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フィフィ「日本愛」育み45年、歯に衣着せぬ快活人生

6/16 10:01 配信

東洋経済オンライン

これまでにないジャンルに根を張って、長年自営で生活している人や組織を経営している人がいる。「会社員ではない」彼ら彼女らはどのように生計を立てているのか。自分で敷いたレールの上にあるマネタイズ方法が知りたい。特殊分野で自営を続けるライター・村田らむが神髄を紡ぐ連載の第96回。

■エジプト出身の外国人タレントが歩んできた道のり

 フィフィさん(45)はさまざまなメディアで活躍する外国人タレントだ。出身はエジプトであり、現在もエジプト人だ。

 バラエティー番組や情報番組で活躍するフィフィさんだが、ブログやツイッターでは歯に衣着せぬ意見を発信し、たびたび話題になっている。

 著書『おかしいことを「おかしい」と言えない日本という社会へ』(祥伝社)では、日本が抱える諸問題へ果敢に斬り込んでいる。

 日本人にとって耳が痛い話も多いが、フィフィさんが日本とエジプトに対する深い愛情があることも伝わってくる。

 フィフィさんがこれまでに歩んで来た道のりを伺った。

 フィフィさんは2歳のときに両親とともに来日した。両親は2人とも大学教員だった。

 「当時のエジプトの研究者はヨーロッパに行きたい人が多かったそうです。エジプトからヨーロッパは距離も近いですからね」

 ただヨーロッパの大学の席はすでに埋まっていた。まだ日本へ行く人は決まっておらず余っていたので、フィフィさんのお父さんは立候補したという。

 「父は日本の情報を何も持っていませんでした。言葉もまったくできずに来日しましたから、すごい苦労をしたと思います」

 フィフィさんは2歳だったから当時の記憶はほとんどないが、それでもかすかに情景は覚えているという。

 「母はお腹が大きい状態で日本に着いて1カ月で妹を生みました。私たちは三姉妹です。大学生が住むような狭い安アパートに5人で住んでいました。

 ただ狭いんですけど、とにかく小ぎれいにしていました。小さい頃の写真を見ても、きれいな服を着させてもらっています。決してぜいたくできない環境でしたが、ママは常々、

 『清潔感が大事なんだ』

 と言っていました」

 フィフィさんの両親はまったく知らない日本での活動に苦労をしたが、娘たちには娘たちの苦労があったという。

 「私たちは普通の名古屋市の公立学校に通いました。当時はほとんど外国人がいませんでした。だから、どこに行っても私たちが最初の外国人でした。いつも、

 『はじめてのケースです』

 って言われながら育ちました。

 日本語では苦労してないんですけど、クラスの人たちと一緒に過ごしているとどこかで壁が出てきます。『あ、私たちだけ違うんだ』と思うことは何度もありました」

 フィフィさんのお母さんは、日本で『国際政治』の博士号を取得した。

 日本は景気のいい時代だったので、講演会やイベントの仕事も多かった。暮らし向きはよくなり、家も購入し、家族で引っ越した。

 「両親はずいぶん頑張ったと思います。

 母は湾岸戦争が起こった頃、評論家としてテレビにも出演していました。

 母は日本語がおぼつかなくて討論についていけていませんでした。番組を見ながら、もどかしさを感じたのを覚えています」

 当時のテレビ番組は今よりも、

 『アメリカが正しい』

 『イラクやアラブ人が悪い』

 という結論になりがちだった。

 「当時はインターネットもありませんから、テレビで流れる情報が絶対的でした。アラブ人の立ち場で番組を見ているとフラストレーションがすごかったです。『テレビが流すものがすべて正義』というのもすごく不満でした。このときのわだかまりが、今の活動にもつながってると思います。今思えば小さい頃から『文章で表現する仕事』『ジャーナリスト』にあこがれていたと思います」

■大学進学後、共産主義にあこがれ中国を何度も旅行

 フィフィさんは中京大学に進学した。

 大学時代は、共産主義に強い憧れを持った。中国に何度もバックパッカーで旅行した。

 「いろいろな地域を旅しようと思っていたのですが上海が好きになっちゃって、ほとんど上海にいました。その頃の上海は好景気で、毎月新しいビルが建つような状況でした。私は日本ではバブルを経験したことがない世代なので、日本も当時はこんな雰囲気だったのかな?  とワクワクしました。古いものと新しいものが入り交じりながら経済成長していく上海はすごくかっこよく感じ、憧れました」

