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良策のはずが墓穴「岩倉具視」に学ぶ想定外の怖さ

9/26 8:01 配信

東洋経済オンライン

「維新の三傑」といえば、西郷隆盛、大久保利通、木戸孝允だが、その裏で倒幕に貢献したのが、岩倉具視である。公家としては低い身分にありながら、強烈な上昇志向で、明治維新の立役者となった岩倉。その原動力はどこにあったのか。第5回となる今回は、尊王攘夷派の台頭によって急落した岩倉具視の運命をたどってみよう。
<前回までのあらすじ>
下級公家の堀河康親の次男として生まれた岩倉具視は、「麒麟児(才能にあふれて将来が期待できる若者)」として見初められ、岩倉具慶の養子として迎えられた(第1回)。岩倉が中央政界に自分の存在を知らしめたのが「廷臣八十八卿列参事件」だ。安政5(1858)年3月12日、88人もの公家が関白の九条尚忠邸へ押しかけて抗議した運動を主導(第2回)。その後は、朝廷と幕府の関係強化へ奔走(第3回)。「和宮降嫁」による公武合体を実現した(第4回)。

■公武合体の実現後に岩倉が見せた変節

 「最大の危機は勝利の瞬間にある」

 フランスの英雄、ナポレオン・ボナパルトは、ヨーロッパで連戦連勝を重ねながら、そんな人生の法則を導き出している。誠に至言である。だが、どれだけ先見の明がある人物でも、勝利の瞬間に自分の没落を想像するのは、容易ではない。「物言う公家」として幕末の表舞台に登場した、岩倉具視もまた同様であった。

 岩倉具視は、関白相手に立ち向かい、数多くの政治意見書を書いては孝明天皇をも動かした。恐れを知らない行動に出られたのは、岩倉に失うものがなかったからだ。下級の公家に生まれ落ちた岩倉が望んでいたのは、いつでも「変革」である。

 孝明天皇の「異国嫌い」をテコにして、幕府に攘夷を約束させながら、公武合体を実現させた岩倉。あとは幕府と手を組んで、徐々に実権を朝廷に移すのみだったが、ここで岩倉は変節を見せる。

 これまで敵視していた外様の有力諸藩に、岩倉は目を向け始めたのだ。

 朝廷が政策決定をして、幕府が実行する――。岩倉は公武合体によって、そんなシステムを目指していたが、その前に幕府が外様の有力諸藩に倒されることを危惧していた。岩倉の政治意見書では、孝明天皇に何度となく警告を発している。

 「有力大名が公家と接触して京に入ってくることは混乱の一因になりかねない。伊達や島津のような外様雄藩を頼って、幕府に対抗することは決して考えてはならない」(「神州万歳堅策」)

 「覇権を掌握しようと策略を巡らす大名が出てこないとは限らない」(「和宮御降嫁に関する上申書」)

 だが公武合体を果たしたのち、有力藩をただ敵視していた岩倉の胸中は、徐々に変化していく。朝廷中心の公武合体を実現させるためには、むしろ有力諸藩を利用したほうが吉と、岩倉の政治的勘が働いたようだ。将軍の徳川家茂をも従わせたことで、幕府の弱体化が思った以上に進んでいると実感し、より急進的な方法へと舵を切ったとも考えられる。

 志をともにするならば、先入観を捨てて手をとるべし。下級公家からはい上がった、手段を問わない岩倉らしい「変節」である。

■109人の藩兵を率いて入京した島津久光の狙い

 幕府の弱体化により、朝廷の存在感が強まる中、文久2(1862)年4月16日、薩摩藩の島津久光が総勢109人の藩兵を率いて入京してきた。いったい、何をしにきたのか。

 上京の趣旨は、大久保利通を介して、朝廷側にあらかじめ伝えていた。警備が手薄な朝廷を守りたいこと、そして、朝廷が政治を主導するために幕政に改革を促したい、というのが、久光の要望だった。

 久光は並々ならぬ意欲にあふれていたに違いない。というのも、この上京について、久光は初対面の西郷隆盛から「今、軍勢を率いて京都に上れば、大混乱になる」と反対されたばかりか、「あなたは田舎者だから……」と暴言を吐かれるという事件が起きた。

 のちに岩倉をも驚愕させる大胆不敵な西郷らしい振る舞いだが、久光が屈辱に震えたことは言うまでもない。西郷と対立を深めながら、意地になって上京を決行した久光。何としてでも、中央政界へのデビューを成功させなければならなかった。

 意欲満々に久光が近衛邸に参上すると、議奏の中山忠能や正親町三条実愛、そして岩倉具視と大原重徳が迎え入れた。その場で、久光には「過激な行動が噂される浪士の鎮静化にあたるように」と天皇の内命が下されている。久光からすれば、第一段階クリアである。

 そうして薩摩藩と朝廷が接近するなかで、文久2(1862)年5月6日、薩摩藩の大久保利通が久光に命じられて、岩倉邸にやってきた。大久保自身が「少しずつ押し切って建白を行った」と岩倉との初対面の日を振り返っている。建白の内容は「幕政の改革を幕府に迫るために、勅使を派遣したい」というものだった。

 だが、岩倉はどうも気が進まなかったようだ。勅使に自分の名が候補に挙がると、岩倉はこれを辞退。代わりに大原重徳が派遣されることになった。岩倉が辞退したのは、将軍の家茂に強引に誓書を書かせてから、まだ日が浅いことと無関係ではないだろう。自分が同行することで、思わぬ抵抗に遭うことを危惧したのかもしれない。

