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実生活も人間失格?没後73年の「太宰治」 名作生む一方で自殺未遂、麻薬中毒と波瀾万丈の人生をたどる

6/13 14:01 配信

東洋経済オンライン

2012年の暮れから連載が始まった漫画「文豪ストレイドッグス」が火付け役となって広がったのが「文豪」ブームです。文豪たちは人並み外れたイメージと言葉を自在に操る一方で、私たちと同じように生きて暮らし、悩み、悦び、苦しんだ生活者でもあります。では、文豪たちはどこで誰とどのように暮らし、何を考えていかに生きたのでしょうか。暮らしと執筆の場である住宅をめぐる事情を知ると、その姿が鮮明に浮かび上がってきます。

今回は文豪の中でも人気の高い1人であり、6月13日で没後73年になった「太宰治」の住宅事情について解説します。
※本稿は『文豪たちの住宅事情』(田村景子編著、小堀洋平著、田部知季著、吉野泰平著)から一部抜粋・再構成したものです。

■青森屈指の富豪の家庭に生まれた

 太宰治は、生涯自らの家を建てることはなかった。

 「どこに住んでも同じことである。格別の感慨も無い。(中略)どうでも、いい事ではないか。私は、衣食住に就いては、全く趣味が無い。大いに衣食住に凝って得意顔の人は、私には、どうしてだか、ひどく滑稽に見えて仕様が無いのである」(『無趣味』)

 衣食住に「無趣味」の太宰が住んだ生涯で最も贅沢な住宅は生家である。太宰治(本名:津島修治)は1909年、青森県北津軽郡金木村大字金木字朝日山414番地、津島家の和室10畳間で生まれた。当時、完成してから2年ほどとまだ新しい豪邸は、1階が11室278坪、2階が8室116坪、庭園などを含めた宅地は約680坪、建築費は約4万円だったという。公務員の初任給が50円という時代であるから、ケタ違いの大金である。

 父津島源右衛門は1904年に青森県内の多額納税者番付で4位となっており、金融業を営む津島家は青森屈指の富豪であった。

 しかし、太宰の実家に対する見方は冷淡である。

 「私の家系には、ひとりの思想家もいない。ひとりの学者もいない。ひとりの芸術家もいない。役人、将軍さえいない。実に凡俗の、ただの田舎の大地主というだけのものであった。(中略)この父は、ひどく大きい家を建てた。風情も何も無い、ただ大きいのである。間数が三十ちかくもあるであろう。それも十畳二十畳という部屋が多い。おそろしく頑丈なつくりの家ではあるが、しかし、何の趣きも無い」(『苦悩の年鑑』)

 この家は、現在太宰治記念館「斜陽館」として知られ、2004年には近代和風建築の代表例として国の重要文化財にも指定されている。そうした壮麗な造りも太宰にとってはとりたてて注目すべきことではなかった。

 ただ、父親の生家である松木家を訪ねた際、新たな面を発見してもいる。

 「この家の間取りは、金木の家の間取りとたいへん似ている。金木のいまの家は、私の父が金木へ養子に来て間もなく自身の設計で大改築したものだという話を聞いているが、何の事は無い、父は金木へ来て自分の木造の生家と同じ間取りに作り直しただけの事なのだ。

 (中略)私はそんなつまらぬ一事を発見しただけでも、死んだ父の『人間』に触れたような気がして、このMさんのお家へ立寄った甲斐があったと思った」(『津軽』)

 このように、太宰が見ていたのは住宅そのものではなく、そこに住む「人間」であった。そうした意味で、自らの理解者のいない津島家を「何の趣きも無い」ものと感じていたのだろう。

■よき理解者である井伏鱒二との出会い

 金木第一尋常小学校、明治高等小学校を卒業した後、1923年、青森中学校入学を機に実家から離れ、遠縁にあたる青森市寺町14番地の豊田家に寄宿した。この年の夏休みに井伏鱒二の『幽閉』を読み、座っていられないくらい興奮したという。

