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聡明ゆえ迷走?批判多い「徳川慶喜」不憫な境遇

5/9 15:01 配信

東洋経済オンライン

「名君」か「暗君」か、評価が大きく分かれるのが、江戸幕府第15代将軍の徳川慶喜である。慶喜の行動は真意を推しはかることが難しく、性格も一筋縄ではいかない。それが、評価を難しくする要因の1つであり、人間「徳川慶喜」の魅力といってもよいだろう。その素顔に迫る短期連載の第3回は、攘夷をめぐる慶喜の葛藤と苦悩についてお届けする。
<第2回までのあらすじ>
江戸幕府第15代将軍の徳川慶喜は、徳川家と朝廷の両方の血筋を受け、その聡明さから、みなの期待を一身に背負って育った。何しろ幕政は混乱の中にある。この局面を打開できる優秀なリーダーが今こそ必要であり、それが慶喜だと周囲は盛り上がった。そんな中、何とか貧乏くじを引かずにすむように立ち回る慶喜(第1回)。だが、若き将軍、家茂の後見職の座に就くことになり、「文久の改革」と呼ばれる幕政改革に着手。「最後の将軍」という重責を担う日は確実に近づいていた(第2回)。

■慶喜は国際感覚を持った開国派だった

 尊王攘夷思想の先駆けともいわれ、「烈公」と呼ばれるほど荒々しい気性の斉昭を父に持つ、徳川慶喜。幼少期から聡明ぶりを発揮したこともあり、攘夷の旗手としてもてはやされ、「次期将軍に」と期待され続けた。そんな中、何をしても政治利用されることから、慶喜は、言動には慎重にならざるをえなかった。

 だが、激情タイプだった父が亡くなると、もはや遠慮はいらなかった。将軍後見職に就いた慶喜は、この国の行く末について、自分の思いをようやく明らかにする。

 「世界万国が天地の公道に基づいて互いに交誼を図っている今日、わが国だけが鎖国の旧習を守るべきではない」

 鎖国をするべきではない――。まさかの開国派宣言である。

 一方で、朝廷が唱えるのは、あくまでも「破約攘夷」。つまり、日米和親条約と日米修好通商条約を破棄して、相手が報復してきたら、それを討つというものである。

 国力の差を踏まえれば、そんなことできるわけがない。朝廷や攘夷論者に、いかに国際感覚が欠如していたかがわかるだろう。現実に即して考えたならば、上記の「開国宣言」の後に慶喜が続けた言葉に尽きる。

 「今日の条約は外国から見れば政府と政府の間で取り交わされた約束である。アメリカを恐れて調印したからといって、破棄しようという議論は、国内では通用しても、外国には、とうてい承服されがたいであろう」

 きわめて開明的な考えである。攘夷の風が吹き荒れる当時に、ここまで大局観を持っていた人物は、それほど多くはなかったかもしれない。

 思いをぶつけた相手は、越前国福井藩16代藩主で、政事総裁職を務める松平慶永(春嶽)である。慶永はこの未曾有の危機を脱するには、江戸城の中心に優秀なる君主を据えなければならないと考え、これまで慶喜を支持してきた。それだけに、本音が見えない慶喜にやきもきしてきたことだろう。ようやく慶喜の考えを聞けて、さぞ心震えたに違いない。

 しかし、である。攘夷を推し進めたい長州と土佐の両藩士が朝廷に働きかけ、三条実美と姉小路公知らが京を出て、江戸にやってくることになると、慶喜の様子がなんだかおかしくなってくる。

 朝廷からの使いが来る――。そうなると途端に、慶喜に迷いが出始めてしまう。本音が開国であることには変わりない。だが、攘夷の建前を捨てて朝廷に歯向かうべきかといえば、態度を決めかねるものがあった。亡き父、斉昭から聞かされていた言葉を、慶喜は反芻していたに違いない。

 「朝廷に向かって弓引くことあるべからず。これは義公以来の家訓なり。ゆめゆめ忘るることなかれ」

 義公とは、水戸藩第2代藩主、徳川光圀のこと。そうでなくても、慶喜は母から朝廷の血を受け継いでいる。朝廷から攘夷要請を受けると、慶喜は拒否できずに同調。おまけに、その後、老中に「将軍後見職から辞退したい」という旨を申し入れている。

