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政界も巻き込んだ、日本の鉄道「線路の幅」大論争 「狭軌」か「広軌」か、新幹線実現に至る道のり

5/28 4:31 配信

東洋経済オンライン

 1872年10月14日の新橋駅(後の汐留駅)―横浜駅(現・桜木町駅)間の鉄道開業から、今年で150年目を迎える。今日、世界有数の鉄道大国となった我が国の鉄道史を振り返ると、その発展の過程ではさまざまな問題に直面してきたことがわかる。

 その1つに軌間(レールの間の幅)の問題がある。鉄道黎明期から東海道新幹線が建設された昭和30年代に至るまで、時には政界をも巻き込んでの大論争が繰り広げられたのである。

■日本の鉄道が「狭軌」で開業した理由

 現在の日本の鉄道の軌間は、旧国鉄(現・JR)在来線は1067mmを採用しており、この規格は一般に狭軌と呼ばれている。欧米諸国の多くの鉄道ではこれより広い1435mm軌間を採用しており、これが国際標準軌(日本ではこの規格を広軌と呼ぶことが多い。本稿では以下、広軌とする)とされているからだ。我が国でも新幹線や京浜急行、近鉄(一部路線を除く)、阪急など一部私鉄が広軌を採用しているものの、全体から見れば少数派である。

 なぜ、日本で狭軌が主流になったのかといえば、最初の鉄道の建設に当たってはイギリスに資金調達と技術指導を仰いでおり、同国が海外植民地に敷設した鉄道の多くが1067mmだったためだ。

 当時のイギリス人の感覚からすれば、アジアの新興国に本国並みの鉄道が必要だと思わなかったのは当然だし、急峻な地形の多い我が国では狭軌鉄道のほうが敷設しやすく、工費も節約できるメリットがあった。何よりも大隈重信ら、鉄道建設に当たった日本側の責任者が、輸送力に優れた広軌鉄道の有利性を充分に理解していなかったのである。

 その後、西南戦争や日清・日露戦争を通じての軍事輸送の増大と重工業の発展にともない、鉄道の高速化・輸送力強化には広軌化が必要であるとの認識が強まり、鉄道院総裁を務めた後藤新平(第2次桂内閣)や仙石貢(第2次大隈内閣)らが広軌改築に向けた調査・検討を進めた。

 その流れの中で大きな役割を果たしたのが、鉄道院工作部長・技監(技術畑の最高職)などを歴任し、広軌改築推進派の技術面における中心的人物だった島安次郎である。1917年には、島らによって横浜線の原町田(現・町田)―橋本間に広軌線路が併設され、広軌化実現に向けての各種実験が行われた。

 ところが、その後広軌化を進めるべしとする憲政会系(都市部を基盤)と、狭軌のままで地方未成線を整備するのが先決であるとする政友会(地方を基盤)の原敬らが対立し、両派が政権交代を繰り返す中で、鉄道広軌化は政争の具に利用されることとなる。

 こうした状況に見切りをつけた島安次郎は鉄道院を去るが、1938年、いわゆる「弾丸列車計画」(正式名称は、広軌新幹線計画)が持ち上がると、状況が一変する。

■「弾丸列車」計画とは

 弾丸列車は、東京―下関間に、既設の東海道本線・山陽本線とは別に広軌新線を敷設し、機関車(東京―静岡間は電気、静岡―下関間は蒸気)牽引による列車を最高時速150km(将来的には200km)で走らせ、東京―大阪間を4時間半、東京―下関間を9時間で結ぶという革新的な計画だった。この弾丸列車計画を検討する鉄道幹線調査会の委員長に島が選出され、再び広軌化実現の道が開かれたのである。

 計画が持ち上がった背景としては、東海道本線・山陽本線の輸送が逼迫しつつあったところに、1931年の満州事変勃発(翌年、満州国建国)、1937年の盧溝橋事件からの日中戦争への突入という流れの中で、東京―下関間、さらに朝鮮半島・満州への一貫輸送が重視されるようになったことが挙げられる。

