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ほぼ無職の芸人が震災機に「福島移住」した深いワケ~ぺんぎんナッツが福島で見た「希望と義理人情」

10/10 10:01 配信

東洋経済オンライン

東京や大阪で成功するだけが人生ではない。それは芸人の世界でも同じだ。都会で売れるという目標を捨て、あえて地方での活躍を目指した「よしもと住みます芸人」たちに密着する本連載。
第1回では、震災後の福島に10年住み、今では県民の多くから愛される「ぺんぎんナッツ」を追った。移住するまで“ほぼ無職同然”だった2人がなぜ縁もゆかりもない土地でレギュラー番組を獲得し、今では「福島のタレント」としての地位を確立できたのか?  執筆者はルポライターの西岡研介氏。

 「すっかり遅くなっちゃいましたね」
「さすがにこの時間じゃ、もう待ってくれては……いないよねぇ」
「こりゃ、今晩は野宿ですかね」
「いなのさんは、慣れてるでしょ」

 2011年4月27日午後9時過ぎ、福島県郡山市に向かう車内で、「ぺんぎんナッツ」の2人は、こんな軽口を叩き合っていた。

 この日、吉本興業東京本部(東京都新宿区)での「出発式」を終えた2人は、知人の車で、郡山を目指していた。その日の夕方には着く予定だったが、途中、いくつかの寄り道が災いし、待ち合わせ場所のJR郡山駅前に着いたころには午後10時を回っていた。

■「福島県住みます芸人」としての再出発

 「『住みます芸人』に決まった時に、まずは郡山で家、探さなきゃってなって。僕ら2人とも地元(福島)出身じゃないんで。それで地元の不動産屋さんに『僕たちこういう理由で、福島に住むことになったんです』って連絡したら、『家がない』って」

 こう話すのは、ツッコミ担当の中村陽介(39)だ。

 当時、郡山では、東日本大震災と、東京電力福島第一原発の事故で大きな被害を受けた、富岡町など双葉郡の住民の多くが、避難生活を送っていた。また、被災者のための「民間借り上げ住宅」の影響もあり、市内の賃貸住宅の供給が逼迫していた。

 「けど、その不動産屋さんの人がめちゃいい人で。『そういう事情で、福島に住んでくれるのなら、なんとか探します』って、震災で半壊したお店だったんですけど、探してきてくれて。家賃もめちゃ安くしてくれて」

 中村の回想を、相方で、ボケ担当のいなのこうすけ(42)が引き取る。

 「その鍵渡しの日が、『出発式』の当日だったんです。郡山駅に着いた時にはもう(午後)10時過ぎてて。不動産屋さんもさすがに待ってくれてはないだろうと諦めてたら、待ってくれていて。家に案内してくれて、『頑張って下さい』って励まされて……。いやいや、僕ら『お笑い』しかできませんからって」

 こうして、「福島県住みます芸人」としてのスタートを切ったぺんぎんナッツの二人は今、その「地元の不動産屋さん」のイメージキャラクターとしてCMに出演。郡山駅前には、2人が並ぶ同社の大きな看板が掲げられている。

 東日本大震災の発生から約1カ月の2011年4月27日から始まった、吉本興業の「47都道府県 あなたの街に“住みます”プロジェクト」。

 全国各地での地域貢献や活性化を目指し、所属芸人を47都道府県に派遣。実際に住まわせ、「住みます芸人」として活動させる――という企画だ。

 この10年で延べ213組328人のタレントが「住みます芸人」となり、地元のテレビやラジオに出演するだけでなく、ご当地のPRや、「まちおこし」に「村おこし」など地域活性化事業にも参加。これまでに就任した観光などの「大使」は313件、全国でのレギュラー番組は238本、担った地域活性化事業は800件を超え、現在も99組145人の住みます芸人が、全国で活動している。

 だが、その一方で、このプロジェクトは、それまで東京や大阪といった、競争の激しい大都会で芽が出ず、くすぶり、埋もれていた芸人が、「ローカルタレント」として再生する、あるいは「地域活性化の担い手」として生まれ変わるチャンスにもなったのだ。その「住みます芸人たちの10年」を追った――。

■ホームレスだった時期もある崖っぷちの2人

 プロジェクト開始当初は、「出身芸人が地元に戻る」というケースが、仕事の面からも、経費面からも望ましいとされていた。さらに、震災直後ということもあり、47都道府県の中でも、岩手、宮城、福島の被災3県への派遣は、会社側からの「要請」ではなく、芸人自身の「志願」が条件とされた。が、前出の中村の出身地は千葉県、いなのは福岡県の出身で、2人ともそれまで、福島はもちろん、東北地方にも縁がなかったという。

