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大誤解「安政の大獄は井伊直弼の暴走」でない根拠

8/1 8:01 配信

東洋経済オンライン

江戸幕府における第15代将軍にして、最後の将軍となった徳川慶喜。その最大の後ろ盾となっていたのが、第121代天皇にあたる、「孝明天皇」である。攘夷派の代表として多大な影響力を持った孝明天皇は、幕末におけるキーマンでありながら、語られることが少なく、実態はあまり知られていない。
いったい、どんな人物だったのだろうか。第3回となる今回は、孝明天皇の暴走が生んだ、大老の井伊直弼による「安政の大獄」について紹介しよう。

<ここまでのあらすじ>
安政5(1858)年、幕府は勅許(天皇の許可)を得ることなく、アメリカ総領事のタウンゼント・ハリスとの間に日米修好通商条約を締結(第1回)。嘉永7(1854)年のペリーとの日米和親条約のときには反対しなかった孝明天皇だが、このときは激怒する。外国と親交を持つこと自体は、時代の流れとして受け入れていたが、外国との通商には慎重な考えを持っていたためである。朝廷内で最も敵に回したくない人物だった開国論者、鷹司政通を失脚させ、主導権を握った(第2回)。

■幕府との対立姿勢を深めていった孝明天皇

 極度の異国嫌いから、日米修好通商条約に反対した――。そんなイメージばかりが強い孝明天皇だが、実際のところは、条約締結にあくまでも反対を貫くことで、ベテラン関白で開国派の鷹司政通を追い落とすことに成功していた。

 うるさ型だった政通の影響力をそぐと、孝明天皇はまさに水を得た魚のごとく、勢いを増していく。幕府が、勅許を得ずに日米修好通商条約をアメリカと締結すると、孝明天皇は「譲位も辞さない」という強硬姿勢に打って出た。

 そして幕府首脳陣に抗議する方向で朝議をまとめあげると、「御趣意書」を幕府に下すことを厳命している。御趣意書には、次のような言葉が連ねられていた。

 「皇国重大の儀である通商条約に調印してから報告したのは、三月二十日の勅答に背いた軽率な措置であり、不審だ」

 3月20日とは、安政5(1858)年に孝明天皇が幕府に勅諚を下して、条約調印に同意しなかった日のことだ。そんな孝明天皇による幕府への明確な抗議に対して、難色を示したのが、関白の九条尚忠である。九条は、幕府との関係を重視して「穏やかな文面に修正してほしい」と、議奏や武家伝奏といった連絡役を通じて天皇に伝えている。

 だが、孝明天皇の決意は固く、一歩も譲る気はなかった。関白が納得しないままに、御趣意書が幕府に送付されることとなった。天皇に意見した九条は、事実上の停職へと追い込まれている。こうして孝明天皇は、関白の影響力を廃して、幕府との対立姿勢を深めていくのだった。

 しかし、人間は勢いがあるときほどやりすぎてしまい、足元をすくわれてしまうものである。この「御趣意書」は安政5年の干支が戊年だったことから「戊午の密勅(ぼごのみっちょく)」と呼ばれ、大きな問題を引き起こすことになる。

 朝廷は、戊午の密勅によって、幕府を批判して外国にきちんと対処するように命じた。そこまではまだよいとしても、あろうことか、密勅を水戸藩にも直接下したのである。このころ、水戸藩藩主の徳川斉昭は条約の調印をきっかけに、大老の井伊直弼と対立。水戸屋敷での謹慎を命じられていたが、密勅には、次のようにも書かれていた。

 「徳川斉昭らを処罰したようだが、難局にあたって徳川家を扶翼する家を処罰するのはどうか、心配である」

 さらに密勅は、鷹司家を通じて加賀や長州などに、近衛家を通じて尾張や薩摩などへも写しという形で伝達されている。

 さすがにこれはやりすぎであった。朝廷から直接、水戸に密勅を下すというのは、幕府の支配体制を考えると、明らかな逸脱行為であることは言うまでもない。また、関白を差し置いて、孝明天皇が朝議をまとめたことも問題視された。孝明天皇は、自分が条約に猛反対していることを対外的に打ち出そうとするあまりに、幕府からの激しい反発を呼び起こすことになったといってよい。

 そのころ、幕府は大老に井伊直弼を据え、京都所司代には経験がある酒井忠義を再任し、朝廷への監視を強化していた。酒井は「天皇が関白の人事に口を出すことは控えてほしい」と、連絡役の武家伝奏に念押ししている。そのうえで、老中たちの意見として、幕府寄りの九条を関白に復職させることに成功した。