 この井伏鱒二こそが太宰のよき理解者となる人物であった。弘前高校時代には同人誌『細胞文芸』をつくり、井伏に原稿を依頼している。1930年、東京帝大仏文科に入学すると同年5月に井伏鱒二と面会し、師事した。こうして終生にわたる2人の関係が始まった。

 上京した太宰は共産党のシンパ活動にのめりこんでいく。主な役割は自らの住居をアジトや連絡拠点として提供することであった。3年ほどは戸塚町諏訪、神田区岩本町、大崎町五反田、神田区同朋町、神田区和泉町、淀橋町柏木、八丁堀、芝区白金三光町などを転々としており、刑事の訪問を受けてその日の夜に引っ越すこともあった。

 この間に、小山初代との仮祝言をあげており、その生活は次のように記されている。「学校へもやはり、ほとんど出なかった。すべての努力を嫌い、のほほん顔でHを眺めて暮していた。馬鹿である。何も、しなかった。(中略)遊民の虚無。それが、東京の一隅にはじめて家を持った時の、私の姿だ」(『東京八景』)。

 1933年1月3日、袴をつけて井伏鱒二宅を訪問。筆名を太宰治と決め、同月に運動との関わりを断った。翌2月には杉並区天沼三丁目741番地に転居している。この家は杉並区清水町24番地に住んでいた井伏の近所であった。次に住むのも天沼1丁目136の借家2階の4畳半と8畳であり、井伏が住む荻窪の地で、第一創作集『晩年』に収録される作品を書き進めた。

 しかし、平穏な日々は長く続かない。1935年3月に自殺未遂騒動を起こすと、4月に急性虫垂炎で入院。温暖な千葉県船橋町五日市本宿1928へ転居する。8畳、6畳、4畳半の3部屋で家賃17円、門のところに夾竹桃が植わった家であった。

 ここで太宰はパビナール(麻薬)の中毒に陥る。きっかけは虫垂炎の手術の際に鎮痛剤として乱用されたことである。当時、パビナールは1本30~50銭ほどで手に入った。カレーライス並1皿が15~20銭(1936年)という時代であり、それほど高いものではない。最終的には1日十数本注射するというありさまで、身体は限界だった。

 「井伏さん、私、死にます」(1936年9月15日井伏鱒二宛て書簡)という状況に至り、井伏らの説得で東京武蔵野病院の閉鎖病棟に収容される。

 薬物中毒から回復して退院すると、入院中に起きていた初代の不倫が発覚、初代と谷川岳で心中未遂を起こした後、離別する。この後、杉並区天沼1丁目213番地鎌滝方に移転するが、井伏の勧めで山梨県河口村御坂峠天下茶屋の2階端8畳の部屋で執筆に専念することになる。

■井伏の紹介で見合い結婚

 転機は、井伏の紹介で県立都留高等女学校に勤務していた石原美知子と見合い結婚をしたことであった。美知子夫人は太宰のよき理解者となり、生活を支え、太宰の死後はあらゆる資料を収集して太宰の文業を後世に伝えた聡明な人物だ。この結婚式で媒酌人を務めたのも井伏夫妻であった。

 太宰は井伏に「結婚は、家庭は、努力であると思います。厳粛な、努力であると信じます。浮いた気持は、ございません。貧しくとも、一生大事に努めます。ふたたび私が、破婚を繰りかえしたときには、私を、完全の狂人として、棄てて下さい」(1938年10月25日井伏鱒二宛て書簡)という誓約書を書き送っている。これを機に太宰は1年弱の間、甲府で暮らした。

沼の底、なぞというと、甲府もなんだか陰気なまちのように思われるだろうが、事実は、派手に、小さく、活気のあるまちである。よく人は、甲府を、「擂鉢の底」と評しているが、当っていない。甲府は、もっとハイカラである。シルクハットを倒さかさまにして、その帽子の底に、小さい小さい旗を立てた、それが甲府だと思えば、間違いない。きれいに文化の、しみとおっているまちである。 (『新樹の言葉』)
 新居は甲府市御崎町56番地の借家で、8畳と3畳、3畳は障子で2畳の茶の間と1畳の取次とに仕切ってあった。この家について太宰は「何より値が安く、六円銭なので、それが嬉しかった」(『当選の日』)と語っている。

