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無人駅「浜川崎」昔は東京モノレール延伸構想も 鶴見線・南武支線が発着、工業地帯の発展支える

5/16 4:31 配信

東洋経済オンライン

 新型コロナウイルスの感染拡大を理由に、2020年に開催を予定していた東京五輪は延期された。それから1年、いまだ日本はコロナ禍の渦中にある。

 1964年に開催された東京五輪は、日本が戦後復興を果たしたことを世界へアピールする狙いがあった。そうした事情から、開催都市・東京のインフラ整備も急ピッチで進められた。

 東京五輪とともに高度経済成長のシンボルとして語られることが多い東海道新幹線は、東京五輪の開催決定前から建設されることが決まっていた。しかし、五輪開催が決定すると大会前に開業することが求められた。そのため、「五輪に合わせて開業した」と表現されることがある。実際、東京五輪は10月10日に開幕したが、東海道新幹線は10月1日に一番列車が走った。

■東京モノレールが浜川崎に? 

 東京五輪とセットで整備された鉄道で、もうひとつ忘れてはならないのが東京モノレールだ。

 東京モノレールは五輪開幕直前の9月17日に開業。東京都心部と羽田空港とを結ぶ役割は歳月を経るごとに大きくなっていった。羽田空港側の駅は、空港の拡張とともに位置を変えながら現在に至る。

 他方、都心側の起点は新橋駅になる予定だったが、複雑な事情から乗り入れを果たせず、現在も浜松町駅のままになっている。羽田空港が再国際化された2010年以降は、その存在感がさらに大きくなり、それに伴い延伸構想が再議論された。東京モノレールの延伸計画は事あるごとに浮上するが、実現できていない。

 そんな東京モノレールだが、ほかにも各方面へ路線を広げる計画を立てていたことはあまり知られていない。壮大な計画の中には横浜への路線も含まれ、その途中駅として浜川崎駅もあった。

 1960年に同社が発行したパンフレットを見ると、羽田空港からそのまま延伸して横浜駅に接続する横浜線、横浜駅から横須賀駅を経由して江の島・茅ケ崎・小田原付近を通過して芦ノ湖畔の元箱根へと至る箱根線、そして天王洲アイル付近から分岐して東京湾岸を東進。当時はまだ東京ディズニーランドは開園していないが、その付近を横切って千葉駅、そしてJFEスチール東日本製鉄所付近を終点とする千葉線などが計画されていた。

 計画された路線の総延長距離は、約190kmにもおよぶ。現在の東京モノレールは総延長が約17.8kmだから、10倍以上の路線網を築くことが計画されていた。

 そんな壮大なモノレール構想は、1968年に申請を取り下げたことで幕を下ろす。今から振り返れば無謀とも思える構想だが、残された資料を見ると、横浜線の実現にはかなり熱を入れていたことが窺える。浜松町駅―横浜駅間は予定路線図だけではなく列車運行図表が作成され、早朝・夜間は10分間隔、昼は5分間隔で運転することを想定していた。

 列車運行図表には途中駅として7駅が書き込まれており、そのうち東神奈川駅・子安駅・浜川崎駅の3駅は京浜東北線や京浜急行電鉄などの既存駅と乗り換えが想定されていた。

 そうした計画の中で、浜川崎駅の存在は際立っている。

■川崎の発展を牽引した地

 現在の浜川崎駅は南武線(浜川崎支線)と鶴見線の2路線が乗り入れている。南武線は川崎駅と立川駅を結ぶ本線と、尻手駅から分岐する約4.1kmの浜川崎支線からなり、浜川崎駅に乗り入れているのはこの支線だ。

 両路線の駅はそれぞれ独立して開設されており、乗り換えにはいったん改札を出る構造になっている。浜川崎駅がそんな構造になっている理由は、南武線と鶴見線がもともと別の鉄道会社が運行し、互いがライバル関係にあったからだ。

 高度経済成長期までの浜川崎駅は、鉄道会社にとって多くの需要が見込める魅力的なエリアだった。

 浜川崎駅一帯は明治末から埋立造成が始められたエリアで、官営鉄道(国鉄)が貨物駅を開設したのが1918年。鶴見線の前身である鶴見臨港鉄道が駅を開設したのは1926年だった。これらの鉄道が、後に京浜工業地帯の核となる工場群へ物資・工員を輸送し、日本全体の工業発展に寄与した。

