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「生きる歓び」を取り戻す「資本論」の使用法

4/29 9:31 配信

東洋経済オンライン

「新自由主義」に奪われた「魂や感性」を取り戻すという視点から書かれた『資本論』入門書で、ベストセラーとなっている政治学者・白井聡氏の著書『武器としての「資本論」』。

『大杉栄伝 永遠のアナキズム』『村に火をつけ、白痴になれ 伊藤野枝伝』『死してなお踊れ 一遍上人伝』などの著書で知られる政治学者の栗原康氏が同書の魅力を読み解く。

■「水の民営化」がインドで引き起こした事件

 いまから十数年前、インドのムンバイに行ったことがある。新自由主義に反対する人たちが世界中から集まってくるというので、面白そうだと思って行ってみたのだ。世界社会フォーラムだ。

 『武器としての「資本論」』の「第4講」で解説されているように、新自由主義というのは、この世界のあらゆる領域を資本が包摂してしまうということだ。教育、医療、電気、ガス、水道、道路、郵便、農業。誰がどう見ても金儲けになじまないところまで利潤追求が求められる。問題続出だ。

 日本だけではない。世界中で同じ問題が起こっていた。それならせっかくだし情報共有をして、気の合う人がいたら一緒に行動したらどうですかと。フォーラム開催だ。

 行ってみると無数のテントブースが用意されていて、数十人規模から、数百人規模、大きいものでは千人くらいあつまって連日、集会がひらかれていた。

 中でもでもいちばん盛りあがっていたのは当時、インドで問題になっていた「水の民営化(プライバタイゼーション)」だ。本書でもそれまで無料だった水がペットボトルで売られはじめたときの衝撃を語っているが、インドでは状況はさらに深刻だ。多国籍企業が水を独占して、わが物顔で売りはじめる。私有化(プライバタイゼーション)だ。

実はこの時点で、コカ・コーラ社がある地域の地下水をすべてくみとって、井戸水を枯渇させるという事件がおこっていた。

 その結果、コカ・コーラ社の販売する水を買わなければ、キレイな水が飲めなくなる。貧乏人は水にアクセスできない。ひどすぎだ。おいしくて健康、さわやかコカ・コーラ。集会で怒りの雄たけびが湧き上がる。「コッカ・コーラッ、フ〇ック! フ〇ック! フ〇ック!」。うわああああああ!! ! 

 ものすごい熱量に胸をうたれる。身体が緊張でバリバリに張りつめる。血沸き、肉躍る。おんどりゃー、なにがコカ・コーラじゃー、ふざけんじゃねえと。

■コーラがうまい、うますぎる

 だがそのときのことだ。わたしの横で音がきこえる。プシュッ!! !  うん?  みると「くたばれ、コカ・コーラ」と叫んでいたインドの活動家がコカ・コーラの缶をあけてグビグビと飲みはじめたのだ。「アァ、うめえ!」。

 いや、言葉がわからないので、なんと叫んでいたのかはわからない。だが、あきらかに至福の笑顔だ。うまい、うますぎる。それを見た瞬間に、わたしの緊張が一気にほどける。身体がドンドン軽くなる。もう空っぽだ。異様な解放感がわたしをつつむ。きもちいい。

 あれはなんだったのか。その後、ホテルまでの帰り道、日本から一緒に行った友人がこう言っていた。「自分がもっているペットボトルの水をみたら、コカ・コーラ社のものだったよ。猛省します」。

 しかしわたしは違う。だって、ムンバイだよ。あの蒸し暑いテントの中で飲んだコーラがどれほどうまかったことか。ああ、ぼくも飲みたい。それしか思わなかった。ホテルに着いてからみんなでビールを空ける。だがビールを飲むわたしの頭はコーラに夢中だ。うまい。

 いや、わかっているのだ。コカ・コーラ社に問題があるということは。渇きを潤すそのよろこびが、商品購入と同じではないのもわかっている。人間のよろこびと消費の欲求は同じではない。

 それが同じであるかのように思わせるのが資本主義だ。水の私有化だ。新自由主義だ。本来自然そのものであり、無料であった水を独占し、金をとる。商品であることを認識させる。やがて、それが当たり前になる。そしたら、同じ値段でもっとおいしいものをと、いろんな商品ができていく。企業はボロ儲け。貧乏人どもは臭い水でも飲んどれ。

