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大政奉還は緻密な戦略だった!倒幕に動く薩長が手を焼いた「徳川慶喜」の驚くべき突破力

6/20 7:01 配信

東洋経済オンライン

「名君」か「暗君」か、評価が大きく分かれるのが、江戸幕府第15代将軍の徳川慶喜である。慶喜の行動は真意を推しはかることが難しく、性格も一筋縄ではいかない。それが、評価を難しくする要因の1つであり、人間「徳川慶喜」の魅力といってもよいだろう。その素顔に迫る短期連載の第9回は、大政奉還を断行したかと思えば、クーデターをも受け流す政略家、慶喜について紹介する。
<第8回までのあらすじ>
江戸幕府第15代将軍の徳川慶喜は、徳川家と朝廷の両方の血筋を受け、その聡明さから、みなの期待を一身に背負って育った。将軍になどなりたくなかった慶喜だが(第1回)、若き将軍、家茂の後見職の座に就くことになり、政権の中枢に据えられていく(第2回)。

優れた開国論を心に秘めていた慶喜。攘夷など非現実的だと思いながらも、幕府と朝廷の板挟みに苦しむ(第3回)。いったんは幕府を離れて、参与会議の一員となるが、薩摩の政治的野心にうんざりし、暴言を吐いて会議を解体。朝廷を守る禁裏守衛総督に就任し、長州の撃退に成功する(第4回)。

だが幕府による第一次長州征伐では、慶喜は蚊帳の外に置かれたうえに、お膝元である水戸で天狗党が挙兵し、その対応に追われた(第5回)。第二次長州征伐では、幕府は長州藩に敗北して、家茂は病死(第6回)。ようやく将軍職を引き受けた慶喜は、最大の後ろ盾だった孝明天皇を亡くすが、4カ国の公使を相手に外交手腕を見せて開国へと舵を切る(第7回)。大胆な幕政改革にも着手するなど、意外なリーダーシップを見せるが、幕府を立て直すことは難しく、朝廷に政権を返す大政奉還を踏み切ることとなった(第8回)。

■大政奉還への不満や怒りは織り込み済み

 「未曾有のご英断、誠に感服に堪えず」

 徳川慶喜が意外にも大政奉還に応じる姿勢を見せると、提案した土佐藩の後藤象二郎らは、そう口にした。一方で、不満を持った者も多くいた。江戸から入れ替わり立ち替わりに老中が慶喜のもとに現れては、口々にこう責められたと、慶喜自身が振り返っている(『昔夢会筆記』)。

 「なぜ、政権を返してしまったのですか。今になって徳川家を潰してしまっては、東照宮に対しても申し訳がたちませんぞ!」

 東照宮とは、家康のことである。初代に顔向けができないと批判されたら堪えそうなものだが、慶喜は「関東の者は総じて時勢に疎く、すこぶる説得に困った」と、どこ吹く風である。老中だけではなく、会津藩、桑名藩の両藩や幕臣を中心にさまざまな方面から、大政奉還への不満や怒りの声が上がるが、そんなことは織り込み済みだ。

 このとき慶喜が注視していたのはただ一点、薩長の動きである。慶喜が二条城の二の丸御殿に、老中などを集めて政権返還について演説したのは、慶応3(1867)年10月12日。翌13日に在京諸藩の重臣に通告し、さらにその翌日の14日に、慶喜は大政奉還の上表文を朝廷に提出している。

 後藤が幕府に建白書を提出したのが10月3日であることを考えると、かなりのスピード感である。老中や在京諸藩の重臣に通告したときも、慶喜の勢いに気圧されて、その場では真正面から反論した者がいなかったというから、相当な決意をもって断行したことがわかる。

 さらに慶喜が朝廷に強く求めたため、その翌日の15日には受理されている。朝廷にすれば、望んでもいない政権を無理やり渡された格好だが、慶喜は急いでいた。実際のところ、もしこの決断が一日でも遅れていたら、状況は大きく変わっていただろう。