 「最初はもちろん『住みます芸人』に決まったら、千葉か福岡のどちらかに行こうっていう話はしてましたよ。その年(2011年)の1月に『住みます』の説明会があって、『若手は全員参加』みたいな感じで(ヨシモト)∞ホールに集められて。その時には、もう二人の間では、これ(住みます芸人)でいこうという感じでした」(中村)

 「コンビ組んだのは2006年だったんですけど、鳴かず飛ばずで。仕事といったら月に3本の(お笑い)ライブとか、たまに入るエキストラぐらいで、後はアルバイトばかり。バイトで生計立ててました。

 いや、正確には(生計)立てれて無かったですね(笑)。中村さんはパチンコでバイト代、全部スっちゃって、家賃払えず、アパートから追い出されてましたし、僕なんか一時期、ホームレスしてましたから。沼袋(中野区)のほうに『平和の森公園』っていう公園がありまして、そこに1年半ほど住んでました」(いなの)

 「その間にもどんどん若手が入ってきて、埋もれていくって感じだったんで。このまま東京でやってても、一花も咲かせられないのかなって。お互い、そこそこ芸歴も長くなって、歳も歳だし。はっきり言って、崖っぷちだったんですよね。そこに『住みます芸人』の話が来たんで、だったら千葉でも福岡でも、どっか新しい土地でお笑い活動やるのもいいかな、と」(中村)

 だが、その2カ月後の東日本大震災で、2人の心境に変化が生じたという。

 「最終的には、お世話になった(構成)作家さんに相談して(福島行きを)決めるんですが、いなのさんの中では最初から、福島に行くっていうのが決まってたんですよね。あまり物事を深く考えないというか、無鉄砲というか……」(中村)

 「大まかにいうと馬鹿なんですよ(笑)。震災で大変なことになっているんで、何かしなくちゃって。もちろん岩手や宮城の人たちも大変だったんですけど、福島はその上に原発事故まであって。僕らみたいな『お笑い』が何の役にも立たないんだろうけど、とにかく行かなくちゃって思ったんですよね」(いなの)

■1通のダイレクトメッセージが人生を変えた

 そして福島に来て1ヵ月後、彼らのその後の、「住みます芸人」としての生き方を方向づける転機が訪れる。

 「(2011年)5月の末ですね。TwitterのDMでメッセージが来て。『怪しい者じゃありません』みたいな感じで。そう書かれると逆に怪しいんですけど(笑)。おまけに送信者のハンドルネームが『yyjack』って、怪しすぎるでしょ。

 けれども内容を読んだら、『今、原発事故で多くの人たちが郡山に避難されているのはご存知ですよね』と。『その中でも富岡町の人たちが避難されているビッグパレットという施設でラジオ局を運営している者です』と。『一度、来てみませんか』みたいな内容で、せっかくだから2人で行ってみようかって、自転車で行ったんですよ」(中村)

 郡山市にある多目的ホール「ビッグパレットふくしま」は10年前、原発事故で全町退避を余儀なくされた富岡町、川内村の住民2500人超が避難した、東日本大震災でも最大の避難所となった。そのビッグパレットに、福島県庁から派遣された「運営支援チーム」のトップが、「yyjack」こと、天野和彦(現「福島大学うつくしまふくしま未来支援センター」特任教授)だった。天野が当時を振り返る。

 「ビッグパレットに派遣されてからほどなく、生活支援の拠点として『おだがいさま(福島の言葉で「お互い様」)センター』を立ち上げ、情報紙の配布を始めたんです。が、避難所は照明が暗く、高齢者には字が読みづらいなどの問題があって“声の情報”が欲しいな、と。そこで、ふくしまFM(エフエム福島)のスタッフの協力を得て、ビッグパレットのロビーに段ボール作りのスタジオで『おだがいさまFM』を開局したんです。

 ところが、開局したのはいいが、しゃべり手が足りない。そんな時にネットニュースで、彼ら(ぺんぎんナッツ)が『住みます芸人』としてこっちに来てる、と。こりゃ、ピッタリじゃないかって、すぐに中村くんの連絡先を調べ、TwitterでDMを送ったんです」