 さらに、広軌を採用していた南満州鉄道(満鉄)において、1934年11月から大連―新京(現・長春)間を結ぶ超特急「あじあ」号が最高時速130km(表定速度82.5 km)で運転開始し、日本本国の特急「燕」の最高時速95km(表定速度69.6 km)を大きく上回ったことから、広軌鉄道の優位性が強く意識されたこともあった。

 1940年3月、第75回帝国議会において15カ年継続計画、総額約5億5610万円の予算成立後、新丹那トンネル(小田原―三島間)、日本坂トンネル(静岡―浜松間)、新東山トンネル(名古屋―京都間)の各トンネル掘削工事が進められた。ほぼ同時期の戦艦「大和」の建造費が約1億3700万円だったのと比較すると、いかに巨額のプロジェクトだったかがわかる。

 しかし、その後の戦況の悪化により工事資材および要員の確保が難しくなり、弾丸列車計画は全面延期のやむなきに至った。

 こうして弾丸列車は計画それ自体は頓挫したものの、「この計画の内容、とりわけ東京―大阪間はほんの一部を除いて、戦後の新幹線とそっくり同じ」(『新幹線を航空機に変えた男たち 超高速化50年の奇跡』前間孝則)であったことから、東海道新幹線建設に当たっては、その資産が大いに役に立つことになる。新丹那トンネル、日本坂トンネルが新幹線トンネルとして利用されたほか、買収が完了していた用地(東京―大阪間515.4kmのうちの約95km分)を転用できたことから、東海道新幹線は、その計画の壮大さにもかかわらず、着工から5年半という短期間での建設が可能になったのだ。

 さらに人的な面でも、島安次郎の長男で、蒸気機関車の名車「D51形」(デゴイチ)等の設計を手がけ、後に東海道新幹線計画を推進し、「新幹線の生みの親」とも言われる島秀雄(国鉄理事・技師長)も、技術者として関与していた。

■戦後も続いた軌間問題

 時は移り、戦後10年あまりが経過した1956年5月、輸送量が限界に達していた東海道線の線路増設を検討するために国鉄本社に「東海道線増強調査会」(以下、増強調査会)が設置された。この調査会は、実質的には広軌新幹線建設に向けての調査会の意味合いを帯びていた。

 というのも、前年5月に国鉄総裁に就任した十河(そごう)信二は、かねて広軌新幹線構想を温めていた。十河は、若き鉄道官僚時代に鉄道院総裁・後藤新平の薫陶を受け、島安次郎らとともに広軌化の実現計画を考案したことがあった。「終生、後藤新平を恩師と慕い続けた」(『新幹線をつくった男 島秀雄物語』高橋団吉)十河にとって、70歳を過ぎて巡ってきた国鉄総裁の座は、恩師・後藤新平の果たせなかった鉄道広軌化の夢を実現し、恩を返す千載一遇のチャンスだったのである。このように十河の肝いりで設置された増強調査会の委員長には、島秀雄が就任した。

このように、調査会は最初から「広軌」新線敷設を念頭に置いたものだったものの、巨大な官僚組織であり前例主義を取る国鉄内の調整には、とにかく慎重を期す必要があった。そこで、既存の線路に狭軌の線路を併設する狭軌併設案、新たに別ルートで狭軌の新線を敷設する狭軌別線案、そして広軌の新線を敷設する広軌別線案の3案が検討された。

 なお、調査会の議事録を見ると、当時の人々が長距離列車というものに対して、どのような認識を持っていたかをうかがい知ることができる。1956年9月4日の第3回調査会では、島がわざわざ次のような発言をしている。

或る企業家が重い機関車等を使わないで、軽い電車を使って旅客輸送を主体として、貨物については旅客輸送の間合いを見て電車に似たような性能の車を使って急送品の一部を扱うというような考え方をしたらどうなるか、その時に現在線にどんな影きよう(筆者注:影響)を受けるかというようなことを考えて見てほしい。
 背景には、当時の人々の頭には「長距離列車には、安定性の高い機関車牽引の客車列車を用いるのが当然である。振動・騒音が大きく乗心地の悪い電車を使うことなどありえない」という固定観念があり、これを覆す必要があったのだ。

