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哲学者ニーチェが「道徳を最も嫌った」論理的理由

10/16 15:01 配信

東洋経済オンライン

世界中で非常に人気のあるドイツの哲学者、フリードリヒ・ニーチェは「絶対にこれが正しい」「絶対に美しい」といった絶対的なものを否定し、20世紀、21世紀は「ニヒリズムの時代になる」と予言していました。さらに「道徳」についても猛批判しています。ニーチェの哲学とはいったいどういうものなのでしょうか。
『教養として学んでおきたいニーチェ』を上梓した哲学者で玉川大学文学部名誉教授の岡本裕一朗氏がその一端を解説します。

前回:“絶対”を否定する「ニーチェ」が現代人に刺さる訳

■「ニヒリズム」「神は死んだ」はニーチェ以前から存在

 ニーチェは、ニヒリズムについて「絶対的な価値が消失すること」「絶対的な目的がなくなること」「絶対的な意味がなくなること」といった表現を使います。ニヒリズムという言葉は、もともとドイツのロマン主義者たちが使っていた言葉で、ニーチェが初めて使ったわけではありません。

 ちなみに、有名な“神は死んだ”という言葉もニーチェが最初ではありません。ニヒリズムや“神は死んだ”という言葉は、ニーチェが最初に使ったように思われがちですが、言葉としてはすでに存在したものを、ニーチェなりに再定義して使っているのです。

 ニーチェ以前のニヒリズムは、絶対的な価値といった言い方は使いません。どちらかと言うと、肯定的なものや華やかなものを求めず、虚無主義的な、あるいは斜に構えて否定的なというイメージが強く、特別な形で定義付けられてはいませんでした。それに彼は定義付けを行い、「絶対的な価値がなくなること」をニヒリズムと呼んだのです。

 さて、「絶対的な価値がなくなる」といっても、ほとんどの人にとっては、それが何を意味しているのかがわかりにくいと思います。

 しかし、「この世に絶対に正しいものはあると思いますか?」とか「絶対に良いと思うものは?」「絶対に悪いものは?」などの問いに対して、「そんなものは何もない」と答える人がいたとすれば、その人はすでにニーチェのニヒリズムを肯定していることになります。

 その意味では、私たちはまさにニーチェがニヒリズムの到来を予言した、次の2世紀のまさにまっただ中にいるわけです。

 実際、私たちは「絶対的な価値」「絶対的な真理」「絶対的な目的」「絶対的な美しさ」といった、誰がなんと言おうと正しい、みたいな発想は持っていません。ある地域、ある時代において、特定の人には美しいかもしれないけれど、それ以外の人には美しくない。

 そういったさまざまな基準があり、すべての人に共通の、時間や場所を超越した絶対的なものを認めないのがニヒリズムであり、その意味では“プラトン主義”の批判になっています。つまり、すべての人が認めるようなイデア(※)なんて存在しないというのがニヒリズムなのです。

 ※プラトン哲学における用語で、感覚的な存在を超越した、先天的な、思惟によってのみ確認できる自己同一的で普遍的な真存在。プラトン主義の中心的な思想の1つであり、現実世界における事象は、普遍的な概念、すなわちイデアを分有することによって存在しうるという考え方。

 ニーチェはこうした形でニヒリズムを定義することによって、私たちの真理観、認識観、道徳観、あるいは芸術観などを含めて、それらに対する絶対的な基準というものを否定したのであり、それが1つの時代認識となるのです。

■「生きがい」や「生きる意味」なんて存在しない

 さらに、ニヒリズムの思想によって、“生き方”に関する基本的な考え方が変わってきます。私たちは「何のために生きているのか?」ということを考えがちです。“生きがい”とか“生きる目的”とか“生きる意味”とか。

 ところがニーチェのニヒリズムでは、そんなものはないというのが当然の帰結になります。ニヒリズムの時代には、何のために生きるのかという目的や目標がなくなるわけですから、生きがいとか生きる意味なんて存在しないということになるのです。

 それにもかかわらず、「何のために生きているのか?」「どうして生きるのか?」という問いは当然のように消えずに残り続けます。

 この問題について、彼のデビュー作である『悲劇の誕生』の中で、半人半獣の神に「人間にとって、いちばんいいことは何か?」と問うたとき、半人半獣の神は「聞かないほうがいい」と前置きして、「生まれなかったことだ」と答えます。

 それは質問している時点で不可能なことなので、それでは2番目に良いことを問うと、「すぐ死ぬことだ」と答えるのです。これがギリシャ時代以来の1つの大きな知恵として伝えられてきたのです。

 この「生きることそのものをネガティブに捉える」という発想から、ニーチェのデビュー作『悲劇の誕生』という本はスタートしています。つまり、「生きるということは苦しみであり、この世界に生まれるというのは、非常に悲惨な出来事である」と言うのです。

 だからといって、すぐに死ぬということにならないのが『悲劇の誕生』という本の大きなポイントになるのですが、このネガティブな思想はショーペンハウアーの影響を受けたものでした。ショーペンハウアーが”ペシミズム(厭世主義)”と言われるのは、生きるということはまさに苦しみであるという発想によるものです。しかし、すぐに死ぬのでなければ、どうやって生きていくのかという問いが残ります。

 そこでニーチェは、『悲劇の誕生』の中で、ショーペンハウアーの図式をそのまま使って説明しました。いわく、生きる苦しみを芸術によって一時期忘却する、という解決策です。

