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意外と知らない「カウンセラー」驚愕する仕事内容

5/15 16:01 配信

東洋経済オンライン

依頼者の抱える問題や悩みに対して、専門的な技術や知識を使って援助するカウンセリング。そのときにかける言葉は、ときに一般常識からかけ離れたこともあります。「カウンセラーが最も大切にしなければならないことは、最初に理論ありきではないということだ」と語るのは、カウンセラーとして40年以上のキャリアを持つ信田さよ子氏です。カウンセラーの仕事について、新著『家族と国家は共謀する サバイバルからレジスタンスへ』を上梓した信田氏が解説します。

■にこやかにやってきた男性が放った驚く一言

 38歳の男性は2カ月ぶりにカウンセリングにやってきた。毎月来談していた彼が1カ月間隔を空けたことをわずかに心配していた私だったが、部屋に入った彼を見て驚いた。これまで目にしたことのないデニム地の上着を羽織り、一度も見せたことのない晴れやかな表情をしていたからだ。

 「何かいいことでもあったのでしょうか?」

 私も思わず明るい口調になって、椅子に座るやいなや質問した。

 「父が亡くなったんです」

 「……ああ、そうだったんですか」

 一瞬の沈黙ののちに、私はそう応えた。表情はできるだけ変化させないように努めながらである。このような場面は珍しいことではない。ある50代の女性は1年ぶりにカウンセリングに訪れたのだが、部屋に入って椅子に座るなり、発した第1声がそれだった。

 「先生、やっと母が死にました」

 朗らかな、まるで長年背負った重荷から解放されたかのような清々しい声だった。みごとに和服を着こなした彼女は、見違えるほど若返っており、長年の吃音がすっかり修正されていた。

 長年の母との確執、それでいて、彼女が母の保護者でいなければならない状況を誰よりも知っていた私は、こっそり小さい声で言った。

 「よかったですね……」

 カウンセラーは身の丈を伸ばすことが求められる。およそ一般常識からかけ離れたこのような言葉も、カウンセリングでは許される。そして、私たちカウンセラーが最も大切にしなければならないことは、最初に理論ありきではないということだ。

 もちろん、専門家として多くの書を読み、学説に精通することは、プロの一般常識として必要であることはいうまでもない。しかし、目の前に座って苦しんでいる人が語ることを、とにかく聞くこと、そして聞いた内容を私なりに文脈化していくことが何より優先される。

 文脈化とは、あたかも作家が物語を創作することに似ている。語られたプロットのリアリティーを損なわず、どのように断片をつなげていくか、つなげるにあたって何を接着剤として用い、類似の先行する物語をどのように検索するか。そして何より、物語は必ず範型(フォーマット)を必要とするものである。ゼロから立ち上がる物語などない。文法しかり、語法しかり、そして起承転結といった形式も一種の範型である。

 カウンセラーの実力をどのように測るかという論議はあまり気乗りがしないが、あえて述べれば、このフォーマットが豊かであるかどうかにかかっているのではないか。

■カウンセラーの身の丈は伸ばすことができる

 ある文章にこんな1節があった。うろ覚えだが、「人の話は、結局、聞く側の身の丈以上の聞き方はできない」といった内容だったと思う。フォーマットの豊かさとは、要するに身の丈がどの程度の高さであるかということだ。身の丈=身長は成長期ならまだしも、成人してからは縮みこそすれ伸びることはない。それは、厳然とした客観的事実である。

 しかし、私たちカウンセラーの身の丈は、どんどん伸ばすことができる。正確に言えば、クライエントの語る内容によって伸びることが要請される。おそらくクライエントは、カウンセラーのその点を鋭く査定しているのかもしれない。この人は、私の語る内容をどの程度まで許容し、どの程度までくぐりぬけてくれるのだろうか、と。

 例えば、ある女性クライエントが「夫婦関係がうまくいかないのは、私が虐待されてきたせいではないでしょうか」と語るとき、どのように受け止めるだろう。

 もしも、あるカウンセラーが「虐待は世代連鎖するもの、虐待された人は自己肯定感が乏しいので、当然夫婦の関係においても自己主張より相手の期待に沿おうとして無理が生じる」といった、すでに定型化された常識的で陳腐な虐待理論を範型としていれば、そのクライエントの自己肯定感の低さに焦点化しようとするだろう。

 ところが、世代連鎖という一種の運命論的言説のまやかしを知って、その範型を超えていれば、親からの虐待と夫婦の関係を直接的に結びつけることに無理があるのではないだろうか、という見方を提出できるはずだ。それによって、これまで誰にも話したことのないことを、クライエントは語ることができるかもしれない。「私、実はレズビアンなんです」という発言のように。