 おかしい。だが、それでも絶対に切り捨てたくはない。コーラがうまいと思ったこの感覚を。頭ではわかっていても、それでも身体がうまいといってきかないのだ。たとえ矛盾していても、この感覚を絶対に手放したくないと思う。くたばれ、コカ・コーラ。コーラが飲みたい。

 わたしが白井聡を好きなのはこの点だ。文章の根底に身体がある。もちろん本書を読んで、内容的にも共感するところはたくさんある。

 さっきの新自由主義の捉え方もそうだ。新自由主義は、この世界をまるごと資本によって包摂してしまう。民営化はその一例だが、変わったのは社会の仕組みばかりではない。「新自由主義は人間の魂を、あるいは感性、センスを変えてしまったのであり、ひょっとするとこのことのほうが社会的制度の変化よりも重要なことだったのではないか、と私は感じています」(『武器としての「資本論」』71頁)。資本主義が人間の魂まで包摂してしまう。

■うまいものを食おう、最高だ

 たとえば、就活。学生たちは、働く前から自分をどれだけ高く買ってもらえるのか、そのためにどれだけスキルアップできるのか、そればかりを考えさせられ、その計画を練らされる。

 自分はよりよい商品ですとアピールさせられる。最初は面倒くさいと思っていても、他人に評価されるとうれしくなって、もっと自分を高く売ろうと必死になる。何をするにもどれだけ儲けられるのか、どれだけ見返りをもらえるのか、対価ばかりを考えさせられてしまう。魂の商品化だ。そんなクソみたいな世界を脱出するためにはどうしたらいいか。

 白井いわく、身体だ。たとえ見返りなど得られなくても、頭ではダメだとわかっていてもなぜだか好きになってしまう、うまいと思ってしまう。そんな自分の身体を信じろと言っているのだ。

 それが白井の文章全体にも表れている。なにせ『資本論』を1冊かけて解説して、その結論がうまいものを食おうだからね。最高だ。

 わたしは勉強になるので、たまにマルクスやマルクス主義の文献も読むのだが、ものによって嫌になってしまうのは、読んでいるうちに自分の身体感覚が奪われそうになってしまうからだ。

 理路整然としていて、分析も納得。だが理論が明晰だからこそ、その世界観が出来上がってしまっている。マルクスが言っていることを紹介するにしても、このまま資本主義で突き進んでいったら、大不況に陥ってみんな食えなくなって死にますよ、それが嫌なら何をすべきかわかっていますよねと。いまだったら企業の利潤追求にすべてを委ねていたら、原発がまた吹っ飛びますよとか、地球温暖化で人類が死滅しますよというところだろうか。

 あるいは、そこからポジティブに希望を語る人もいるだろう。この未曾有の危機を回避するためには、資本主義を打倒しなければならない。そのためにはこういう階級闘争が必要だと。いきなりカタストロフを突きつけられてオロオロしているうちに、気づけば自分の頭の中に、ああしなければいけない、こうしなければいけないという意識が植えこまれている。救済のための革命プログラムが出来上がっているのだ。アーメン。

 そして、いつしかそれに疑いを持たなくなっている。みんながそうしなければ人類が死滅してしまう。どんなにつらい道のりでも、自分はそれに従います、他人も従わせなければならない。ああしたら、こうなる、これしかない。因果関係でがんじがらめだ。人間の思考が1つの世界観に閉じこめられていく。

■おまえの身体に聴け

 もともと、これだけやったからこれだけの対価をもらう。そういう商品化の思考に抗おうとしていたはずなのに、そこから抜け出そうとすればするほど、よりよい見返りをもとめて動こうとしてしまう。金儲けをしているわけでもないのに、自分の思考が商品化させられていくのを感じる。魂のコモディティー化、再びだ。資本主義を離脱するためには、そういう内面の商品化からも脱却しなければならない。

 だが頭で考えれば考えるほど、泥沼に陥っていく。そこで語られる内容がどんなにラジカルなものであったとしても、どんなにもっともらしく正しいものであったとしても、それが他人の思考を奴隷化してしまったのでは意味がない。