■「広軌新線」議論は結論出ず

 島は、戦前に2度にわたり海外の鉄道事情を視察した経験から、地盤が弱く、軌道構造物も貧弱な我が国には電車列車が適していると、早くから機関車(動力集中方式)に比べて軽量な電車(動力分散方式)の将来性を見抜いていた。そして、戦後間もなく電車の振動・騒音の原因究明と改善を図る「高速台車振動研究会」を車両メーカーなども巻き込んで開催し、湘南電車(80系)などの高性能電車を世に送り出してきた。そのような島にとって、増強調査会での議論は、非常に歯がゆいものだったに違いない。

 さて、増強調査会は計5回にわたって開催されたものの、国鉄の財政状況や世の中の経済見通しに絡めた広軌化への慎重意見が根強く出され、堂々巡りの様相を呈した。

 これに業を煮やした十河は、「鉄道が経済発展について行くという考へ方ではなしに、交通機関が経済活動をリードするのであるということを考へねばならぬ」(第4回議事録)、「東京―大阪間を8時間で走るか、4時間で走るかということが国鉄の経済にどうひびくかということを考えると同時に日本経済にどうひびくかということも考えねばならぬ。(中略)原子力時代になつてもこのまま狭軌でよいかどうか」「昭和16年かに広軌の複々線を既に着手したのである。これは充分検討の結果決定したことと思うので今更検討の必要はないとも実は思つていたくらいで、(中略)直ぐに結論が出ると思つていた」(第5回議事録)と、戦前の弾丸列車計画も引き合いに出すなどしつつ慎重派の説得を試みた。しかし、具体的な結論が出ないまま、1957年2月の第5回を最後に増強調査会は散会した。

 このような行き詰まった状況を打破する起爆剤の役割を果たしたのが、当時、国鉄の研究所の位置づけだった鉄道技術研究所(現・鉄道総合技術研究所。以下、鉄研)創立50周年記念行事として、1957年5月に銀座山葉ホールで行われた「超特急列車、東京―大阪間3時間への可能性」という講演会だった。

 講演者は三木忠直(車両について)、星野陽一(線路について)、松平精(乗心地と安全について)、河邊一(信号保安について)の4名。このうち、三木忠直は戦前・戦中は海軍で陸上爆撃機「銀河」などを設計し、戦後、鉄研入りした人物である。

 同講演会で三木は、東京―大阪間を3時間で結ぶためには、450~500km程度(東海道本線は約560km)の広軌別線を敷設し、最高時速210km(表定速度170km、平坦線均衡速度 250km)ぐらい出さなければならない。また、自らの航空機設計の経験から、車体形状は流線型、軽量化を図るため飛行機同様に張殻(モノコック)構造にし、車体の材質には軽合金を用い、合成樹脂も積極的に用いる必要がある。その一方で、車体を軽くする分、安全のために重心を下げる。そして、動力方式は動力分散方式の電車形式が有望であるといった自説を展開した。

■鉄道開業から90年「広軌新線」実現へ

 この講演会の内容は、マスコミを通じて報道され、話題となった。当時は、前年の1956年11月に、ようやく東海道線の全線電化が完了し、特急「つばめ」「はと」の東京―大阪間が7時間半に短縮されたばかりだった。また、ビジネス特急「こだま」(東京―大阪間6時間50分)が登場するのは、翌1958年11月という時代である。それを3時間で大阪まで行くというのだから、まさに度肝を抜くような話だった。

 さらに講演会から4カ月後の9月27日には、鉄研と小田急が共同開発し、三木が設計を主導した初代小田急ロマンスカーSE車(3000形)が、国鉄東海道線の函南―沼津間における走行試験で時速145kmを記録した。SE車は狭軌であり、車体にはアルミではなく耐蝕鋼板が使われるなどしたものの、モノコック構造を採り入れるなど航空機の設計思想を随所に取り入れた車両だった。高速走行に適した車両をつくれば、狭軌でも時速145kmが出せるのだから、広軌ならば時速210kmが決して夢物語ではないことを実証したのである。

 それから6年後の1963年3月30日。神奈川県の綾瀬―鴨宮間(約32km)に建設されたモデル線で、新幹線試験車が電車方式による当時の世界最高時速256kmを記録した。新橋―横浜間の汽車が最初の汽笛を鳴らしてから、90年以上の月日が経過していた。

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最終更新:5/28(土) 13:28

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