 慶喜が大政奉還の上表文を朝廷に提出した10月14日に、薩摩藩の大久保利通と長州藩の広沢兵助らは、公卿の正親町三条実愛(おおぎまちさんじょうさねなる)から、徳川慶喜追討の詔書を授かっている。これは岩倉具視の策略であり、朝議も経ていなければ、天皇も認めていない偽勅だったが、それを承知のうえで、薩摩と長州は受け取ったのだ。

 これで幕府を討てる――。そんな矢先に、慶喜が政権を朝廷に返してしまった。慶喜は「小松はこの間の消息に通ぜるをもって、ただ今直ちに奉還を奏聞せよと勧めたるものなるべし」と、内戦を避けたいと考えた薩摩藩の小松帯刀から、密かにリークがあったことを明かしている。

 慶喜が政権を返上したことで、薩摩は倒幕へと動けなくなった。岩倉具視はといえば、偽勅が発覚してはまずいと、10月21日に密勅を取り消すというバタバタぶりを見せている。周囲にはいかにも拙速に見えた慶喜の大政奉還だが、薩摩の動向を踏まえれば、むしろギリギリのタイミングでの起死回生の一策であった。

■朝廷が何もできないのもシナリオどおり

 大政奉還で朝廷に政権を受け取らせることに成功した慶喜。朝廷は政権の主になったが、急にそんなことを言われても、何ができるわけでもない。朝廷はこんなスタンスをとるしかなかった。

 「大事は諸大名の会議で決めるが、日常的なことはこれまでどおりにせよ」

 これでは、徳川家の勢力も日々の暮らしも何ら変わらない。広大な領地はそのままで、かつ、天皇が持つわずかな料地すらも、これまでどおり徳川が管理することになった。慶喜自身が、日常業務について「すべてこれまでどおりでよいのか」と朝廷に念押しして、10月22日に「これまでどおりでよい」という回答を引き出している。

 慶喜の交渉はまだ続く。23日には「外国とのやりとりなども、これまでどおりでよいのか」と朝廷に確認。その返事を待つことなく、翌日に征夷大将軍の辞表を朝廷に提出して、揺さぶりをかけることを忘れない。「全部そちらにお任せしても、こちらは何ら問題ない」というポーズである。

 朝廷としては、そんな大仕事を任されたところで困ってしまう。朝廷から26日に「外交・内政ともに、平常の業務はこれまでどおり」という趣旨の返事を引き出すことに成功。何もかも慶喜のシナリオどおりに進んだ。

 大政奉還で政権を返上することで、慶喜は、旧幕府や諸藩が協力するまったく新しい形の朝廷を主体とした新政権の樹立を頭に描いていた。ようやく幕府の呪縛から解き放たれた慶喜。幕臣に対して大政奉還について述べたとき、こんな意欲あふれる言葉をかけている。

 「皇国の大権を一にし、天下と共同会議、全国の力を尽くして事に従って、海外万国と並び立つべき大業を期すべきなり」

 心を同じくしてともに協力して、皇国を保護すれば、海外の万国と並び立つことができるはずだ――。のちに明治新政府は「富国強兵」のスローガンのもと、列強と肩を並べるべく近代化に邁進することになるが、まさに同じ目標を慶喜は掲げていたのである。

■大久保や西郷は影響力を排除しようとしたが・・・

 倒幕に向けてまさに動こうとしていた薩摩藩の大久保利通と西郷隆盛らからすれば、たまったものではない。慶喜はこれまで何度も、政局において大胆な行動に出ることで、キーマンとなって政権の中心に居続けた。

 このままでは、徳川幕府に代わる新政府が樹立されたとて、慶喜が高官に採用されることは、間違いない。それでは同じことの繰り返しで旧態依然とした体制から抜け出せないと、大久保や西郷は考えたのだろう。あくまでも、徳川の影響を排除したかたちでの新政府にこだわった。

 そこで慶応3年12月9日、大久保と西郷らが中心となり、薩摩・土佐・尾張・越前・安芸の5藩が協力して、「王政復古の大号令」と呼ばれるクーデターが決行される。5藩の兵が御所を軍事的に制圧。天皇の名前で幕府と摂政関白を廃止し、新政府の発足を高らかに宣言したのである。