 そして2011年6月、ビッグパレットに「見学」のつもりで訪れた2人は、その日からいきなり「出演」することになる。

 「最初はビビりましたよ。実際に避難している人たちが生活している場ですからね。『俺たちみたいなのが入っていいの?』みたいな。そしたら天野さんに『おお、よく来たな』って呼ばれて。『お前ら今日からここで働くから、分からない事があったら、この人たちに聞け』みたいな、新入社員ばりの案内されて(笑)』(中村)

 「それで、その日からいきなり出さされて、めちゃめちゃ緊張ですよ。けど、富岡の人たちがみんな優しくて。番組終わりに『ありがとう』って言われて。『いえいえ、僕らまだ何もしてないですよ』って言ったら、『福島では、若い人たちが離れていってるのに、わざわざ「住みます」って来てくれて、ありがとうね』と」(いなの)

 こうして福島に来て約1カ月後、2人は、避難所に開設されたミニFMで週1回の、初めての“レギュラー番組”を持つことになった。

■福島でやっていけると思った

 ほんと勉強になりましたね。ラジオで話すこと自体、初めてだったんですが、リスナーはみんな、避難している人たちでしょ。どんな話し方、聞き方をすれば、被災した人たちを傷つけずにすむか。全部、おだがいさまのスタッフから学んだ、というか、盗みました」(中村)

 「当時、番組の最初に毎回、(各地の放射)線量を言ってたんですよ。『どこそこの地域は何マイクロシーベルトパーアワー(μSv/h)』って。そんな芸人いないだろうって(笑)。けど、2人のしゃべりを聴いて、地元のラジオやテレビ局の人たちも安心してくれたんですかね。ちょくちょくお試しで使ってくれるようになったんです」(いなの)

 その後、「おだがいさまFM」は避難所の閉鎖に伴い、2011年8月に閉局した。だが、富岡町民の要望を受け、郡山市富田町の仮設団地に設けられたサポート拠点「おだがいさまセンター」にスタジオを開設。臨時災害局として放送を再開した。天野が再び語る。

 「そのころには2人も地元のテレビやラジオに出始めていたので、避難所が閉鎖される際に、『(パーソナリティーを)辞めるんなら、ひとつのきっかけだと思うよ』って言ったら、『続けさせて下さい』と。『僕らがこれから福島でやっていけると思ったのは、ここがあったから。恩返しのつもりで続けさせて下さい』って。あれには、胸が熱くなりましたね。ギャラも満足に払えないのに、義理人情があるな、まさに『おだがいさま』な奴らだな、と」

 そして2018年3月末、おだがいさまセンターの閉所に伴い、おだがいさまFMもその役割を終えた。ぺんぎんナッツは最終的に、開局から閉局までの7年間、同局のパーソナリティーを務めた。天野が最後にこう語る。

 「彼らは当時、『俺たちにはもう、他に行くところがない』、『ここで生きていくしかない』っていう思いで福島に来たんだと思いますよ。その思いが、精神的にも肉体的にもギリギリの状態に追い詰められていた避難所の人たちとのそれと繋がった。

 彼らを見て、話して、気持ちが和らいだという住民は少なくないと思います。そういう意味では、彼らは福島県民から愛されているんじゃないかな。人気はいつか落ちるし、飽きられる。けど、『愛されてる』ってのは、強いと思います」

■今や誰もが認める「福島のタレント」に

 天野の言う通り、「ぺんぎんナッツ」の2人はこの7年間で、地元のテレビやラジオにレギュラー番組を獲得。10年経った今では、すっかり「福島のタレント」として定着している。

 「仕事のお陰で、今では千葉より福島のことのほうが良く知ってる、みたいになりましたけど、だからこそ、このままじゃ帰れねえなって言う気持ちはすごく強いです。(震災から)10年経っても、かかわった人たちが幸せになっていないし、『復旧』、『復興』って言われてますけど、まだまだ取り残された場所や人がいますからね」(中村)

 「僕も帰るつもりはないですね。人は優しいし、何食べても美味しいし、居心地はいいし、なにより『お笑い』で食べていけますから。逆に福岡で暮らしてる母親をこっちに呼び寄せたいくらいです(笑)」(いなの)

 福島に住み始めて10年。今では2人を「住みます芸人」ではなく、「福島出身の芸人」だと思っている県民も少なくないという。

 (文中敬称略)

東洋経済オンライン

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最終更新:10/10(日) 12:42

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