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重光に三度目の正直、「ロッテ」財閥化の端緒となるホテル・デパートを続々開業

4/21 6:01 配信

ダイヤモンド・オンライン

 韓国に設立した「ロッテ製菓」を日本と並ぶ総合菓子メーカーに育て上げつつあった重光武雄。韓国でも快進撃を続ける重光に、三度目の正直とばかり朴正熙(パク・チョンヒ)大統領から直接、5つ星級の高級ホテル建設を懇願される。この要請に応じて重光は巨大プロジェクト、ロッテホテルとロッテデパートの開業へと踏み出す。この成功を端緒に、ロッテグループはホテル、流通、観光事業を中核とする巨大財閥化への道を突き進んでいくのだった。(ダイヤモンド社出版編集部 ロッテ取材チーム)

● “三度目の正直”となる朴大統領からのホテル開業要請

 朴大統領から「ぜひ会いたい」と重光武雄に直接電話がかかってきたのは1970(昭和45)年11月3日のことだった。

 当時の重光は3年前に韓国に設立した「ロッテ製菓」と、日本の「ロッテ」の経営にあたるため、韓国と日本を行き来する「シャトル経営」を続けていた。特に日本においては、大成功を収めた64(昭和39)年のチョコレート参入に続き、70年は経営の第3の柱となるキャンディに参入し、総合菓子メーカーへと急成長を遂げている最中だった。

 重光はこの電話を日本で受けた。だが、電話の10日後の11月13日付で韓国大手紙が、ソウル市の不正食品特別取り締まりチームが、ロッテをはじめとする食品メーカーの菓子に有害物や異物が混入しているのを摘発、3カ月の営業停止を命じ、検察に告発したと報じた。この件は後に、功を焦った担当者による過激すぎる措置と判明して終結するのだが、品質第一をモットーとする重光はその日のうちに韓国へと飛び立った。

 この時、重光には同行者が1人いた。駐日韓国大使の李厚洛(イ・フラク)である。李厚洛は重光と同郷で、同じ蔚山(ウルサン)の農業学校を卒業している。朴と共にクーデターに参加し、後にKCIA部長まで務めた大物である。朴大統領と重光を引き合わせたのは李厚洛であり、当時は、朴大統領が遣わした重光のお目付役という役回りだったともいえる。

 金浦空港から大統領府に直行した2人に対し、朴大統領は開口一番、次のように語った。

「私が重光社長に会いたいといったのはほかでもなく、半島(バンド)ホテルのためなのです。ご存じの通り、半島ホテルは観光公社が引き受けて経営しているが、実績が良くないのです。国営としてはいけない。その横にある国立図書館も払い下げるから、重光社長は努めて世界のどこに出しても恥ずかしくないような観光ホテルを建てて経営してください。政府は最大限の支援をいたします」(*1)
 この唐突な申し出に、重光は困惑して、返事に躊躇した。しかし、後ろにいた李厚洛が、「いったんこの場では『はい』と答えて」とサインを送ってきたので、仕方なく「はい、かしこまりました」と答えることになったのだ。

 重光は複雑な心境だった。ホテル経営については全くの素人であり、ホテル事業自体の将来の可能性さえ見通せない。しかも政府は、石油精製、製鉄と2度にわたって新規事業の進出を要請してきておきながら、土壇場で外された。「二度あることは三度ある」と重光が疑心暗鬼になるのは当然だ(『ロッテを創った男 重光武雄論』より)。

 事実、重光の疑心暗鬼は誤りではなかった。実は朴大統領はロッテの他に2つ、5つ星クラスの高級ホテル開業にゴーサインを出していた。一つは、78(昭和53)年に開業するグランドハイアットソウルで、もう一つは79(昭和54)年に開業する、サムスングループがホテルオークラの支援を仰いで開業した「新羅(シルラ)ホテル」である。

 重光が背負い込むことになった半島ホテルは、朝鮮半島で窒素肥料工場や発電所をはじめとする大規模事業を展開した日窒コンツェルンの野口遵(したがう)が32(昭和7)年に開設したもの。戦後は米軍の接収を受けた後、国際観光公社(現・韓国観光公社)が運営するソウルのランドマーク的な存在だった。「半島ホテルの建て替え」とは、単なる建て替えではなく、付近にあった国立図書館や雅叙園(アソウォン/高級中華料理店)なども含めた超大型の再開発だった。

 朝鮮戦争で国土が焦土と化し、世界最貧国から復興中の韓国に一つも存在しなかった5つ星ホテルを一気に3つも開業するという壮大なプロジェクトは、朴大統領の観光政策の大転換によるものだ。