 フィフィさんは当時、鄧小平が好きだったという。たまたまだが鄧小平が亡くなったときにもフィフィさんは中国にいた。

 「香港に行こうと思っていたタイミングだったんですが、鄧小平が亡くなって警戒が厳しくなりました。私も40分ですが、警察に拘束されました。逆らうと丸裸にされると聞いていたので、おとなしくしていました。私はアラブ人だし、しょっちゅう中国に来ているし、スパイだと思われたんでしょうね(笑)。

 ただ共産主義に対する憧れは、大人になるとともに消えていきました」

 そしてリクルートスーツを着込み、就職活動をはじめた。ただでさえ就職難の時代だったが、それとは関係のない大きな壁にぶつかった。

 「どこに行っても開口一番に『英語をしゃべれますか?』って聞かれるんです。当時私は英語はほとんどできませんでした。アラビア語や中国語はある程度できましたが、それでは意味がないんですね。この見た目ですからわかりやすい『外国人』が求められます。結局、どうしても英語はついてまわるんです。それで3日で就職活動はあきらめて、アメリカに行くことにしました。ママは私が共産主義にかぶれているのを知ってましたから、『アメリカに行く』と言ったら『敵国に乗り込んで何をする気だ?』ってずいぶん怖がってました(笑)」

 フロリダ、ニューヨークと渡り住み、2年弱をアメリカで過ごした。日常会話はなんとかしゃべれるようになった。

 「帰国後に就職活動をしたらやっぱり『英語をしゃべれますか?』って聞かれました。『しゃべることができます』と答えたら、即日採用が決まりました」

 フィフィさんは24歳で名古屋に本社がある、カラオケを主業務とする企業に就職した。

 就職した翌年25歳のときに、アメリカで出会った日本人の男性と結婚をした。

 「3年後、たまたま夫が東京で就職することになったんです。ずっと名古屋に住んでいて、東京にはほとんど行ったことがなかったんです。やはり日本の中心である東京に住みたいと思いました」

■上京、そして外国人タレント事務所に所属

 会社を辞めて夫とともに東京へ引っ越した。まだ先のことは何も決めていなかった。

 「たまたま夫を六本木で待っているときに、そういえば六本木には『稲川素子事務所』があるな、と思い出しました」

 稲川素子事務所は外国人タレントのマネージメントを業務とした芸能事務所だ。稲川素子事務所のホームページには『世界142カ国 5200人の外国人タレントを紹介します』と記載されている。

 「電話ボックスの電話帳で稲川素子事務所の電話番号を調べて電話をかけました。そうしたら『今から来てください』と言われました」

 事務所内にはたくさんの外国人があふれていた。皆、その場で登録していた。

 「なんだか入管審査みたいな雰囲気でした。はい、そこに立って、パシャ!!  みたいな感じですね。たまたま稲川素子さんが事務所にいらっしゃいました。『あなたどこの国?』って聞かれたので、『エジプトです』って答えたら『あらそう、がんばってね』って言われました。

 その後、『奇跡体験! アンビリバボー』にエキストラで呼ばれました。すぐに殺される死体役と、宇宙人にさらわれる役でした(笑)」

 それからフィフィさんは就職活動をして、ある会社に就職が決まった。ただちょうど妊娠が発覚しお腹が大きくなってきたため、就職はいったん断った。とにかく、この後のことは子供を産んでから考えようと決めた。

 「まだお腹が大きいときに稲川素子事務所から電話があって『マジックに出られる?』って聞かれました。今妊娠してお腹が大きいんですって言ったら、『ちょうどいい。お腹を切るマジックをやりましょう』って言われました(笑)」

 出産後、雨上がり決死隊がホストをつとめる『アイチテル!』という番組に出演することになった。

 実はオーディションでは落ちていたのだが、

 『フィフィさんが持っている強烈なエピソードを話してくれないか?』

 と臨時で頼まれた。

 「番組に出演したら反響がとても強くて、それから毎週出演することになりました。2年間レギュラーで出演させていただきました。

 当時はただの素人外国人ですから、電車でテレビ局に向かうわけです。この外見ですから、街を歩いてると顔バレしまくって大変でした。テレビに出るようになるまで、芸能人としてのトレーニングをまったく受けていませんでした。情報番組のレポーターもぶっつけ本番でした。カメラマンさんに『カメラにお尻を向けては駄目!』とか教わっていました」