■「芸術によってのみ救済される」図式をのちに批判

 しかし、ニーチェはこの図式を最後まで持ち続けませんでした。生きることはまさに苦しみであり、芸術によってのみ救済されるという若いころに唱えた図式を、のちに“ロマン主義”だと言って批判するのです。しかし、ロマン主義でなければ、人生が楽しくなるのかというと決してそういうことはなく、人生が苦しみであるという点は変わりません。

 だからといって、芸術によって救済されるという形を取ることもできません。そうなると、もっとひどい話になるわけで、結局、救済の道がなくなっただけなのです。そこで後に彼が“永遠回帰”という発想をするとき、生きることが苦しみというのではなく、同じことが永遠に繰り返されるという発想に転換します。

 人が何らかの行為をするとき、その1つずつには当然、意味や目的があります。AはBのために、BはCのために、CはDのために、といった感じで、次々と繋がっていきます。

 例えば、大学に入るのは勉強するため、勉強するのは卒業するため、卒業するのは就職するため、就職するのは生活をするため……といった具合に繋がっていくのです。

 しかし、生きる意味がなくなるとか、生きがいがなくなるというのは、これら1つずつではなく、すべてを統括するものの目的や意味がなくなるということであり、それがニヒリズムのいちばん大きなポイントになります。

 「あなたは何のために生きているのか?」と問われたとき、「明日、これをやるから」「明後日にこれがあるから」みたいな感じで、1つずつには目的や意味があるかもしれません。しかし、その一つひとつではなく、それらのものを超えた全体としての“生きること”そのものの目的や意味がなくなるというのがニヒリズムの発想になるわけです。

 とはいえ、「意味がないのであれば死んでしまえば?」と言われたときに「では死にます」という答えには絶対になりません。

 基本的に意味がなく、同じことの繰り返しであるという“永遠回帰”を生きるために、ニーチェが打ち出した1つのモデルが“超人”になります。彼の発想の中では“力”が非常に大きな位置を占めていて、すべてのものは力の関係の中にあると考えます。

 そして、私たちが知識を得るのは、自分の力を増大させるためであり、自分の力の増大は各自の楽しみや面白さに繋がると考えています。自分自身の力を発揮することができなければ、いかなる状況も楽しむことはできませんし、逆に、いかに楽しむことができるかというのは、いかに自分がその中で力を発揮できるかということにつながると考えるのです。

■弱者が自己正当化を行うのが“道徳”

 この力を“増大する”というのが重要で、いかなる問題においても、自分自身の力を増大させることが良いことであるとして、“力の増大”の極限状態として“超人”を考えたのです。ニーチェは、物事を認識する場合も力の関係で理解します。それは、道徳の問題も同じです。道徳の場合、彼は”強者と弱者”を例に出し、弱者が道徳を作り出したと言います。

 なぜ弱者が道徳を作るのかというと、強者と弱者が対立した場合、弱者は力で挑んでも対抗できないため、力で対抗することをあきらめて、みんなで寄り集まることで、これを“畜群”とニーチェは表現するのですが、強者を引きずり降ろそうとするのだというわけです。

 金や力のない自分たちこそが正しい人間である、力があるからといって何様だ、そんな“ルサンチマン”、すなわち妬みを持ち始め、力のある人間を引きずり降ろすことによって、自己正当化を行うのが“道徳”であるという発想なのです。

 ニーチェ自身は、道徳による自己正当化をいちばん嫌います。力と力の関係であれば、力で勝負するべきだと考えるのです。力と力の勝負なのに、力以外のものに訴えて、力のある人間を引きずり降ろす。これは許容し難い行為であり、自分たちを欺いていると言うのです。

 相手を引きずり降ろすのは自分たちが支配者側につきたいからであるのにもかかわらず、力のない自分たちは優しい人間であると言って、道徳心を持ち出すのです。道徳を批判するときにニーチェはこのような言い回しを使うのですが、それは、自分自身を誠実に打ち出すことこそが望ましいと考えているからです。

 だから、力で対抗すべきなのに、それを偽り、自分は力がないと言って力のある人を批判しながら、その裏ではみんなで寄り集まって支配者になろうとする。それをまた隠れた“権力への意志”であると考えるのです。

■生物界のすべてが「力の増大」を目指す

 “権力への意志”、つまり力を増大させたいという意志は、どんなものにもあると考えます。それは決して人間だけでなく、生物界のすべてが力の増大を目指すというのがニーチェの生命観なのです。そして、それらを全面的に肯定しようという発想が”超人”という概念に繋がり、力の増大を認めようとするのです。

 それを表面上は否定して、むしろ道徳心を持たせようとするのは虚偽であると考えます。そういう嘘つきは良くないという発想です。

 これはニーチェがキリスト教を批判するときも同じで、欲望を批判、あるいは否定するキリスト教者は嘘つきであるとみなします。

 欲望も力として伸ばせばいいというのが、ニーチェにとっては望ましい態度で、欲望があるのであれば、その欲望を誠実に出すことこそが正しいと考えたのです。

 “畜群”が道徳を利用して支配者側を目指すというのも、権力への意志、すなわち力の増大の1つではありますが、ニーチェにとっては、同じ”力の増大”でも許せるものと許せないものがあります。

 その基準となるのは、偽装されているかどうかで、ニーチェがいちばん嫌うのは偽装であり、力は誠実に増大させるべきであると考えます。これこそが“超人”を目指すということの1つの意味でもあるのです。

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最終更新:10/16(土) 15:01

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