 それまでも韓国にとって観光産業は外貨獲得手段として重視されていたし、今ではソウルはショッピングやレジャーで女性観光客に人気の観光スポットとして知られる。だが70~80年代の韓国の観光産業は、「外国人男性観光客、特に日本人男性観光客の誘致が国家政策であったといっても過言ではない(*2)
」という状況であり、「主に日本人団体男性客を対象とした妓生(キーセン)パーティという名の売春が斡旋される妓生ハウスは全国に25カ所を数え(中略)1976年から1982年までに韓国を訪れた日本人観光客の男女比率は男性が90~96%であった」という状況だった。 そうした“闇”を抱える、歪んだ韓国の観光産業を変革しようという朴大統領の決断が、まだ海のものとも山のものともつかぬ5つ星ホテルの開業ラッシュだったというわけである。

 さらに、重光にホテル開業を要請した理由には朴大統領並びに朴政権の“不純な動機”が含まれていた。それは、重光の日本の資産を韓国に移転させ、韓国側のものにしようというたくらみである。

 重光がホテル建設に動き出した当時、ソウル市の都市計画局長だった、著名な土木史の専門家でもある孫楨睦(ソン・ジュモク)・ソウル市立大学名誉教授はこう指摘している。

「当時、韓国政府の要人たちは、彼が日本で集めた莫大な財産の一部だけでも母国に投資させ、母国に不動産の状態で残そうとする下心があった」(*1)
 当時の重光は事実上日本人と見られていた。妻は日本人で、2人の息子も日本で育てられており、相続ともなれば重光の財産はすべて日本に残る。その資産を韓国に移させようというのである。政府の要人たちというのは、朴正煕、李厚洛、劉彰順(ユ・チャンスン/第15代首相・韓国ロッテグループ元統括会長)などだけではなかった。金鍾泌(キム・ジョンピル/第31代首相)、丁一権(チョン・イルグォン/第9代首相)、朴鐘圭(パク・チョンギュ/大統領警護室長)など、当時権力の座に就いていたすべての者たちが、重光に対して共通のたくらみを抱いていたというのだ。

 それゆえ、国からソウル市にも重光への協力を命ずる指示が来ていた。孫楨睦はこう回顧している。

「73年10月に梁鐸植(ヤン・テクシク)ソウル市長とともに首相室に呼ばれて、金鍾泌首相からホテルロッテ建設にすべての支援を惜しむなと指示されたとき、金首相が強調したのがまさにその点だった。つまり重光武雄が日本で、そして日本人として集めた財産だから『母国への財産搬入』という次元で扱うべきであり、決して一企業を支援するというレベルではないという点だった。当時、金首相の口調があまりにも強かったので私はその後長い間、重光武雄が日本に帰化したと勘違いしていた」(*1)
 *1 孫楨睦『ソウル都市計画物語』(未訳)
*2 李良姫「植民地朝鮮における朝鮮総督府の観光政策」『北東アジア研究』島根県立大学、2007年3月

● ホテルでの外資規制クリア策が財閥化への道を開く

 重光は朴大統領の要請に応えるべく、「秘園(ビウォン)プロジェクト」と名付けた韓国初の特級ホテル建設計画を始動させ、そのために結成されたプロジェクトチームは50ページにわたる報告書を作成する。その概要は以下のとおりである。

 事業主体(事業対象):株式会社秘園(ソウル中区乙支路小公洞/半島ホテル、国立図書館など)
投資規模:4800万ドル(約173億円)
ホテル概要:敷地2万1460平方メートル(6503坪)、地上33階・地下3階。客室数1205室。
工事期間:32カ月

 ちなみに1965(昭和40)年に竣工した当時の日本一の超高層ビル・霞が関ビルディングが36階建てである。それと遜色ない超高層ビルを、高層ビルさえ珍しかった当時のソウルに建てようというのである。設計から施工・監理まで、日本のゼネコン主導で進めることで可能になった、重光お得意の“タイムマシーン経営”である。プロジェクトに携わった、重光の弟で四男の重光宣浩(ソンホ)は当時をこう振り返る。

 「ホテル建設のために韓国史上最大のタワークレーン1号機が設置され、工事が始まると、道行く人たちがみな振り返り、『ビルというのはこんな風に建てるものなのか』と口々に話していたようです。韓国では鉄骨鉄筋コンクリート造りの高層ビルを建てるのは初めてのことでした」

 ロッテホテル設立委員会が発足したのは73(昭和48)年2月26日。3月13日には委員長の重光名義で外国人投資の認可申請書、借款契約認可申請が政府に提出された。この2つの申請は、4月25日に経済企画院外資導入委員会で決議された。5月5日に、新ホテルの運営会社である株式会社ホテルロッテ(のちにロッテホテルに社名変更)が設立された。初代社長は重光が就任したが、翌6月の11日には金東煥(キム・ドンファン)に代わった。彼は、朴大統領の右腕で当時首相を務めていた金鍾泌の第一の補佐役だったという。まさに重光と韓国政府の二人三脚でプロジェクトは進んでいた。