■やはりよくわからない慶喜の行動

 どうして辞めてしまうのか、とも思うし、仮に辞めるつもりだったならば、開国論を貫いてもよかったのではないか。慶喜に期待する支持者ほど困惑したことだろう。

 父の死を契機に覚醒したかと思いきや、やはりよくわからない慶喜。将軍後見職の辞職については、慶永から翻意を促されて、一度は撤回するが、しばらくしてまた老中に辞表を出すなど、かなり精神的に不安定である。

 肝心なときに、腰が定まらない慶喜に、慶永は深く失望したらしい。「決断力がなく弱弱しい(不決断柔弱)」と激しく非難している。同じく一橋家を支援してきた前土佐藩主の山内豊信もあからさまに落胆した。

 「英主と思いしが、違いたり(優れた君主と思ったが違った)」

 散々期待させておいて結局は失望させる男、慶喜。ただ、慶喜からすれば、支持者たちはいつも「自分に勝手に期待しては寄ってきて、失望しては離れていく人たち」だったのかもしれない。

 優れた開国論を持ちながらも、朝廷の攘夷要請をはねつけられない慶喜。攘夷派からも開国派からも失望されたが、よく考えれば、なぜ慶喜だけこれだけ責められるのだろうか。

 「決断力がない」と批判した慶永も、開国と攘夷の間を行ったり来たりしている点では、何ら慶喜と変わらない。幕府の老中たちもそうだ。攘夷など不可能と知りつつも、江戸にやってきた三条勅使との交渉の結果、幕府は攘夷の勅旨を受け入れている。

 慶喜が、一度は思いとどまった「将軍後見職の辞職」に再度、踏み切ろうとしたのは、幕府のそんな態度を見た直後のこと。それでも思いとどまったのは、老中からこう言われたからだった。

 「和宮の将軍家茂への降嫁要請時に、7、8年ないし10年内に外国人を日本から遠ざけることを孝明天皇に固く約束した以上、ここで攘夷の実行を拒絶すれば離縁になりかねない」

■「公武合体」を台なしにはできない

 少し説明が必要かもしれない。朝廷の許可なく、日米修好通商条約を幕府が調印したことで、朝廷と幕府の対立は深刻化した。しかし、外国の脅威が迫る中、今は国内で分裂している場合ではない。そこで朝廷と幕府を結び付けて体制を再編しようとする動きが出てくる。これがいわゆる「公武合体」と呼ばれるものだ。

 公武合体の具体策として、将軍の徳川家茂のもとへ皇妹の和宮親子(かずのみやちかこ)内親王が嫁いでいる。そのときに、幕府は朝廷に「7、8年ないし、10年以内に攘夷を決行する」と約束をしてしまっていた。

 そうした経緯を踏まえれば、攘夷をここで拒否すれば、公武合体も台なしになる。とりあえずは受け入れて、京で話し合えばよい。老中からそう聞かされて、慶喜なりに幕府の態度も理解したのだろう。将軍後見職にとどまることにしている。

 一見、迷走しているだけに見える慶喜の言動にもやはり理由があったし、慶喜の周囲に目をやれば、やはり同じような葛藤や迷いに満ちていた。

 それくらい正解がない、判断の難しい時代だったといえよう。激しい攘夷思想が盛り上がったのも、極端な方向に考えることで迷いを振り切ろうした人たちが、それだけいたということではないか。少なくとも慶喜は、楽な道に進むことはなく、いちいち悩み、方針を打ち出しては覆した。

 混迷の時代に、慶喜だけ特に責められるのは、期待されているがゆえ。影響力が大きいために、ブレない態度を求められ、どちらの陣営からも「はっきりしない」と責められる。それもリーダーの宿命とはいえ、慶喜がちょっと気の毒にもなってくるのは、筆者だけだろうか。

