代の公民権運動によって、表向きはアファーマティブ・アクションなどの差別是正の動きが進みました。ただし、それでも差別は根強く残っており、差別される側も、差別の是正が「逆差別」だと感じている側も、互いに水面下で不満を蓄積していました。

 それが噴出したのが1992年のロサンゼルス暴動でしょう。

 きっかけは、1991年にロドニー・キングという黒人男性が自動車のスピード違反で逮捕された事件でした。車から降りたキングに、ロス市警の警察官たちが殴る蹴るの暴行を加えたのです。彼らは起訴されますが無罪となったことで、それに反発する人たちによる大規模な暴動が発生しました。

 警察による非白人への暴力事件は、私が子どもだった頃から繰り返し起きていました。それは別にめずらしいことではなかったのです。大きな違いは、かつてはカメラがなかったことです。ロドニー・キングの件が公になったのは、近所の人がそれをビデオカメラで撮影していたからでした。同じことはずっと前から起きていたけど、ようやく表沙汰になったということだと思います。

 80年代には黒人のテレビスターも多く生まれるようになり、人種対立を越えた社会ができつつあるかに見えました。しかしロス暴動では、それがまだ儚い夢であることを思い知らされることになりました。

 同じことは最近でも感じます。バラク・オバマが大統領となって素晴らしいことだと思った後に、2020年にはジョージ・フロイドがやはり警察官の拘束によって死亡した事件が起きています。まるで歴史は繰り返すかのようです。160年前の南北戦争における私たちアメリカの問題は現在でもまだ解決せず、その後遺症と戦い続けているのです。

■大人になれない大人たち

「みんな子ども」症候群──アンダーセン
 私は、80年代から90年代にかけてのアメリカ人は、「みんな子ども」症候群であると主張しています。それまでの大人と違い、成長してからもビデオゲームやヒーローものの映画を楽しみ、若々しく見える服や髪形、果ては整形をするようになりました。

 それを象徴していたのが、マイケル・ジャクソンの存在です。彼は整形手術を繰り返し、自宅には「ネヴァーランド」と呼ばれるファンタジーの世界を作り上げました。実際に子どもたちと住もうとしましたが上手くいかず、彼の傍らにいたのがチンパンジーだったというのは皮肉なことです。

 もちろん、それらはこの時代に始まったことではなく、『スター・ウォーズ』や『インディ・ジョーンズ』(1981)などにその萌芽が見られます。しかし、それらは当初子ども向けだったものが、次第に最初から大人のための映画として作られるようになりました。

 1980年代の「スーパーマン」シリーズや1990年代の「バットマン」シリーズ、そして現在まで続くその成功例が一連のマーベル映画や「ミッション:インポッシブル」シリーズなどでしょう。

 ハリウッドは次第にそうした子ども=大人向けの作品を手がけるようになり、代わって優れた大人向けの作品を担うことになったのはケーブルテレビでした。HBO(Home Box O ce)の『ザ・ソプラノズ 哀愁のマフィア』などはそうしたものの一つです。さらに、コンピューターゲームやビデオゲームの浸透もそれに拍車をかけました。ゲームはもはや子どもの遊び道具ではなく、大人が本気で入れ込むものになったのです。

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最終更新:6/25(土) 17:02

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