 ここで「外国人投資」の文言に疑問が浮上する。重光は日本に20年以上住んでいたとはいえ一貫して韓国籍だ。その重光がなぜ「外国人投資」の認可申請をしなければならなかったのか。

 これは韓国の「外資導入法」の規定に基づく。第2条には「大韓民国の国籍を保有する自然人でも外国に10年以上永住している者については『外国人に対する条項』も適用される」と明示している。資本不足に苦しんでいた韓国政府は外国資本に破格の恩恵を与えた。不動産取得税、財産税、所得税、法人税などが5年間免除され、以後3年間は50%だけ賦課される。また、韓国内の営業のために導入される資本財に対しては、関税や物品税も免除されたという。

 ただし、優遇措置と同時に、「外国人は49%以上の持ち分を保有することができない」という外資規制の関連法規が立ちはだかっていた。ロッテホテルは、日本のロッテが100%出資した会社だから、本来は、日本のロッテグループは韓国のロッテグループに経営権を行使できないはずだった。

 ところが韓国と日本の当局は超法規的措置ともいうべき法解釈でこの問題をクリアさせた。それは、
「『在日韓国人の重光武雄』が『大韓民国国民の辛格浩(シン・キョクホ)』に経営権を委任する形で100%投資が可能になる」(*3)
というものである。 これは、重光にはとても都合の良い仕組みとなる。韓国に投資した資金とその利益について、投資する時に受けた日韓政府当局から承認内容に縛られず、外資規制を受けることもなく自由に再投資することができるからだ。この仕組みは、韓国経済企画院と日本の大蔵省の承認を受けたという。

「この時の文書が『前例』となり、重光武雄は母国投資に何らの制約を受けることなく、日本に一銭の配当を行わずに韓国ロッテを拡張し続けていくことができた。このような内容の文書を官僚たちの反対にもかかわらず承認した日本の当時の大蔵大臣は福田赳夫だった」(*3)
 ここで当時の日本の政界の状況を説明しよう。韓国の朴大統領に匹敵する、重光の日本の盟友が、“昭和の妖怪”と呼ばれ、57(昭和32)年2月から60(昭和35)年7月まで首相を務めた岸信介である。日韓国交正常化後の69(昭和44)年には日韓協力委員会を立ち上げて初代会長に就いたが、その後の会長が福田赳夫で、岸派を引き継いで76(昭和51)年に総理となった。福田は重光の二男である辛東彬(シン・ドンビン/重光昭夫)の仲人を務めるほど重光家と親密な関係を築いていった(『ロッテを創った男 重光武雄論』より)。

 こうして重光は、韓国に投資するときは“外国人”「重光武雄」として外資優遇措置を受け、外資に課される経営や資本の規制は韓国人「辛格浩」として免除されるという魔法の杖を手に入れたのである。「2つの名前を持つ男」として、日本に帰化することなく生涯を終えたカリスマ経営者の本領発揮とでも言うべきだろうか。ホテル建設のために、日本から投資した資金を韓国での事業拡大に再投資し続けられる仕組みができたことで、ロッテグループは財閥として成長する端緒をつかんだのである。

 *3 鄭淳台『辛格浩の秘密』(未訳)

● ホテル建設にのめり込んでいく重光

 品質第一を掲げてきた重光は、一流のものを好んだ。負けず嫌いで、なんでも自分の手で調べないと気が済まないこともあって、ロンドン、パリ、ローマ、ヴェネツィア、ウィーン、ニューヨーク、アトランタ、ラスベガス、ロサンゼルスなど、一流といわれるホテルを泊まり歩いた。

 ホテルの設計はもちろん、サービスを直接体験するためだった。チョコレート参入にあたって、最新の製造設備とトップクラスの製造技術者を探し求めて世界中を駆け回ったのと同じだった。今も昔も超高級ホテルの多くは、ホテルブランドを借りて、運営を委託するMC(マネジメント・コントラクト)方式と呼ばれる管理運営受託契約方式で経営されているが、重光はそれをすべて自前でやってしまおうと考えていたのである。重光宣浩は当時の兄の様子をこのように語る。

 「世界一のホテルを作ろうという思いでいっぱいでした。スタッフを引き連れて世界中を旅しながらホテルを見て回り、どんなホテルを作ろうか考えていました。自分でデザインを考えたりしていたようで、部屋のデザイン画を作らせては自分たちでいろいろ決めていたようです。ドアノブまで直接かかわっていました。当時の韓国では建物はとりあえず大工に任せればいいんだという風潮で“インテリア”という単語すらなかった。挙句の果てには、韓国にはなかったインテリアの会社まで作ってしまいました」

