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6年前、父を亡くした娘が結婚に踏み切れない訳、小説「さよならも言えないうちに」第4話全文公開(2)

12/2 19:01 配信

東洋経済オンライン

世界中で話題沸騰のベストセラー、日本でシリーズ140万部突破の小説『コーヒーが冷めないうちに』。シリーズ最新作『さよならも言えないうちに』の中から第4話『父を追い返してしまった娘の話』を丸ごと、東洋経済オンライン限定の試し読みとして3日連続3回に分けてお届け中。

今回は第1回「19歳の娘が父へ放った一言、取り返せない時間」(12月1日配信)に続く第2回をお届けします。

■「やり直せる?  もう一度、あの日を?」

 路子には婚約者がいた。

 名を森祐介(もりゆうすけ)といい、同じ会社の同期で、知り合ってから三年になる。

 この喫茶店で過去に戻れることを路子に教えたのは祐介だった。

 路子も最初から信じていたわけではない。むしろ、「過去に戻れる」などというバカ話を持ちかけてくる祐介に怒りさえ覚えた。路子はその時、冗談はやめてと一蹴した。

 だが、祐介はゆずらなかった。

 祐介は、実際に過去に戻ったことのある、清川二美子(きよかわふみこ)という女性から話を聞いたのだという。清川二美子は、祐介が担当する取引先のシステムエンジニアだった。まだ二十代でありながら大きなプロジェクトを任されるその手腕は、同業者である路子の耳にも届いている。

 「僕には清川さんが嘘をついているようには思えない。もちろん、路ちゃんのことは話してないし、清川さんが僕にそんなでたらめな話をするメリットもない。なんだか、めんどくさいルールがあるとかなんとか言ってたけど、本当に過去に戻れるっていうんなら、戻ってみたら?」

 「でも」

 「過去に戻って、やり直せばいいじゃないか。今度は追い返さずに、お父さんを東京に足止めすればいい。そうすれば……」

 (やり直せる?  もう一度、あの日を? )

 その一言が路子の心を動かした。

 路子は、父を追い返してしまった後悔から、思い出すたびに動悸(どうき)が激しくなるほどのトラウマを抱えて生きてきた。この喫茶店に入るのにも、どれほどの勇気をふりしぼったことか。

 それなのに……。

 「そんなに落ち込まないでよ。仕方ないでしょ?  ルールなんだから」

 高竹が路子の向かいに座って声をかけても、路子は突っ伏したまま、ピクリとも動かない。

 「だめだこりゃ」

 高竹は肩をすくめて、流に首を振ってみせた。

 カランコロン

 「いらっしゃいませ」

 入ってきたのはカジュアルスーツに身を包む青年だった。

 「お一人様ですか?」

 流が声をかけると、青年は軽い会釈ののち、テーブルに突っ伏す路子のもとに歩みよる。

 「路ちゃん」

 青年が路子に声をかけると、路子は「あ!」と声を漏らし、顔をあげた。

 「祐介君……」

 この青年が路子に過去に戻ってみるようにすすめた森祐介である。

 「外でずいぶん待ってたんだけど、戻ってこないから……」

 「ご、ごめんなさい」

 「いいよ」

 祐介が路子の知り合いだとわかって、流は高竹に向かって(迎えに来てくれる人がいてよかった)と胸を撫(な)でおろすそぶりをしてみせた。高竹は(まだまだ安心はできない)と顎をしゃくってみせて、二人のやり取りを見守るように促した。