 一方、美知子夫人はガスも水道も通っておらず、トタン屋根で夏は畳まで熱くなったということに触れて家賃相応の家だったと見ている。ただ、太宰にとってこうした住宅の不便はあまり問題ではなかった。芸術や学問に理解のある石原家の人々に囲まれた甲府時代を「私のこれまでの生涯を追想して、幽(かす)かにでも休養のゆとりを感じた一時期」(『十五年間』)と振り返っている。

 1939年9月、東京府北多摩郡三鷹村下連雀113(現三鷹市下連雀2114)に転居する。6畳、4畳半、3畳の3部屋に、玄関、縁側、風呂場がついた12坪半ほどの小さな借家で、日当たりのよい新築の家だった。

■長女も生まれ、楽しい日々を過ごしていたが・・・

 近隣には作家が多く住み、中央線沿線の文士たちが集った阿佐ヶ谷将棋会に参加するなど、楽しい日々を過ごしている。

 「先日、井伏さんと多摩川へ、ハヤを釣りにまいりました。(中略)あの日の成績は、井伏氏三十、文藝春秋の下島氏は五十、濱野修氏は四十、私は、三匹でありましたが、それでも私は皆にほめられました。ただいまは、私も親子三人ですから、一人に一匹づつで、ちょうどよかったわけであります」(1941年10月23日竹村坦宛て書簡)

 ここには1941年に長女園子が誕生した喜びもあらわれているだろう。

 戦中は甲府、青森に疎開し、1946年11月に帰京すると流行作家の仲間入りを果たす。戦後には『ヴィヨンの妻』、『斜陽』(1947)、『人間失格』(1948)といった代表作を次々に書きあげていった。

 しかし、その一方で「太宰のような人はもっと都心を離れた、気候のよい、暮らしやすい土地に住んでゆっくり書いてゆく方がよかった」と美知子夫人が言うように、三鷹の地は人との関わりが多すぎた。太宰の生活は急速に乱れていく。

 この時期の太宰は仕事部屋をいくつかもっていたが、その1つが行きつけの小料理屋「千草」(三鷹町下連雀212番地)の2階6畳間だった。そして、その筋向かいの家の2階を借りていたのが、ともに玉川上水に入水することになる山崎富栄である。井伏が訪れ忠告をしたこともあったようだが、戦後の太宰は井伏を避けるようになっていった。

 太田静子や山崎富栄と関係をもち、「破婚を繰りかえしたときには、私を、完全の狂人として、棄てて下さい」とまで言って結婚に尽力してもらった井伏とは顔を合わせづらかった。こうして太宰は、人間関係に押し流されるがまま、最期の時へと突き進んでいく。

そこで考え出したのは、道化でした。それは、自分の、人間に対する最後の求愛でした。自分は、人間を極度に恐れていながら、それでいて、人間を、どうしても思い切れなかったらしいのです。そうして自分は、この道化の一線でわずかに人間につながる事が出来たのでした。おもてでは、絶えず笑顔をつくりながらも、内心は必死の、それこそ1000番に1番の兼ね合いとでもいうべき危機一髪の、油汗流してのサーヴィスでした。(『人間失格』)

■太宰の危機に周囲も気づいていた

 「千草」の増田静江は「先生はいいかたでしたけれどほんとに怖がりんぼでした」と言う。人間を恐れるからこそ関わらずにはいられないという性格が心身を消耗させていった。

 こうした太宰の危機に周囲も気づいていないわけではない。

 『人間失格』の連載や『井伏鱒二選集』編纂などで関係の深かった筑摩書房の古田晁は、太宰を御坂峠で静養させる計画をたて、井伏に太宰と御坂峠へ滞在することを依頼している。ただ、戦後の食糧難の時期、食糧を持たずに旅をするわけにはいかない。

 古田は郷里の長野に食糧調達に赴き、帰ってきたのが6月14日。太宰の遺書が発見された日であったという。太宰の遺体が見つかった6月19日は桜桃忌と名づけられ、現在も、三鷹の禅林寺に多くの人々が集っている。

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最終更新:6/13(日) 14:01

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