■あの「徹子の部屋」にゲスト出演

 活躍の幅が広がり、稲川素子事務所に本契約をすることになった。テレビに出て1年で、『徹子の部屋』に出演することになった。稲川素子事務所ではルビー・モレノ以来の快挙だと言われた。

 「当時、ドッキリ番組に何度も引っ掛けられていたんです。だから『徹子の部屋』も絶対にドッキリだと思ってました。

 スタジオに行ったら、黒柳徹子さんはいるし、番組はつつがなく進行していったんですが、それでもドッキリだと勘ぐっていました。

 番組の最後でテーマソングが流れているときに黒柳さんに『どうでした?』と聞かれて『ずっとドッキリだと思ってたんですけど、本当だったんですね』と言って、番組は終わっていきました」

 バラエティーでのおもしろ外国人としてのキャラクターを確立させつつ、2009年にはツイッターをはじめた。

 「『ツイッターなら、言いたいことが言える!!』って思っちゃったんですね。まだそんな時代でもなかったです。発言するたびに、よく炎上していました。元祖炎上系のタレントですね。

 ただ、2011年の東日本大震災を契機に芸能人も腹をくくって言いたいことを言う人が増えてきました。それはとてもいいことだと思います」

 東日本大震災では、とても心に残るテレビ出演があったという。

 「震災後はずっと報道番組ばかりでしたよね。震災から2週間後、初の通常のテレビ番組に出演することになりました。みんな楽屋でも、ソワソワしていました」

 番組はゲームをしたり、クイズをしたりしながら無事進行していった。番組の最後のコーナーでは、書道家が登場し震災に関した文字を書き、最後に赤い日の丸を書いた。

 「その様子を見ていたらなんだか緊張がとけたのか、大泣きしてしまいました。出演者全員、ぐしゃぐしゃに泣いていました。まだインフラが回復していない人たちがたくさんいるのはわかっていて、でもみんな『それでも普通に戻さなければならない』って使命を帯びて頑張っていたんですね。すごく印象的な番組でした」

 折しも2011年には、エジプトでは革命が起こった。チュニジアの革命を起因として起こった、『アラブの春』のうちの1つにあたる。

 エジプト国内では、大規模なデモが繰り返され、ムバーラク大統領は退陣した。

 「私はその日、情報番組に出ていました。番組ではエジプトの革命を取り扱いました」

 フィフィさんは、自分の顔がワイプ画面に抜かれたときに、

 『私はどんな顔をしたらいいんだろう?』

 と思った。

 現在、エジプトでは若者たちが命がけで革命をしている。私はこんなことをやっている場合なんだろうか?  と自問自答した。

■エジプト革命についてブログ執筆

 「私はエジプトの人のために何もやってないじゃないか?  って思いました。当時は今より、芸能人は社会的なことや政治的なことはしゃべらないほうがいいという空気がありました。でもそんな空気は無視して、ブログを書くことにしました」

 フィフィさんは実家に帰ると、一心不乱にiPhoneでエジプト革命について書いた。熱が入り、全身から汗が吹き出した。

 夜中に書き上げて、自身のブログにアップした。夜中なのにもかかわらず、掲示板などですぐに話題になっていくのが見て取れた。

 そして朝になると多くのネット記事として取り上げられていた。

 「話題になっていくことに、気持ちよさと怖さを同時に感じていました。私はどこに行っちゃうんだろう?  とも思いました。事務所にも相談していませんでしたから」

 2011年にはフィフィさんはサンミュージックプロダクションに移籍していた。ちなみに現在も同事務所に所属している。

 年末に、テレビ局でたまたまサンミュージックプロダクションの社長と顔を合わせた。

 フィフィさんは

 「いつも炎上しちゃってすいません」

 と社長に頭を下げた。

 「そうしたら社長が、

 『いやいや、あなたみたいなタレントがいてくれてもいいんだよ』

 って言ってくれたんですね。この言葉が、自分の中にすごく残ってます。だから今も安心して、自分のやりたいようにやっていますね」

 その後はブログの反響もあって、以前よりも情報番組に呼ばれる機会が増えた。

 ただ、そのような番組では、おじさんのジャーナリストの出演者が多い。

 「『なんなの?  どんな立ち場でしゃべってるの?  ただの外国人でしょ?  タレントでしょ?』ってとにかく手荒い洗礼を受けました。ただそうやって言われても仕方ないな、それでも続けよう、って思いました。

