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江戸時代の庶民「家賃相場」はどれほどだったのか

9/25 14:01 配信

東洋経済オンライン

テレビドラマや映画などでよく描かれる江戸時代の人々。日々の暮らしは現代とは大きく異なっていたはずですが、「お金の面」ではどうだったのか――。日本近世史学者の大石学氏が監修した『江戸のお勘定』より一部抜粋・再構成してお届けします。

同書では、比較的物価が安定していたとされている文化・文政年間(1804~1830)を基準とし、金・銀・銭の換算は、幕府の換算基準値の1両=銀60匁=銭4000文としています。また、当時はそば1杯が16文だったことから、現代の価値に換算して1文を30円、そこから金1両を12万円と計算しています。

■男性が極端に多かった江戸の町

 天正18年(1590)8月1日、豊臣秀吉の小田原攻めの戦後処理の一環として、徳川家康は江戸に封じられ入った。従来、江戸は寒村であったとされてきたが、今では否定されている。当時の江戸は利根川をはじめとする水運の拠点として整備され、人々で賑わっていた。

 家康は江戸入り後、建設資材や都市生活を維持するための物資を運ぶために掘割を開削。慶長5年(1600)、関ヶ原の戦いで勝利し、慶長8年に征夷大将軍になると、江戸の都市整備に本格的に着手した。大名たちがこぞって工事を行う天下普請を命じ、日比谷入り江を埋め立てて、武家地を造り出し、埋め立て地の先には町人地が造られた。

 この武家地に大名たちが住み、その周辺には旗本や御家人などの幕臣が配された。こうした武士の生活を支えるために、必要な物資を調達し販売する商人や職人を、旧地の三河(愛知県)から江戸に呼び寄せた。

 三代将軍家光の代になり、大名が1年交代で江戸と国元を行き来する参勤交代の制度が整えられると、大名の家族は江戸に留め置かれたが、大名に従う家臣たちの大半は妻子を国元において江戸に出てきた。また、江戸にある大店の奉公人たちは男性ばかりというケースも多かった。

 つまり、江戸の町は男性が極端に多い都市であった。そのため、単身男性でも生活できるよう、社会が整備された。たとえば、一膳めし屋などの外食産業が盛んになり、食べ物に困ることはなくなった。大店では、炊事や洗濯に専門の人が雇われており、武家屋敷でも、家事をする人を雇うこともあった。

 使用人を雇うゆとりがない武士は、顔見知りの人や近所の商人に頼んで代行してもらう。もちろん、代金は払う。襦袢の洗濯を頼んで20文(600円)というから、商家のおかみさんもアルバイト感覚だったのかもしれない。

 裁縫も同様で、縫物を専門にしているプロ職人もいるし、近所の女性にお願いすれば、安価ですんだかもしれない。ただし、下級武士や長屋住まいの町人は、現代人に比べて極端に持ち物が少なかったので、掃除はごく簡単で、人を頼む必要はなかった。

■江戸に暮らす武士たちの住宅事情

 幕府とはもともと、将軍の居場所という意味である。それが転じて武家政権のことを指す。つまり、江戸幕府は元は軍事政権であり、武士が政治をおこなった。政治の中心地である首都江戸には、必然、多くの武士が住んだ。江戸時代中期にあたる元禄年間(1688~1704)には、江戸は百万人の人口を擁する都市であり、その半数が武士であったとされる。

 そんな彼ら武士が住んでいたのが、拝領屋敷である。拝領屋敷とは、江戸幕府から大名や旗本が拝領した屋敷のことで、たとえば、現在の東京大学本郷キャンパス(文京区)は、江戸時代、加賀前田家が将軍から与えられた場所であった。

 前田家は、広大な土地を将軍家からただでもらっていた。しかも、土地は1カ所だけではなく、小さな藩でも2カ所、 大藩になると、3カ所の広大な屋敷地を与えられた。ただし、与えられるのは土地だけで、上物は自分で造らなくてはならない。また不祥事を起こして、家がお取り潰しになれば、与えられた土地は取り上げられた。

 屋敷地は幕府から指定された場所で、自分の希望する場所はもらえなかった。幕閣として働く老中などの役職に就いた者は、日々登城できるよう江戸城の近くに、関ヶ原の戦い後、徳川家に従った外様大名は城から遠くに与えられた。

 幕府の要職から外れれば、江戸城から離れたところに引っ越さなければならないこともあった。与えられた屋敷とは別に、大名が買い取りした屋敷を大名同士が話し合い屋敷地を交換し合う「相対換」や、農民から郊外の土地を買い取って「抱屋敷」と呼ばれる屋敷を構える大名もいた。

