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文章力に自信のない人は文章を読む量が足りない、たくさん読んでいけば判断能力は自ずと身につく

5/17 13:01 配信

東洋経済オンライン

文章を書くことに苦手意識を持っているという人は少なくない。ただ、5月10日配信の「文章が書けないと悩む人が陥っている3つの誤解」でお伝えしたように書けずに悩んでいる人の多くに共通するのは以下の3点だと私は考えている。

① 「書けない」と思い込んでいるにすぎない
② 「書き慣れていない」から「苦手」になっている
③ 書くことを難しく考えすぎている
これらを踏まえたうえで、拙著『「書くのが苦手」な人のための文章術』の一部を引用しながら、文章を「読むこと」について今回は考えてみたい。自分以外の誰かが書いた文章を読むことは、いい文章を書けるようになるために欠かせないことだからだ。しかも、できる限り「いい文章」を読んだほうがいい。

■いい文章をストックする

<「いい文章」を読む習慣をつければ、無理なく頭のなかに“いい部分”をストックできるようになり、自分が書く際にそれを活用できるのです。ビジネスでもプライベートでも「多くの引き出しを持っておく」ことの重要性が説かれることがありますが、まさに同じことが文章を書く際にもあてはまるわけです。(77ページより)>
 クローズアップしたいのは、インターネットで文章を読むときに注意しておきたいことだ。ネットは読むことを身近にしてくれたが、そこには問題も残っているからだ。

 インターネットが主流になる以前、すなわち紙媒体が主流だった時代にも、当然ながら“読む習慣”を持たない人はいたはずだ。しかし、いまやそういう人たちでさえ、ネットを通じて(無意識のうちに)さまざまな文章を読んでいる。そういう意味では、ネットが文章を身近なものにしてくれたと考えることもできるだろう。

 ただし、そこには便利な時代ならではの問題もある。いちばん大きいのは、ネット上に「プロ(書き手と編集者)の手が入った文章」と「プロの手が入っていない文章」が混在していることだ。

<「そんな些細なことか」と思われるかもしれませんが、両者の差は歴然としています。端的にいえば、それは客観性の有無。おもに出版社や新聞社の紙媒体、あるいは彼らが関わっているウェブメディアには、“編集者的な視点”が入っているものです。「これは記事にしていいものか」「記事にすべきものか」「文章表現や書かれている内容は正しいか」というような客観性があるので信頼性が高く、だから安心して読めるわけです。(78~79ページより)>

 決して、出版社や新聞社の媒体だけを必要以上に持ち上げたいわけではない。だが現実的に、それらの媒体には、相応の訓練を受けてきたプロの手が加わっているのだ。古物商が真贋を見極める能力を持っていたり、料理人が魚の鮮度を見分けられるのと同じことだ。

■「信頼に値するか」という視点を持つのが大事

 一方、編集者的な視点を持たないウェブメディア、運営している個人の主観だけが拠りどころになっているメディア(まとめサイトなど)、あるいはブログなどの個人メディアの場合は、必ずしも客観性が担保されているわけではない。もちろん客観的なものもあるだろうが、論旨や思想に偏りがあるものも同じように“そこにある”わけである。

 したがって必要なのは、読者1人ひとりが「この文章は信頼に値するだろうか」という視点を持っておくこと。たしかに面倒ではあるけれども、「そういうものだ」と前向きに割り切って、できる限りフラットな視点を持つように心がけたほうがいいわけである。

 とはいえ、その文章が信頼できるものであるか否かは、なかなか判断しづらいものではある。では、どうすればいいのか?  判断力を身につけるために必要なのは、とにかく読む習慣をつけることだ。

 先の例にあてはめて考えてみよう。もしも優れた古物商になりたいのであれば、目利きの能力を高めることは不可欠だ。したがって、より多くのものを見て審美眼を養わなければならない。時間はかかるだろうが、それを繰り返していくうちに、やがて本物と偽物の違いがわかるようになってくるわけである。

 そして、それは「読む習慣」にもあてはまることだ。

<少しでも多くの文章を読んでいけば、やがて、目の前の文章が「いい文章」か「そうではない文章」かを判断できるようになっていくことでしょう。逆にいえば、そのプロセスから逃げ、読む習慣を身につけなかったとしたら、いつまでたっても“目”は養われないのです。そういう意味で、いろいろな文章を読んでみることは大切。しかも“たまに読む”のではなく、“読む習慣を身につける”ことが重要です。(80~81ページより)>

 読む習慣がないところから始めるのだから、慣れるまでは「この文章は信頼に値するか否か」を判断しづらいだろう。そんなときには、的確な判断が下せないことを不安に感じるかもしれない。だが、その段階ではそれでいいのだ。なぜなら、成長段階なのだから。よって、少しでも早く真偽を見分ける能力を身につければいいのだ。

■片っ端から読む習慣をつける

<では、どうすればいいか?  答えは簡単です。「いい文章」か「そうではない文章」かに捉われず、片っ端から読むのです。その時点では、読んでも判断しづらいことだって少なくないかもしれません。でも、心配は不要。多くの文章を読めば読むほど、いつか必ず目は養われるからです。(81~82ページより)>

 音楽を聴き始めたばかりの、中学生くらいのころのことを思い出してみてほしい。まだ知識がなかったその当時は、あまり音楽的な質が高いとはいえないヒット曲でさえ、ミーハー的に好きになったりしたのではないだろうか?  しかも、その渦中にいるときには人から「その音楽はレベルが低いよ」と指摘されてもピンとこなかったはずだ。それどころか、抵抗すら感じたかもしれない。私にも似たような経験がある。

 ところが、そののちいろいろな音楽を聴き込んでいくと、以前は好きだったはずのその曲のことをダサく感じたりするようになったりもする。そしてその結果、「その音楽はレベルが低いよ」という指摘の意味も理解できるようになるだろう。つまりはそれこそ、“聴く耳”が養われたことの証拠だ。

 ミーハー的に惹かれた初期段階を経て、さまざまな音楽体験を重ねた結果、知識がつき、それが的確な判断能力として成熟していったということ。

 文章も、まったく同じなのである。いろいろな文章を読んでいけば、最初のころはなんとなく「いいな」と思うだけで終わってしまうかもしれない。だが、読むことに慣れていくと、以前は魅力的に感じられた文章のアラが見えてくるようにもなる。それは、自分自身が成長したことの証しなのだ。

 だからこそ、読む習慣を身につけることは大切なのだ。たくさん読んでいけば嫌でも判断能力は身についていくし、読んだぶんだけ自分の内部にストックができもする。そして、いつか自分が書いてみようと思ったとき、そのストックが力になるのである。

■「ですます調」と「である調」

 ところで、文章を書く場合には「ですます調」にするか、「である調」にするかで悩むことになるかもしれない。柔らかな印象を与えたいのであれば、適切なのは丁寧語で統一された「ですます調」ということになるだろう。逆に硬さや強さを強調したい場合は、断定形を用いた「である調」がいいかもしれない。

 ただ、どちらかが絶対的に正しいというような基準があるわけではない。書き手の主観によるところが大きいわけで、私も媒体によって両者を使い分けている。「この媒体の読者には、問いかけるような『ですます調』がよさそうだな」とか、「こちらの媒体では主張をしたいから、『である調』でいこう」というように。もちろん、それだって感覚的な判断でしかないわけだが。

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最終更新:5/17(火) 13:01

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