 鶴見臨港鉄道のオーナーだった浅野総一郎は数々の事業を起こして財閥を築いたが、その中心は工業だった。しかし、浅野は川崎で起業したわけではない。当初は生まれ故郷の富山で、そして明治に入ってからは東京で事業を起こした。

 浅野は王子製紙が廃品として捨てていたコークスを回収・販売したことで地歩を築き、その後は東京・深川でセメント事業などを手がける。

 王子製紙は今年の大河ドラマ『青天を衝け』の主人公・渋沢栄一が起こした企業で、浅野と渋沢は終生にわたってビジネスパートナーとなったが、2人の付き合いはそこから始まっている。浅野は深川でセメント工場を操業していたが、明治20年代に入った頃から深川は都市化が進み、振動・騒音が激しく粉塵を撒き散らすセメント工場は周辺住民から煙たがられる存在になっていた。

 浅野は大規模工場の建設が可能な新天地を求めていた。セメントの大量生産には広大な敷地が必要だった。しかも、消費地に近くなければならない。浅野は適地として川崎に着目し、ここを埋め立てて工場地を新たに生み出すことを構想した。民家のない埋立地なら、大規模な工場を建設しても、周辺住民から忌避される心配はない。

 浅野は埋立地を造成するため、1908年に鶴見埋立組合を設立。渋沢をはじめ金融財閥として頭角を現していた安田財閥総帥・安田善次郎からも協力を取り付け、1913年から川崎臨海部で約150万坪もの広大な埋立事業を始める。埋立事業は横浜側から始まり、市境を越えて川崎市域にも及んでいく。その埋立地の中心は、浜川崎駅だった。

■埋立地進出第1号は日本鋼管

 川崎臨海部の埋立事業が始まると、そのトップバッターとして、実業界で活躍する浅野の娘婿、白石元治郎が日本鋼管(現・JFEスチール)の工場を開設。現在も同工場は浜川崎駅前に立地している。

 日本鋼管は埋立地への進出企業第1号になるが、白石の思惑とは裏腹に浅野は民間による製鉄事業は成功しないと考えていた。しかし、事業は軌道に乗り、日本鋼管は日本の近代化に不可欠となっていく。

 日本鋼管の成功を受け、浅野も考えを改める。日本鋼管に続いて、近隣に浅野の主力事業だった浅野セメントが工場を開設。そして、1916年には浅野造船所を、1918年に浅野製鉄所といった具合に製鉄事業にも進出した。川崎臨海部の埋立事業は1928年まで続くが、その前年に鶴見臨港鉄道が浜川崎駅―弁天橋駅間を開業している。鶴見臨港鉄道が埋立事業の掉尾を飾ることになった。

 鶴見臨港鉄道の開業前から、浅野は南武鉄道(現・JR南武線)や京浜電気鉄道(現・京浜急行電鉄)・青梅鉄道(現・青梅線)の経営にも関わっていた。

 南武鉄道と京浜電鉄は、神奈川県内の鉄道事業者だから浅野とのつながりも理解しやすい。しかし、青梅鉄道は東京都内にしか路線を有していない。それだけを見ると、青梅鉄道への関与は不思議に思えるかもしれない。

 青梅はセメントの原料となる石灰石の採掘が盛んで、青梅鉄道も石灰石を輸送するという鉄道貨物事業のかたわらで採掘も手がけていた。浅野はそうした点に着目していたわけだが、もちろん鉄道貨物が工業振興に欠かせないことも早くから見抜いていた。

 そのため、浅野は経営に関与するだけではなく、後にシナジー効果が高いと判断した南武鉄道・青梅鉄道を買収して傘下に収める。さらに、石灰石の採掘・搬送を目的に設立機運が高まっていた五日市鉄道(現・JR五日市線)の経営にも関与していく。浅野が経営に関与した鉄道会社は、ほかにも石灰石輸送で活況を呈した三重県の三岐鉄道がある。

 川崎臨海部に集まった工場は、第一次世界大戦による好景気によって業績を上げていく。当然ながら、それは川崎の経済を刺激した。大戦後の反動で一時的に景気は悪化したものの、関東大震災で東京・横浜の工場が被災すると、川崎の工場がそれを補った。東京・横浜で被災した工場が新たに川崎へと移転することも多く、川崎臨海部全体の伸長につながった。