 話を戻そう。白井の文章にはそれがない。自分の世界観を押し付けて、他人を縛りつけようとする気配がみられない。皆無だ。ちゃんと言っておくと、本書は資本主義のどこが問題なのか、このままいったらどうなるのか、その原因と結果を論じているのだ。普通だったら、われわれは「何をなすべきか」という処方箋を提示したくなってしまうだろう。そういう欲にとらわれてもいいはずだ。

 だが白井はそうならない。『資本論』を使って、いまの世の中を分析しながらも決してカタストロフをあおらない。それでいてこうすれば救済されるという希望も語らない。その理論から「何をなすべきか」を抽出しようとしないのだ。

 白井聡の文章を読む。この社会の仕組みがわかる。白井が描く物語の中で、物事の善しあしがわかってくる。きもちいい。

 だが、そのきもちよさが頂点に達したとき、とつぜん白井は読者を突き放す。白井の思考から断絶させられる。「何をなすべきか」。その問いが立ってしまう前に、自らの世界観を自らの手で破り捨てるのだ。われわれが問うべきことはただ1つ。「どうしたらいいか」。白井はこう言い放つ。おまえの身体に聴け。おいしいものが食べたい。

 ちなみに、白井は高給取りになって、高級レストランに行け言っているのではない。逆に貧乏人どもは草でも食っとれと言っているのでもない。

 この世界のどこが問題なのか、それを把握するのは大事なことだけど、もっと大事なのは「何をなすべきか」という正しいプログラムを立ち上げないということだ。仮に立ち上がってしまったとしても、それが自分の身体にしっくりこないのであれば、いつだって破棄していいということだ。正しさにだまされるな。革命のプログラムなど放り投げてしまえ。『資本論』を投げつけろ。それが本を武器にするということだ。

■身体をなめるな

 どうしたらいいか。おまえがやれ。プログラムは存在しない。評価も成果も何にもない。自分の生きるよろこびは自分でかみしめる。自己の偉大さを自分自身で感じとる。幸せはなるものじゃなく、感じるものだ。もちろんそのよろこびはふとした瞬間に変わっていくものだろう。うまいものなんて、たまたま出会ったものや人によって変化していくものなのだから。

 さっきコーラの話をしたけれど、元来、わたしは大のビール好きだ。それがあそこまでコーラに夢中になってしまったのは、インドの活動家と場を共有して、身体が共鳴したからにほかならない。

 だが、そんな移ろいやすいものでありながらも、生のよろこびは何ものにも代えられない、揺るがない。他人に強制されて生まれるものではないし、自分で意識して得られるものでもない。いくら頭で操作しようとしても、身体はちっともいうことをきかないのだ。制御できない、交換できない。そんなかけがえのないよろこびをさらに充実させ、拡げていくにはどうしたらいいか。身体の思考を拡充せよ。きっとそれを続けていくことが、結果的に『資本論』を実践することになるのだと思う。

 まとめよう。わたしはアナキスト、大杉栄を研究しているのだが、彼は自らすすんで賃金奴隷になろうとしてしまうことを「奴隷根性」と呼んでいた。「政府の形式を変えたり、憲法の条文を改めたりするのは、何でもない仕事である。けれども過去数万年あるいは数十万年の間、われわれ人類の脳髄に刻み込まれたこの奴隷根性を消し去らしめることは、なかなかに容易な事業じゃない。けれども真にわれわれが自由人たらんがためには、どうしてもこの事業を完成しなければならぬ」(大杉栄『奴隷根性論』)。

 白井がやろうとしているのも同じことだ。人間が真に自由であるためにはどうしたらいいか。奴隷根性を駆逐せよ。自分が安く売られるのか、それとも高く売られるのか、そんなことを考えて生きるのはもうやめにしよう。あなたの魂がコモディティー化されているというのならば、その魂まるごと燃やしてしまえ。社会主義神髄だ。『資本論』としてのアナキズム。矛盾を抱いて跳べ。身体をなめるな。

東洋経済オンライン

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最終更新:4/29(木) 9:31

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