 さらにいえば、岩倉の代わりに勅使となった大原は剛直な男だった。大原を前面に立たせて自分は影に回るのが、今回については良かろうと岩倉は判断したようだ。岩倉は、久光の意見をもとに幕府に改革を迫る要望書を起案。孝明天皇と協議のうえ、幕府への要望として、大原と久光の一行に託されることとなった。

■徳川慶喜を後見人にする要望に幕府は抵抗

幕府の人事に朝廷が口を挟んで指示に従わせることなど、これまでありえなかったことだ。幕府側も大いに抵抗した。とくに家茂と将軍の座を争った徳川慶喜を後見人にすることには、なかなか首を縦に振らなかったようだ(『愚痴多いけどクール「徳川慶喜」ずば抜けた慧眼』参照)。

 というのも、慶喜は腹がなかなか読めない人物で、何を言いだすかわからないところがあった。その変幻自在さに、のちに薩摩藩も岩倉も困らされることになるのだが、そんなことはつゆも知らず、慶喜を強引に政権の中枢にねじこもうとしたのである。

 その結果、大原の豪胆さもあり、薩摩藩の要望が見事に通り、一橋慶喜は将軍後見職に、松平春嶽は政事総裁職に据えることに成功した。薩摩藩は将来有望たる慶喜を擁立することによって幕政に影響力を持とうとし、朝廷の岩倉や大原は、それこそが公武合体を推進させる道だと信じて、薩摩藩に手を貸した格好となった。

 朝廷中心の公武合体の実現に向けて、まさに岩倉の思いどおりに事は運んだといってよいだろう。しかし、冒頭のナポレオンの言葉にあるように、絶好調なときほど気をつけなければならないのが、人生である。このとき、すでに岩倉の足元はグラグラと揺らぎつつあった。

 岩倉の転落を招いたのは、各地で起きた尊王攘夷の台頭である。尊王攘夷派は、幕府の権力を回復させる政策として公武合体を激しく批判。文久2(1862)年1月15日には、公武合体を推進した老中の安藤信正が水戸浪士らに襲撃されてしまう。

 さらに4月、開国と公武合体を唱えた土佐藩の吉田東洋が、尊王攘夷派に暗殺された。薩摩藩でも尊王攘夷派の有馬新七らが京都所司代を襲撃すべく京に集結を呼びかけるなど、いよいよ混沌とした雰囲気となってきた。長州藩は7月、藩論を尊王攘夷に決定し、攘夷活動の中心となっていく。

 そんな状況だからこそ、薩摩藩の島津久光は取り締まりの役目を与えられたわけだが、尊王攘夷派は盛んに公家に接触しては、自分たちの仲間に引き入れようとし、その勢力は拡大するばかりだった。

 それも当然のことである。孝明天皇自身が攘夷を望んでおり、幕府はそれを約束したにもかかわらず、一向に攘夷がなされる様子はない。幕府に攘夷を約束させたのは、もともと岩倉が孝明天皇に提案したことだ。そのことが、まさか攘夷派の台頭を生み出し、自身を追い詰めることになるとは、さすがの岩倉も読めなかったようだ。

■尊王攘夷派の標的になった岩倉

 公武合体の中心的な役割を果たした岩倉は、尊皇攘夷派にとって「斬奸」、つまり「悪者を斬り殺すこと」の標的となった。ただならぬ雰囲気に、和宮降嫁に関係した近臣たちは天皇に辞表を提出。8月28日、岩倉は千種有文や富小路敬直らとともに蟄居が命じられ、辞官・落飾を余儀なくされている。岩倉は、あれだけ苦労した得た官職を辞して、一切の地位を失うことになった。

 だが、それでもまだ足りないとばかりに、土佐藩の武市半平太らは「岩倉に対する朝廷の処分が寛大すぎる。遠島にするべし」と、三条実美らに訴えている。

 9月12日の夜には、岩倉の邸内に次のような怪文書が投げ入れられた。

 「岩倉は災いがもたらされるように祈祷し、天皇を毒殺しようと計画している」

 岩倉といえば「孝明天皇を毒殺した疑いがある」と今でも一部でささやかれているが、この時点で、岩倉への誹謗中傷がすさまじかったことがわかる。怪文書では、こんな脅迫も行われている。

 「13日、14日中に洛中を立ち退かなければ、天誅を加えて、首を四条河原に晒す」

 憎悪が憎悪を呼び、大きな恨みとなって、すべて岩倉へとぶつけられたといってよい。岩倉は「夢とも現実ともいえない」と日記に記し、こう思いをにじませている。

 「無念の次第やるかたなし」

 岩倉は霊源寺に身を寄せたが、一睡もできなかった。「うつうつとして心神穏やかならず」と日記に心情を吐露している。心穏やかではないのは、霊源寺の寺主も同じである。そんな厄介な男が転がり込んできたら、たまったものではない。岩倉は霊源寺からも立ち去らざるをえなくなった。

 文久2(1862)年10月、岩倉は辺鄙な岩倉村にたどり着く。家は狭く、柱は傾き、壁も破れたボロ屋である。それから実に5年もの歳月を、岩倉はここで過ごすこととなった。

(第6回につづく)

 【参考文献】
多田好問編『岩倉公実記』(岩倉公旧蹟保存会)
宮内省先帝御事蹟取調掛編『孝明天皇紀』(平安神宮)
大久保利通著『大久保利通文書』(マツノ書店)
大久保利謙『岩倉具視』(中公新書)
佐々木克『岩倉具視 (幕末維新の個性)』(吉川弘文館)

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最終更新:10/4(月) 18:56

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