 「それで、どうだった?  お父さんとは会えたの?」

 祐介がそう尋ねた瞬間、路子は勢いよく席を立った。

 流も高竹も、そして祐介さえも、路子が急に立ち上がったので驚いたように目を丸くする。

 「ごめん」

 「え?」

 「やっぱり、私、結婚できない」

 路子はそう言い捨てるとショルダーバッグから財布を取り出し、千円札を雑にテーブルに置いて、駆け足で店を出て行ってしまった。

 「路ちゃん!」

 カランコロン

 路子を追いかけようとする祐介の前に、

 「ちょっと、キミ」

 と、高竹が声をかけた。

 「え?」

■「彼女、過去には戻らなかったのよ」

 祐介は、突然、見知らぬ女に声をかけられて困惑した表情を見せる。

 「あ、え?」

 「高竹さん?」

 面食らったのは祐介だけではない。流が眉を顰(ひそ)める。

 「す、すいません」

 流は大きな体を縮めて祐介に頭を下げた。

 しかし、祐介も追いかけようと思えば高竹を無視して追いかけることはできたに違いない。だが、それをしなかった。できなかった。

 「彼女、過去には戻らなかったのよ」

 「え?」

 「戻っても、その、お父さんを助けることはできないから……」

 高竹に路子の状況を説明されて、祐介は小さなため息をついて、

 「そうでしたか……」

 と、つぶやいた。

 「彼女がお父さんを助けられないことと、あなたたちが結婚できないことに何か関係でもあるの?」

 高竹は、静かな落ち着いた声で尋ねた。

 祐介の目が、テーブルの上に残された路子のハンカチをとらえる。

 「彼女は、自分だけ幸せになるわけにはいかない、と……」

 ハンカチを手に取った祐介が、消え入りそうな声でそう言った。

 「どういうこと?」

 祐介は深呼吸をして、ぽつりぽつりと語りだした。

 「この六年間、彼女はここでお父さんを追い返してしまったことを、ずっと後悔して生きてきました。聞いた話だと、閖上に津波が押し寄せてきたのは最初の揺れから一時間も経った後だったそうです。だから、彼女のお父さんは、一時は漁港の方々と一緒に避難していたらしいのですが、突然、預金通帳を取りに戻ると言いだしたらしく……」

 「預金通帳?」

 「漁港の方たちも、そんなの後でいいだろと言って止めたそうなのですが『あれは、娘が嫁に行く時のために貯(た)めたものだから』と言って……」

 それ以上は言葉にならなかった。

 あの日、テレビ中継で目撃した悲惨な光景がフラッシュバックする。

 高竹も流も、思わず目を伏せ、

 「どうすることもできないわよね?」

 「そうですね。こればっかりは……」

 と、つぶやいた。

 心の問題は、当事者でなければ解決できないこともある。

 祐介が路子のあとを追えなかったのは、路子の心の問題に自分の立ち入るすきがないことをよく知っていたからだ。

 祐介はそれ以上何も語らず、静かに頭を下げて店を後にした。

 その日の夜。

 閉店時間を過ぎても、一人の男性が二人掛けのテーブル席に座したまま帰るそぶりも見せず、パンフレットを眺めていた。ほうっておけばいつまでも帰らないかもしれない。それでも時田数は黙ってカウンターの中を片付けている。聞こえるのは柱時計の時を刻む音だけ。