 慶喜も幕府も葛藤をしながら、文久2(1862)年12月5日、将軍の家茂は、攘夷の決行を受諾する奉答書を三条実美に提出する。将軍の家茂は翌年の3月に上洛することになった。目的はもちろん、攘夷をいかに決行するかを、朝廷に説明するためである。

 ただ、家茂がいきなり京に上るのも負担は大きい。そこで家茂の露払いとして、2カ月前の1月に慶喜が先に京へ入ることとなった。批判を受けながらも結局、頼られるのが慶喜であり、本人もそうした運命を受け入れつつあったのだろう。

 慶喜は、将軍後見職という立場でありながら、お供を引き連れることもなく、極めて少ない同行者を伴い、京に上った。権威を見せつけることに興味がなく、むしろ、注目されたくない慶喜らしい。

■待っていたのは強烈な攘夷の催促

 そうして上京した慶喜を待っていたのは、強烈な攘夷の催促である。1月5日に京に到着して、11日には、長州藩の久坂玄瑞や寺島忠三郎、そして熊本藩の河上彦斎や轟武兵衛が宿所に押しかけてきた。ちなみに、河上彦斎は「幕末四大人斬り」の1人で、漫画『るろうに剣心』の主人公である緋村剣心のモチーフにもなった攘夷派の志士である。勘弁してくれ、とばかりに慶喜は仮病を使って乗り切った。

 「本気で攘夷をする気ではないらしい」

 そんな捨て台詞まで吐かれたというから、穏やかではない。慶永が2月8日に京都に到着すると、攘夷の催促はエスカレートしていく。

 なにしろ、当時の京都は長州藩と土佐藩に支配されていた。しかも前述したように、すでに将軍は攘夷を命じる朝命を受け入れてしまっている。ならば、その日付を決めろと迫られるのは、当然のことだった。孝明天皇や鷹司関白は、議奏の三条実美らを慶喜のもとに派遣して、こんなことまで言わせている。

 「いつまでも決定しないと浪士たちが暴発するぞ」

 深夜に8人もの公卿が慶喜邸に押しかけてくることもあったというから、ノイローゼになりそうである。矢のような催促を受けて、 慶喜はやむなく攘夷の期日を決めるための議論に応じることになる。3月に将軍の家茂が上洛すると、家茂も標的となり、京都の三条大橋には、家茂と慶喜を威嚇する文書が張り出された。

 あまりにうるさいために、慶喜は攘夷の期日を、5月10日に定めている。最終的に日付を確定したのが、4月20日だったことを思えば、随分と急である。どう考えても無理な約束をさせられるのだから、開明的な考えを持つ者ほど、つらい展開だったに違いない。

■先に投げ出したのは慶永だった

 やってられない――。先に投げ出したのは、慶永である。慶永は辞表を提出し、朝廷の許可もないままに、3月下旬の段階で郷里に帰国している。

 京で激しい逆風の中、若き将軍にも頼れず、孤軍奮闘した慶喜。だが、4月22日に江戸に戻れば、今度は老中や諸役人たちから「将軍が上洛する前に、勝手に攘夷の期限の問題に応じた」と激怒され、猛烈な批判にさらされている。

 こんな目に遭いながらも、なぜ自分はこれほどみなを怒らせてしまうのだろう。もはやそんな失望しか、慶喜にはなかったのではないか。慶喜はそれっきり、江戸城で活動らしい活動をすることもなく、5月から6月にかけて、将軍後見職の辞職願を提出している。

 もう幕府にかかわるのはうんざりだ。そんな気持ちになったことだろう。それならば、いっそ……と慶喜は次にどう考えたか。その目の先には、朝廷があった。

(第4回につづく)

 【参考文献】
徳川慶喜『昔夢会筆記―徳川慶喜公回想談』(東洋文庫)
渋沢栄一『徳川慶喜公伝全4巻』(東洋文庫)
家近良樹『徳川慶喜』(吉川弘文館)
家近良樹『幕末維新の個性①徳川慶喜』(吉川弘文館)
松浦玲『徳川慶喜将軍家の明治維新 増補版』(中公新書)

野口武彦『慶喜のカリスマ』(講談社)

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最終更新:5/17(月) 12:24

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