 さらに関東大震災の教訓から復興にはコンクリート造の建築物が求められることになり、セメント事業を手がけていた浅野自身の勢いを増すことにつながった。

■16年で人口が6倍超に

 川崎臨海部の勢いは、川崎市全体の人口増加を引き起こす要因にもなる。1924年には川崎町・大師河原町・御幸村の3町村が合併し、人口5万人を擁する川崎市が誕生。市制施行から16年間で人口は6倍以上の31万人超まで増加する。それが原因で川崎市は1930年代に深刻な住宅難に陥った。川崎市としては嬉しい悲鳴といったところだろうか。

 川崎臨海部の活況は、貨物輸送に加えて鉄道旅客輸送の活発化も招いた。

 京浜電鉄は1919年に子会社の海岸電気軌道を設立し、総持寺駅(現在は廃止)から日本鋼管や浅野セメントなどの工場地帯、浜川崎駅近くを通って大師線の大師駅までを結ぶ路線を1925年に全通させた。海岸電気軌道は1930年に鶴見臨港鉄道に買収されて同社の軌道線となった。

 だが、それまで貨物輸送のみだった鶴見臨港鉄道も同年から旅客輸送を開始。軌道線の利用者は減り、同線は1937年に廃止された。

 第二次世界大戦後の川崎臨海部は多くが軍需工場となり、既存路線だけでは通勤需要をさばけないとの判断から1944年に工員輸送を担う川崎市電が運行を開始。川崎市電は川崎駅前から浜川崎駅へと向かう路面電車だったが、実は川崎市は市電開業前年の1943年に大師線を買収して環状線を運行する計画を立てていた。

 大師線を運行していた京浜電鉄は、陸上交通事業調整法で1942年に東京の私鉄各社と合併して東京急行電鉄(いわゆる大東急)になっていた。海岸電気軌道を手放したものの、川崎市から大師線を守るために桜本駅まで段階的に線路を延伸させた。

 この買収防衛策に対して、川崎市電も線路を延伸させて対抗。結局、両者の線路は桜本駅まで延びることになったが、川崎市電も東急も桜本駅を別々に設置している。

 冒頭でも触れた東京モノレールも浜川崎駅を経由する延伸計画を立てていたが、これも浜川崎駅への通勤需要を期待したものだった。そうしたことからも、浜川崎駅を中心とする川崎臨海部がいかに大口需要だったかが窺えるだろう。

 しかし、高度経済成長期に貨物輸送はトラックへと切り替えが進み、工場への通勤手段もバスへと代替されていった。そうした社会の潮流もあり、川崎市電は1969年に全廃。市電から買収を逃れるために延伸した小島新田駅―桜本駅間も1970年に廃止された。

■工業都市からベッドタウンへ

 工業都市として発展してきた川崎は、2000年代から東京のベッドタウンへと姿を変えつつある。いまだ臨海部に工業都市の面影が残っているものの、武蔵小杉駅に象徴されるようにタワーマンションがあちこちに建つようになり、その波は臨海部にも及び始めている。

 ベッドタウン化により人口増がつづく川崎は、他方で工業都市・川崎の面影を失いつつある。そして、工業都市の象徴でもあった浜川崎駅からも活気に翳りが見え始めている。

 行政当局は臨海部のテコ入れを図るべく、2016年に浜川崎駅と川崎新町駅間に小田栄駅を新設。小田栄駅は浜川崎駅から約1.4kmしか離れていないが、駅周辺は工場街というよりは商業施設やマンションが増加傾向にある住宅街。駅の新設で新しい住民をさらに呼び込むことで活性化に期待をかける。

 さらに浜川崎駅の利便性を向上させるため、川崎駅へと直結する川崎アプローチ線も模索されている。同区間は1971年まで貨物専用線として使用されていた。廃止後、跡地は宅地化が進み復活させることは容易ではない。それでも川崎アプローチ線に寄せられる期待は大きい。

 約15年間にわたる川崎臨海部の埋立計画を見ると、浅野は最終的に川崎臨海部を単なる工場地帯で終わらせるつもりはなかったようだ。

 浅野は産業革命で工業化が進んだイギリスの港湾都市・ドックランズと川崎臨海部を重ね合わせながらも、いずれは浅草のようなエンターテインメント施設がひしめく街にすると夢を膨らませていた。

 それだけに浜川崎駅は、いまなお未完成といえるのかもしれない。

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最終更新:5/16(日) 4:31

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