 カランコロン

 カウベルが鳴ったのに、数は「いらっしゃいませ」とは言わない。まるで誰が入ってくるのかを知っていたかのように、ただ視線を入口に向けただけだった。

 「数ちゃん、電話、ありがと」

 入ってきたのは看護服姿の高竹である。はぁはぁと肩で息をする高竹に、数が水の入ったグラスを差し出した。

 「ありがと」

 高竹は水を一気に飲みほす。

 「あ、そうだ」

 グラスを返すと、高竹は喫茶店の玄関にとって返した。玄関口で声が響く。

 「入んないの?」

 「え、でも」

 「いいから、いいから」

 そう言って高竹に背中を押されて入ってきたのは、昼間、父を助けたいとこの喫茶店を訪れていた路子だった。

 路子は申し訳なさそうにうつむいている。

 「階段の途中にいたから……」

 連れてきた、と高竹は数に目で訴えた。数は路子を見据えて、いらっしゃいませではなく、

 「こんばんは」

 と、声をかけた。営業時間は終わっている。

 「こ、こんばんは」

 路子が答える。

 その間に高竹は路子の脇をすり抜け、パンフレットを眺める男の横に立った。

 「房木(ふさぎ)さん」

 高竹は男に向かって、そう声をかけた。

 房木と呼ばれた男は一瞬、高竹の顔を見たが、何も言わず再びパンフレットに目を落とした。

 「房木さん、今日は座れましたか?」

 高竹の質問に、房木と呼ばれた男は初めて顔をあげて、一番奥の席に座る白いワンピースを着た女を見つめながら、

 「ダメでした」

 と、答えた。

 「そうですか」

 「はい」

 「ここ、今日はもう閉店時間を過ぎているようなので帰りませんか?」

 「あ……」

 房木は、ハッとして店内の大きな柱時計に視線を走らせた。時計の針は午後八時三十分を示している。

 「すみません」

 あわててパンフレットを片付け、数の待機するレジに向かう房木。高竹はその姿をじっと優しい目で見つめている。

■静かな店内に残ったのは? 

 「いくらですか?」

 「三八〇円です」

 「じゃ、これで」

 「ちょうど、いただきます」

 「ごちそうさまでした」

 房木は急ぎ足で店を出て行った。

 カランコロン

 高竹は数に小さく会釈すると、

 「連絡ありがと」

 と、笑顔を残し、房木のあとを追って店を後にした。

 カランコロン

 静かな店内に数と路子、そして、白いワンピースの女だけが残った。

 路子は、どこから何を説明すればいいのかわからず、途方にくれたように立ち尽くしている。

不意に数が、

 「本当にいいんですね?」

 と、路子に尋ねた。

 何も言わなくても、路子がここに来た理由を察している。

 だから数は、

 〝過去に戻っても、あなたのお父さんを助けることはできません。それでもいいんですね? 〟
こう、言っている。

 路子は息を呑んだ。

 自分でも、どうしてここに戻ってきたのかよくわからなかったからだ。過去に戻っても父を助けられないことはわかっている。いや、もしかしたら、助けられるのではないかという淡い期待のようなものがあったのかもしれない。

 (もしかしたら……)

 それだけだった。

 もしここで、

 「なぜ、過去に戻ろうと思ったんですか?」

 と質問されていたら、はっきりとした理由のない路子は過去に戻ることを断念していたかもしれない。

 だが、念を押されている。

 「本当にいいんですね?」

 と。

 路子はうつむいたまま、

 「母が亡くなった後……」

 と、独り言のように語りだした。

■「あの日に戻してください」

 「父は男手一つで私を育ててくれました。東京の大学に行きたいという私のために昼も夜も働いて学費を出してくれたというのに、私はそんな苦労も知らず、大学ではろくに勉強もせず、だらだらと遊びまわっていただけ……。ただ、地元を離れて自由になりたかったんです。父の存在を疎ましくさえ思っていました。だから、あの日、父が会いに来てくれるまで父からの連絡を無視しつづけ、実家に帰ったこともありませんでした」

 数は何も言わず、相槌(あいづち)も打たず、ただ、静かに路子の言葉に耳を傾けている。

 「私は、そんな父に、ひどいことを言って追い返してしまったんです。まさか、あんなことが起きるなんて思わなかったから……。せめて、謝りたい。父に一言謝りたいんです」

 言葉に出してみて、路子は自分でも驚くほどはっきりと理解した。自分がここに戻ってきた理由を……。

 「お願いします、私をあの日に、父を追い返してしまったあの日に戻してください」

 路子は数に向かって深く、深く頭を下げた。

 パタン

 不意に、部屋のすみから小さな音がした。音につられて路子が視線を走らせると、それは白いワンピースの女が、読んでいた本を閉じる音だった。

 路子はこの時初めて女の顔を見た。肌が白く、うつろな瞳はどこを見ているのかまったくわからない。その眼差(まなざ)しはどことなく目の前にいるウエイトレスと似ているような気もする。なにより不思議だったのは、いくら室内とはいえ、外に出ればコートが必要な季節であるのに、女は半袖であることだった。