 大名屋敷には、大名だけでなく、家臣たちも暮らしていたが、その人数は、軍事上の理由などから機密扱いであった。

 幕臣である旗本は、江戸城防衛もあり、搦手(裏手)にあたる半蔵門周辺(千代田区)などに屋敷が配された。御家人の場合、自分が所属する組単位で屋敷地を拝領することもあった。現代の公務員官舎のようなものである。

 ただし、官舎は集合住宅が大半だが、当時は庭付き一戸建てで、庭で野菜を栽培して家計の足しにした。旗本の中は、庭の一角をこっそり人に貸す人もいたという。また、組屋敷全体で、傘張りや朝顔栽培といった内職を請け負うこともあった。組単位の拝領地は、今も御徒町(台東区)など駅名として残っている。こうした武家地は江戸の7割を占め、武士たちは家賃無料で住んでいたのである。

■江戸に暮らす庶民の住宅事情

 さて、2割部分に町人たちは住んでいた。町人地は、徳川家康が江戸に入府した時に従った奈良屋、樽屋、喜多村の町年寄三家がトップとなり、彼らの下に町名主、家持、家主といった町役人がおり、自治をおこなっていた。町年寄は名字帯刀を許され、将軍にも謁見できるという、武士と同等の扱いを受ける名誉職である。幕府は町年寄にも拝領屋敷を与えたが、彼らは武士の場合とは違い、600両(7200万円)の地代を払っていた。

 町人もさまざまだが、落語に登場する庶民の代表格「熊さん」が住んでいたのは、俗に裏長屋といわれるところで、表通りに面していない場所に建てられた集合住宅であった。

 裏長屋の間取りは、間口九尺(約2.7メートル)、奥行二間(約3.6メートル)の俗に九尺二間が一般的。入口には三尺の土間があり、ここにかまど小さなへっつい(竈)と流しがあった。トイレは長屋の隅にある共同便所を使用し、風呂は湯屋に行く。

 令和時代の物件と比較すると、狭いうえに風呂もトイレもないので、とても不便なように感じられるが、昭和40年代(1965年~)頃の学生の下宿は、三畳や四畳半一間で風呂なし、トイレ、台所は共同が一般的だったから、それよりはましだったのかもしれない。

 時代や立地によって違いはあるが、この間取りで文政年間(1818~1830)なら、1カ月、800文(2万4000円)から1000文(3万円)ほどだった。家賃は今と比べれば、安かったといえるだろう。それでもまとまった家賃を払うのが困難な人もおり、日割りで払うこともあったという。

 江戸城の東側を中心に城下は整備され、発展した。特に江戸城東側の外濠付近、現在の皇居前広場や大手町、八重洲、有楽町、銀座付近は日比谷入り江と呼ばれた浅瀬を埋め立てて造られた。今の皇居前広場から大手町にかけては、「大名小路」と呼ばれるように大名屋敷が密集する地域であった。ここには大名やその家臣、家臣の従者(又家臣)など多くの人が暮らしていた。

 人間が生きていくために、まず必要なのは水である。江戸時代初期の未熟な技術では深い井戸を掘ることができず、埋め立て地では掘っても塩水しか出てこないということもあり、徳川家康は家臣の大久保忠行に飲料水の確保を命じた。大久保は目白台下の川を神田方面に通した。

 しかし、江戸の人口が増えるとそれだけでは賄いきれなくなり、三代将軍徳川家光の時代に井の頭池(武蔵野市・三鷹市)を水源とし、善福寺川や妙正寺川(ともに杉並区)などを神田川に合流させ、神田上水として供給量の強化を図った。

■水道代はどう負担していた? 

 さらにそれでも足りなくなると、羽村村(東京都羽村市)から水を引く事業が開始された。

 わずかな勾配を利用して羽村から四谷大木戸(新宿区)までの約44キロの水路を完成させた。大木戸からは石や木で造った水道管を地中に埋めて江戸城内や麹町(千代田区)、芝(港区)、京橋(中央区)などの町人地に供給した。

 水道といっても現在のようにカランから水が出るものではなく、地中に埋めた井戸から竹竿に括り付けた桶で汲み上げる。長屋に設けられた井戸を共同で使用した。

 井戸には蓋をして鍵をかけられるようになっている場合もあり、近所の人に意地悪をされ、鍵をかけられて水を汲むことができなかった話も残っている。町人地では1年に1回七夕の日に日頃使用している井戸の掃除が行われたという。

 武家地は石高に応じて水道代を支払うシステムであった。町人地は間口一間(約1.8メートル)ごとに月11文(330円)を負担していたが、裏長屋に住んでいる町人たちは、水銀と呼ばれる水道代を直接徴収されず、大家が負担していたようだ。

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最終更新:9/25(土) 18:57

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