 あれだけ怒りを対外的に表明していた孝明天皇は、幕府の反撃を受けて、矛を収めるしかない状況に追いやられてしまった。その失速を決定づけたのは、大老の井伊直弼による「安政の大獄」である。

■慶喜を嫌う13代将軍から大老に指名された井伊

 時計の針を少し戻そう。安政5年3月20日、老中首座の堀田正睦は、日米通商修好条約について孝明天皇から許可を得るはずが、「再度諸大名の意見を伺うように」と差し戻されてしまった。

 勅許を得られなかった堀田が失意の中、江戸に帰ったところ、さらにショックな出来事が待ち受けていた。大老職に彦根藩主の井伊直弼が就任するというのである。

堀田は大老として福井藩主の松平慶永を、そして次期将軍として徳川慶喜を推薦していたが、第13代将軍の徳川家定から、その意向をまるで無視されたことになる。それも無理はない。家定は慶喜のことを心底嫌っていたのである。まだ自分が元気なうちから、後継者として注目される慶喜のことが、家定はどうにも気に食わなかった(「名君? 暗君? 『徳川慶喜』強情だけど聡明な魅力」参照)。

 周囲で次期将軍をめぐる思惑が交錯する中で、家定によって大老に指名されたのが、井伊直弼であった。拝命された井伊は「時節といい、大任といい、恐れ入る」と言いながらも、「粉骨砕身して忠勤する」と大老の職を引き受けている。

 井伊直弼といえば、日米通商修好条約を強引に締結し、「安政の大獄」で反対勢力に弾圧を行った強権政治でよく知られている。だが、その実像はといえば、意外なほどに慎重な性格だった。

 井伊は大老に指名された翌日に登城すると、まず堀田のところに行き、「大老を辞退したい」と申し入れている。もちろん、これはポーズにすぎない。堀田が説得してもなお、井伊は辞退の姿勢を崩さないが、将軍から再び請われると、その任務を引き受けている。あくまでも、強く要請される形での大老就任にこだわった。

 就任した時点では、井伊がまさか辣腕を振るうとは、誰にとっても予想外だったらしい。岩瀬忠震や松平慶永らは、大老の就任が決まった井伊について、こんな評価を下している。「児童に等しき男」「器量に非ず」……ほぼ無能だと言われているに等しい。

 だが、井伊はそんな前評判も何のその、意欲に満ち溢れていた。就任したその日に、御用部屋に老中らを集めて、議論を活発に行って周囲を驚かせている。

 また井伊は、大老に就任してすぐ、将軍の後継問題を片付けてしまう。血統を重視して紀州藩主の徳川慶福を推挙。一橋慶喜を推す前水戸藩主の徳川斉昭ら一橋派を抑え込んで、慶福を次期将軍に据えることに成功している。第13代将軍の家定が死去すると、慶福が徳川家茂として、第14代将軍に就任することとなった。

 そして次なる大きな課題こそが、条約調印の問題であった。

■「勅許を得ずに調印すべきでない」と主張した井伊

 井伊直弼には「孝明天皇の反対にもかかわらず、勅許を得ることなく、強引に条約調印を進めた」という印象が強いが、それは誤解である。孝明天皇の強い拒否反応を示したという報告を受けて、幕府は即日に三奉行はじめ関係諸役人を召集し、評議を行うこととなった。そのとき、ほとんどの役人たちは「直ちに調印すべき」と申し立てている。

何しろ、この通商条約については、老中が溜詰・大廊下・大広間の大名とも話し合って決めたものである(第1回参照)。すでに下田奉行の井上清直と、目付の岩瀬忠震らが幕府全権としてハリスと交渉を開始していた。条約の締結については「幕府の専権事項であり、特に勅許を得る必要はないだろう」という意見も多い中、念のため朝廷の意見も聞いたにすぎない。

 つまり、そもそも勅許を得る必要などないという意見が大半だった。しかし、その中で「勅許を得ないうちは調印すべきでない」と主張したのが、ほかでもない井伊直弼であった。井伊の慎重論に賛成するのは、若年寄の本多忠徳のみ。このまま「勅許は必要なし」と押し切られてもおかしくはなかったが、井伊は御用部屋に戻って、老中らと再び審議をしている。とにかく慎重には慎重を期す性格である。