 女は路子の視線など気にする様子もなく、ゆっくり立ち上がると、スーッと足音も立てずにトイレへと消えた。

 トイレに消えた女に気を取られている路子の背後で、

 「わかりました」

 という数の声がした。

 あの日に戻してください、という路子の言葉に対する返事である。

 それから数はさっきまで白いワンピースの女が座っていた席に路子を座らせ、過去に戻るためのいくつかのルールを説明しはじめた。

 昼間聞いた、

 [過去に戻ってどんな努力をしても現実を変えることはできない]

 というルールの他にも、

 [この喫茶店を訪れたことのない者には会うことはできない]

 [過去に戻れる席が決まっている]

 [席を立って移動することはできない]

 [制限時間がある]

 というルールがある。

 (ルール、多くない? )

■「そんなに短いんですか?」

 路子の戸惑いをよそに、キッチンから銀のケトルと白いカップをトレイに載せて戻ってきた数が、淡々と話を進める。

 「今から私があなたにコーヒーを淹れます」

 そう言って数は、路子の前にカップを置いた。

 「コーヒー?」

 路子が首を傾(かし)げる。過去に戻ることとコーヒーの関連性がわからない。

 「過去に戻れるのは、私がカップにコーヒーを注いでから、そのコーヒーが冷めきるまでの間だけ」

 「え?  そんなに短いんですか?  それってさっき説明してくれた制限時間ってこと?」

 「その通りです」

 このルールについては大いに不満があった。あまりに曖昧で、あまりに短い。でも、きっと、何を言ってもどうすることもできないルールに違いない。昼間、父を助けることはできないと言った数の毅然(きぜん)とした態度が思い出された。

 「わかりました。他には?」

 数が説明を続ける。

 「亡くなった方に会いに行く人は、ついつい情に流されて制限時間があることを知りながら別れを切り出すことができなくなります。だから、これ……」

 数は、トレイからマドラーのようなものをつまみ上げ、路子の目の前に差し出してみせた。

 「なんですか、これ?」

 「こうやって入れておけば、コーヒーが冷めきる前にアラームが鳴りますので、鳴ったら速やかにコーヒーを飲みほしてください」

 数はマドラーのようなものをカップに差し入れ、銀のケトルに手をかけた。

 「鳴ったら飲めばいいってことですね?」

 「はい」

 路子は小さく深呼吸をした。

 (亡くなった父に会いに行く)

 そう考えるだけで胸が締めつけられ、息が荒くなる。果たして冷静でいられるのだろうか?  何をしても現実は変えられないというが、もし取り乱して、震災のこと、父が亡くなってしまうことを口走ってしまったら?  そうすると、父は亡くなるまでの数日間、どんな思いで過ごすことになるのだろうか?  まとまらない思いが巡る。

 「いいですか?」

 そんな路子の迷いを断ち切るように数が声をかける。

■「過去へ行く。本当に」

 (そうだ。さっき「本当にいいんですね?」と聞かれたばかりだ。その時、私は父に一言謝ろうと決めたんだ)

 路子は目を閉じて大きな深呼吸をして、

 「……お願いします」

 と、答えた。覚悟を決めるしかない。

 強い決意を込めた瞳でカップを見つめる路子とは裏腹に、数は涼しい顔でケトルを持ち上げた。

 (過去へ行く。本当に)

 店内の空気がピンと張り詰めるのが路子にもわかった。

 「コーヒーが冷めないうちに」

 シンと静まりかえった店内で数は透き通った声でそう言うと、ケトルを傾け、コーヒーを注ぎはじめた。コーヒーが満たされたカップから一筋の湯気が立つ。

 ぐらりと天井がゆがむ。

 (めまい? )

 路子は湯気の軌道を目で追っていた。だが、実際には自分の体が湯気のようにフワリと宙に浮き、目に見える景色が上から下へぐんぐん、ぐんぐん流れている。

 (何が……、起こって……いるの? )

 動転する頭のまま、路子の意識は遠くなる。

 お父さん……。

(続き【第3回】6年前の父に「今の私」伝えた彼女の時空超えた旅(12月3日配信)

東洋経済オンライン

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最終更新:12/8(水) 9:26

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