 コメンテーターをずっと続けてきて、おじさんたちと顔なじみになり、最近では『フィフィちゃん』って言われるようになりました。ここまで来るのに、ずいぶん時間がかかりましたね」

 フィフィさんは、2013年に『おかしいことを「おかしい」と言えない日本という社会へ』を上梓した。

 「『言いたいことを、そのまま書かないですか?』という依頼でした。小さな頃から本を出したいという気持ちがあったのでうれしかったです」

 フィフィさんは名古屋で就職していたとき、出張のたびに会社には内緒で出版社に原稿を持ち込みに行っていたという。

 「出版社からは『名古屋弁をしゃべるエジプト人』という部分だけを注目されました。私が書きたいものを書かせてもらえるわけじゃないんだな、と落胆しました。

 だから書籍で、自分の書きたいことを書けるというのは素直にうれしかったです。ゴーストライターをつけずに、全部自分で書きました。やっぱり自分の言葉で伝えたかったので」

 芸能の仕事は忙しく、またお子さんも小さく手間もかかった。執筆ができるのはほぼ夜中だけだった。夢中で書いて、気づいたら朝になっていることもあった。

 「日本の方々にメッセージを伝えたい、恩返しをしたい、という気持ちを集約しました。子供を産むくらいの気持ちで作りました。その気持ちは伝わったみたいで、読者の方が『ここで泣けたんだよ』っていうページは、実際に私が泣きながら書いているページでした。評判がよかったのもうれしいですし、本を出したことで両親を安心させられたというのもうれしかったです」

■「自分は何者なんだ」をつねに考えてきたからこそ

 フィフィさんのSNSや書籍を読むと、日本人以上に日本のことを考えていること、そして愛していることが伝わってくる。

 それは、なぜだろうか? 

 「日本に生まれた日本人にとって、自分が日本人であるのは当たり前のことだと思うんです。特別に考えるチャンスはあまりありません。でも私の場合は、つねに『自分は何者なんだ?』ということを考えなければいけない環境にありました。小さい頃から、日本で育ちながらも、どこかでエジプト人としてのアイデンティティーを保たなければなりませんでした。

 日本のことも、エジプトのことも、普通の人よりずっと長く深く考えているから、愛おしく感じるようになったんだと思います」

 フィフィさんの2冊目の書籍は『日本人に知ってほしいイスラムのこと』という、日本人にイスラム文化を解説する本だった。

 国際化が進む日本だが、イスラムに対する理解はあまり進んでいない。衣食住、文化、習慣、歴史など、さまざまな視点からわかりやすく解説している。

 「私自身、イスラム教徒です。小学校の頃は給食で豚の献立がある日は食べられないので、自分の家からおかずを1品持っていっていましたね。

 実際に今も、そういうことで悩まれている親御さんは多いと思います。会社にイスラムの方がいる、出張でイスラムの地域に行ったりする人に役立つ本が作れたなと、自負しています」

 アグレッシブな活動を続けてこられたフィフィさんだが、コロナ禍が訪れてからはどのように過ごしているのだろうか? 

 「私はたとえ災難があっても、それをバネにしてなにかを得るという生き方がしたいんです。コロナでも、コロナだからこそできることがしたいと思っています」

■「浅い知識で話してきたから、もっと深いところに行きたい」

 「とにかく今までは芸能と育児で大変でした。勉強するにもヒマがなくて、情報番組でもSNSでも浅い知識で話しているという自覚がありました。今はとにかくもっと深いところにいきたいので、毎日さまざまなことを勉強しています。勉強はコロナ禍が収まっても続けていきたいと思っています。また書きたいテーマが見つかったら、書籍を書くかもしれません」

 コロナ禍で仕事が不安定になったり、収入が減ったりすることに不安は感じないのだろうか? 

 「そもそも私はお金のために働かないほうなんです。明細を見たこともないです(笑)。むしろお金よりも、やりたいことをやれているというのが大事なんですよ。

 お金や他人の心など、自分ではどうしようもないことでは悩まないほうがいいですよ。ずっと悩んで考えていたって解決しないですから。とにかく自分でできることをする。前に進んでいくしかないですからね!!」

 フィフィさんはとてもエネルギッシュで、話しているだけでこちらも元気になってきた。

 これからもさまざまなメディアで活躍してほしいと思った。

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最終更新:6/16(水) 10:01

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