 クライエントの発言によって、このようにカウンセラーは身の丈を伸ばすことが求められる。カウンセラーが内心驚いているのに、なんとか動揺を隠そうとしていることなど、すぐに見抜かれてしまうものだ。身の丈を伸ばすことを求める時点で、すでにクライエントは可能性の有無を査定しているのかもしれない。なぜなら、カウンセリング料金を払ってまで、これまでの人生を賭けた援助を求めているのだから。

 査定に賭けるものの大きさを考えれば、その厳しさは当然であり、私というカウンセラーがクライエントから合格点を与えられるとすれば、何よりうれしいことに違いない。正直に言えば、偉い先生や同業者からの評価はもちろん気になるけれど、クライエントからの評価ほどではない。

 さまざまな範型が世の中には流通しているが、家族にまつわるものほど強固で無謬と思われているものはない。それは、ドミナントストーリー(支配的物語)と呼んでもいいほどである。

 テレビのチャンネルを回せば、どの局でもそれらであふれかえっている。親を責めるなんてとんでもないことであり、家族には乾杯をしなければならず、夫婦はいろいろあったけれど最後は仲良くなるに決まっている、のだ。親は子どもをかわいがるに決まっているし、虐待をする親は異常な人間に違いないのだ。

 一世を風靡した時代劇俳優が亡くなった際、娘が葬儀を欠席したことについて「どうして許せないのか」「最後くらいは看とってやるべき」「どれほど娘に会いたかったか」といった批判がワイドショーでは相次いだ。

 多くのクライエントは、そのニュースを異口同音にこう評した。

 「娘さんはよく葬儀を欠席したと思います。よほどのことをされたんでしょう。だって、葬儀に出られるものなら出たほうがいいに決まってますもん。きっと、父の行為を許したら自分がだめになると思ったんでしょう。それほどひどいことをされてたんだと思いますよ」

 虐待やDV(ドメスティック・バイオレンス)がしばしばマスコミで話題になり、多くの殺人事件が家族間で起きているにもかかわらず、ドミナントな家族の物語はいっそう強固になり、補強されつつあるようにみえる。だからこそ、私たちカウンセラーは、何より家族にまつわる範型を豊かにしなければならない。身の丈を、見上げられるほどにまで伸ばさなければならない。

 冒頭に挙げた2例は、その点で最も適切な試練を与えてくれるだろう。親を批判する、親についてどうしても許せない経験を語るだけではない。親の死という厳然たる事実をどのように受け止めるか、という問いかけだからだ。

■絶えず生命の危機と対峙しなければならない

 カウンセリングの基準の1つが、生命維持である。一般的には、こころの問題を扱うと考えられているカウンセリングだが、そうではない。少なくとも、私たちのカウンセリングは違う。絶えず生命の危機と対峙しなければならない。暴力をふるう息子からどのように母を守るか、今日にでも処方薬を大量服薬するかもしれない娘の命を守るために母に薬の管理を徹底させる、マンションから飛び降りるかもしれない娘のために母親はどのような言葉掛けをすればいいかを提案する、といったようにである。

 クライエントも、その家族も、とにかく生きることを最大公約数とする。これがカウンセリングの原点であるし、そのために精神科医への紹介も積極的に行うのだ。

 では、親の死を晴れやかに喜ばしいこととして語るクライエントにはどのようにかかわるのだろう。すでにおわかりのように、私はこう言うのだ。

 「よかったですね」

 おそらく私がそう言ってくれると信じているからこそ、2人はカウンセリングにやってきたのだ。私の言葉にうなずいた彼女は、「先生だけには、早くお知らせしたかったんです」とほほ笑んで、「だってこんなこと、誰にも言えないですよね?  母が亡くなってほっとしただなんて」と語った。

 親の死を喜ぶ子どもなど、一歩カウンセリングの場を離れれば、非難の対象になるに決まっている。まして、親族は許すはずもないだろう。たとえ内心でその死を喜んでいたとしても、葬儀の場面では形式的にその死を悼むに違いない。儀式とは、参列者の内面の自由を保障する形式に満ちており、彼女もおそらく母の葬儀では涙を流したに違いない。

 彼女にとって、カウンセリングは一種のアジールであった。ある人は「解放区」と呼ぶ。世間のドミナントな家族言説から解放される場、それがカウンセリングの役割なのだ。私が最初からそう決めていたわけではない。クライエントたちの要求によって、次第にアジール化してきたといったほうがいいだろう。範型を豊かにすることは、クライエントの要求によって起きるのだ。

 なぜ、アジールが必要なのか。「私は親からまったく愛されませんでした。だから親のことは嫌いです」「母親の存在が不気味で恐怖すら抱いてしまいます」「いっそ早く死んでほしい」という、衷心から発する言葉が無批判に聞かれる場所がなければ、彼女や彼らは孤立無援の状況におかれてしまうからだ。