 突然の強行突破に、慶喜はどうしたのか……といえば、将軍を廃されたにもかかわらず、特に何もしなかった。実のところ、実行される3日前に越前藩を介して、クーデターが行われるという情報は、慶喜のもとに入っていた。もし、それを二条摂政や中川宮、会桑両藩に知らせて、御所に厳戒態勢を引けば、クーデターは防げただろう。

 だが、慶喜はあえてスルーして、周囲にクーデターの計画を伝えなかった。なぜなら「天皇中心に新政権を築く」という王政復古の大号令の趣旨には、何ら反対ではないからだ。

 慶喜はのちに、このクーデターについて、こう振り返っている。

 「予は別に驚かなかった。すでに政権を返上し、将軍職をも辞したのだから、王政復古の御沙汰があるのは当然であり、王政復古にこれらの職が廃されるのもまた当然だからである」

 むしろ、慶喜は、大政奉還に反対し、幕府による支配にこだわる勢力を抑えることさえしている。「薩摩、許すまじ」と御所に追撃しようとする幕臣や会桑両藩士らを制止して、大阪に下っていったのである。

 薩摩からすれば、なかなかリングに上がってこない慶喜に、またも肩透かしを食らうことになった。逃がしてなるものかと、大久保は小御所で会議を開いて、慶喜の処遇について、こう主張した。

 「内大臣の官位を辞してもらい、800万石におよぶ徳川領の返上を命じたい」

 厳しい処遇は、慶喜を追い詰めるためだけではない。なにしろ、新政府を京で開いたものの、財政的な基盤もない。旧幕府の広大な領地がなければ何も始まらないため、大久保は新政府の第一歩として、この辞官納地問題から手をつけようとしたのである。

■薩摩藩の強硬路線は支持されなかった

 だが、徳川家だけに犠牲を求めるのはいかがなものか、という意見が会議では相次ぐ。王政復古のクーデターに賛成した者からも、薩摩藩の強硬路線は支持されなかった。大政奉還を主導した土佐藩にいたっては、クーデターへの参加自体が、内戦を避けるために渋々だったともいわれている。

 まさに、この状態こそが、大久保や西郷が、武力による幕府の討伐にこだわった理由だった。穏健的に譲られては、改革派でまとまるのが難しくなる。薩摩藩と同盟関係にあったイギリスからも強硬路線については反対されてしまい、新政府は早くも行き詰まりを見せていた。

 慶喜はといえば、大坂城でイギリス、フランス、アメリカ、オランダ、イタリア、プロシアの公使と会見。しかも、いずれも相手側から要求されての交流であり、慶喜はそこで「自分が主権者」とはっきり明言している。

 そうして慶喜は、新政府が自滅するのを待ちながら、財政難で苦しくなった朝廷から資金援助を頼まれると、快く献金を快諾。朝廷との関係性を重視しながら、薩摩を打倒するためのアプローチをし始めていた。

 結局、また慶喜のペースだ。ところが、潮目が大きく変わる。

 そのころ江戸では、薩摩藩邸に匿われる浪士たちによって、庄内藩預かりの新徴組の屯所を襲撃されるなど、挑発行為が繰り返されていた。怒った庄内藩が、江戸の薩摩藩邸を焼き討ちにしてしまったのである。

 大坂城に知らせが届くと、会桑両藩兵や旧幕府将士たちは、快哉の声をあげて喜んだ。そして、薩摩討伐へと一気に流れが加速していく。そうして徳川軍と新政府軍は、鳥羽・伏見の戦いで、ついに激突する。

 兵力からいえば、徳川軍が負けるはずのない戦いだった。

 (第10回につづく)

 【参考文献】
徳川慶喜『昔夢会筆記―徳川慶喜公回想談』(東洋文庫)
渋沢栄一『徳川慶喜公伝全4巻』(東洋文庫)
家近良樹『徳川慶喜』(吉川弘文館)
家近良樹『幕末維新の個性①徳川慶喜』(吉川弘文館)
松浦玲『徳川慶喜将軍家の明治維新増補版』(中公新書)
野口武彦『慶喜のカリスマ』(講談社)
藤谷俊雄『「おかげまいり」と「ええじゃないか」』(岩波新書)

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最終更新:6/20(日) 7:01

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