 話し合ったところ、老中のなかで、堀田と松平忠固は「即時に調印すべきだ」と主張。意見をまとめる立場の井伊は、自分の慎重論を推し通すことなく、妥協案として、全権である井上と岩瀬の両人に、こう伝えている。

 「勅許が得られるまではできる限り調印を延期するように、ハリスと交渉してほしい」

 現場からすれば難しい交渉になるのはいうまでもない。井上は井伊に「交渉が行き詰まった場合は調印してもよいか」と尋ねて、井伊はこう答えている。

 「その際は仕方がないが、なるべく延期するよう努めよ」

 受け取り方によっては、井上や岩瀬はうまく井伊から言質をとる格好となったともいえよう。結局、日米通商修好条約は勅許を得ることなく、締結されることになってしまった。

 現場の暴走……としてしまうのは、やや酷かもしれない。実際に交渉する、井上や岩瀬からすれば、延期は現実的ではなかっただろう。ただ、同時に「井伊直弼の暴走」とも、経緯を見るかぎりは言えなさそうである。

 木俣家本の「公用方秘録」によれば、井伊は、側役の宇津木景福に事の成り行きを報告して、こんな苦言を呈されている。

 「勅許がない状況で、調印を決断するならば、あらためて諸大名の合意を取らなければならなかったのではないか」

 これには、井伊も弱気になってしまい、こう応じている。

 「その点に気づかなかったのは無念であり、この上は身分伺いより他はない」

 側役の指摘を素直に受け入れて、井伊は「大老を辞するしかない」とまで思い詰めていたのである。そこに強権の姿勢は見る影もない。井伊としても、天皇の意向にできるだけ沿わなければ、という気持ちがあったことが十分に読み取れる。

 後先を考えずに暴走をした人間がいるとすれば、それは孝明天皇にほかならない。勅許なき条約に対して、幕府に苦言を呈するのはまだしも、幕府への不信感から水戸藩に直接、密勅を下すのは、明らかに統治体制から外れた行為であった。

■井伊が「水戸の策略」と思い込むのは当然

 顔を潰されたのは幕府であり、大老の井伊直弼である。井伊は「これは水戸の策略に違いない」と思い込んだ。天皇から水戸藩に直接、命が下されたのだから、経緯を踏まえれば、そう考えるのも当然だ。

 「密勅にかかわった者を徹底的に処罰すべし」と、井伊は「安政の大獄」に踏み切った。一橋慶喜を推した「一橋派」の人々や尊王攘夷派の大名、公卿、志士たちが徹底的に弾圧された。その結果、8人が死罪となり、100人以上が処罰されている。

 いわば「安政の大獄は、孝明天皇の暴走が引き金となった」といっても過言ではないだろう。幕府の弾圧によって、水戸藩の徳川斉昭は蟄居。その息子である、のちの徳川慶喜までもが、謹慎処分を科せられている。

 井伊による弾圧が行われる中、孝明天皇もまた失意の中にいた。あれだけ対立した九条関白との関係を表面上は取り繕いながら、左大臣の近衛忠煕への手紙で「一人ぼっちで、相談相手もなく、心細い……」とこぼしている。

 不遇な時期を自ら招いた孝明天皇と、理不尽な運命をいきなり背負わされた徳川慶喜――。しかし、安政7年3月3日に「桜田門外の変」が起きて、井伊が暗殺されると、状況は一変する。

 暗いトンネルを抜けて、孝明天皇と徳川慶喜の2人は、政治の表舞台へと再び現れることになるのだった。

(第4回につづく)

 【参考文献】
宮内省先帝御事蹟取調掛編『孝明天皇紀』(平安神宮)
日本史籍協会編『一条忠香日記抄』(東京大学出版会)
渋沢栄一『徳川慶喜公伝全4巻』(東洋文庫)
福地重孝『孝明天皇』(秋田書店)
家近良樹『幕末・維新の新視点 孝明天皇と「一会桑」』(文春新書)
藤田覚『幕末の天皇』(講談社学術文庫)
家近良樹『幕末の朝廷―若き孝明帝と鷹司関白』(中央公論新社)
家近良樹『幕末維新の個性①徳川慶喜』(吉川弘文館)

松浦玲『徳川慶喜 将軍家の明治維新増補版』(中公新書)
野口武彦『慶喜のカリスマ』(講談社)

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最終更新:8/9(月) 10:22

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