 自分が感じていることが「正しくない」「ヘンだ」「異常だ」と批判されて責められること、自分が感じ、考えていることが誰からも承認されないこと、このような状況で人は生きていくことはできない。たとえ生命は維持できたとしても、精神的生命は絶たれてしまうのだ。

■クライエントは命を賭してカウンセリングを求めている

 ドミナントな家族言説は、外部から強制されるだけではない。あらゆる媒体をとおして空気のように入り込むことで、いつのまにか、クライエントも深くそれを内面化してしまっている。

 むしろ、内面化したドミナントな言説からの脱出のために、アジールが必要だといってもいいだろう。自分自身の中で起きるドミナントな言説との闘いや葛藤、闘うことへの深い自責感や罪悪感は、脱出を試みた人たちが避けられない苦しみでもある。

 クライエントは、内なるドミナントな言説に呑み込まれてしまいそうにもなるだろう。それは、1つの死にも等しい。精神的崩壊を意味するだろうし、時には自殺という帰結もありうるかもしれない。闘おうとすれば、同時に湧いてくる罪悪感とも闘わなくてはならない。どちらを向いても孤立無援な闘いしか見えないとき、たった1つのアジールが不可欠なのだ。

 クライエントは、生きるために、命を賭けてアジールとしてのカウンセリングを求めているのだ。そうしなければ生きていけないからである。とすれば、カウンセラーの役割は明瞭である。目の前のクライエントが生きていくことを支援するのだ。そのために、彼女が親の死を喜んでいるのであれば、ともに喜ぶ。ためらいもなく、そうするのである。

 私がそうすることによって、クライエントが親の死に微妙な距離感を獲得し始めるのも不思議なことだ。

 本章の冒頭に登場した男性は、その3週間後に私へ手紙をくれた。一部を抜粋してみよう。

 読み終わった私は、不思議な感慨に襲われた。父を許すわけでもなく、父の死を悼むわけでもない。しかしそこには、たしかに父への祈りが満ちているのだった。

中略……父の住んでいるマンションをヘルパーさんが訪問してくださったときは、まだ手を振っていたというんです。ところが、その翌日は、前日より気温が一気に10℃も下がりました。どこかで、その変化が気にはなっていました。

……中略……第一発見者が家族でない場合、不審死になってしまいます。だから、市役所の職員に言われるままに、僕はがんばってマンションの扉を開けて、父の姿を見ました。全裸でした。やせ衰え、脱水症状がみてとれる体でした。顔は、カーテンの向こうにおおわれていて、見えませんでした。
僕の視野には、父の死体しか入っていませんでした。そのまわりの光景は捨象されたかのように暗闇に沈み、奇妙にそれだけがくっきりと浮かび上がっていたのです。

自宅に帰った僕は、おそらく最後まで父の葬儀に出ようとしないだろう母に向かって『父さんの部屋、意外ときれいに片付いていたよ』と報告しました。
しかし、その後部屋の片付けに訪れた僕は驚きました。足の踏み場もないほど、乱雑に物が散らかっていたからです。遺品を整理しながら、心底奇妙な経験に思えました。あの瞬間の僕の視野からは、父の死体以外のものはすべて消え去ってしまっていたのでした。
僕は、霊安室からいったん黙って立ち去ろうとしました。幼少期から、僕と母への、さらには兄への怪物めいた数々の行為を思えば、遺体を見るだけでも、見てやっただけでもどれほどのことだろうか、と思っていたのですから。

しかし、階段を五段降りたところで僕は立ち止まり、再び戻って扉を開けました。そして父の遺体の枕もとにおかれた線香立てに、マッチで火を点けた線香を3本だけ立てました。その煙を吸い込みながら、思わずクリスチャンの僕は、手のひらを合わせて「どうか天国に行かせてあげてください」とお祈りをしました。
それは、あの父のためだったのでしょうか。
ゆきずりの人であっても、見知らぬ人であったとしても、死にゆく人であれば僕は等しくそう祈るだろう、そんな祈りの言葉だったように思えるのです。

■母と相談もせずに遺骨を引き取った

 彼は、父とは財産目当てだけで離婚しなかった母と相談もせず、父の遺骨を引き取り、散骨することに決めた。相談しても母は「知らない」と言って、二男である自分にすべて押し付けることがわかっていたからだ。

 長男である兄は、父の遺体が安置されている霊安室を訪れることすらしなかったので、彼は1人で骨を撒きに湘南の海に行った。業者の指示どおり、沖までクルーザーに乗って、そこで父の骨を撒いた。そして、最後に小さな白いランのブーケを海上に献花し、祈った。残りの骨は、彼が自分の部屋の北側にある本棚を一段空けて、そこに安置したという。

 このエピソードは、ひとりの男性が父の死に際してどのように対処したかが一篇の文学のように結晶化している気がする。

東洋経済オンライン

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最終更新:5/15(土) 16:01

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