 海外視察に飛び回り、帰国するたびに設計変更を申し入れる重光ののめり込みぶりに、当初、基本設計から施工・監理まで請け負っていた鹿島建設が途中で降りてしまい、それを戸田建設が引き継ぐという、建設業界では異例のゼネコン交替が起きるほどだった。

 日活のプロデューサーから縁あって71(昭和46)年にロッテに転職してきた松尾守人は、当時、経営企画部の課長を経て、本社総務課長として、重光のホテルへの取り組みを間近に見ていた。75(昭和50)年6月に着工したロッテホテルの“モデル”についてこう明かす。

 「一般的には帝国ホテルをまねたといわれています。確かにどんな店を何階に出すかといったソフトの部分については帝国ホテルをモデルに研究しました。重光社長も帝国ホテルには足しげく通っていたようです。しかし、実は全体のイメージは、ホテルロッテの本館を見ていただくと分かりますが、京王プラザホテルです」

 71(昭和46)年に開業した47階建ての京王プラザホテルは当時、世界最高層のホテルだった。新宿副都心にそびえ立つ雄姿は、車で10分あまりの東京・新大久保にあった当時のロッテ本社から仰ぎ見る存在だった。

 この「秘園プロジェクト」には重光の弟である三男・春浩(チュンホ、後に「辛ラーメン」で知られる「農心」を創業)と四男・宣浩も加わっており、彼らの“配慮”が後に韓国のロッテ事業を大きく飛躍させるきっかけとなる。実は三男と四男は兄のためにこのような話をしていた。

 「春浩兄と私は『(ロッテグループが)成功したのだから韓国で兄が自分の立場を示せるようなもの、歴史に残る大きな建物を造らないといけない』と、ホテルをはじめ、アーケード、百貨店などを含めた複合施設の建設計画を立てたのです」(重光宣浩)

 当初の計画では、ロッテホテルの付属建物は9階建ての「外国人観光客のためのショッピングセンター」だった。ところが、76(昭和51)年3月のソウル市告示では25階建てに変更されていた。重光自身も、後進的な韓国国内流通業界において最新施設と先進的な経営システムを備えた大型デパートを開店することが消費者、究極的には国家経済の発展に貢献できると確信していた。付属建物の地下1階から10階までをデパートとし、外国人観光客対象の免税事業を盛り込むなど、重光の構想案がそのまま具体化へと動き出した。これはロッテによる韓国国内流通産業への進出宣言でもあった。

 かくて78(昭和53)年12月22日にロッテホテルは竣工、一部開館した。73(昭和48)年10月以降のオイルショックの余波(資材高騰や中東への出稼ぎ増による人手不足)などと相まって、工期は32カ月が約1.5倍の49カ月、事業費は4800万ドルが約3倍の1億4500万ドルに膨れ上がった。翌79(昭和54)年3月10日に全館開業したホテルのオープニング・セレモニーで重光はこのように述べた。

 「私は、一つの立派な芸術作品を祖国に残したいという切実な望みと、ソウルの心臓部に世界に誇れる名所を建設するという一念でロッテホテルの建設を主導してきました。我々の技術で建設し、我々の手で経営するロッテホテルが今後我が国民皆様が自慢できるものになり、韓国観光の基礎を固めるのに一役を果たしていくことを祈願しています」

● ロッテデパートは朴大統領が重光に与えた最後のプレゼント

 ホテルは無事に全館開業したが、デパートはすんなりとはいかなかった。

 市に申請していたホテルの付属建物の用途変更、前述したように「外国人に向けたショッピングセンター」を「デパートの賃貸事務室」に変更する許可申請書を提出したところ、ソウル市の関係部署は騒然となった。ソウル市は当時、「江北(カンブク)地域の人口集中抑制策」を行政課題に掲げ、ソウル大学まで江南(カンナム)に移転させたほどで、江北に立地するロッテホテルにデパートを新設するなど論外だったからだ。

 ところが、ソウル市職員が奇抜なアイデアを捻り出した。実際にはデパートでも、あえてデパートとは明記せずに、ショッピングセンターとしたまま、デパートを運営するというものだ。両者の商品構成にそれほど違いはなく、ショッピングセンターが小売店の集合体なのに対し、デパートは売り場を一括管理すること以外に大きな違いはないからだ。ホテルロッテはこのアイデアに従い、「デパートの許可申請書」を「ショッピングセンターの許可申請書」に変更して再提出した。

 この申請は朴大統領の裁可を受け、すぐに市としての許可が出され、ロッテ側に通達されたのは79(昭和54)年10月26日のことだった。これでロッテはデパート参入のお墨付きが得られた。

 この10月26日は重光にとっても、韓国そして韓国国民にとっても衝撃的な事件のあった日として記憶されることになる。この日の夜、朴大統領がKCIA部長の金載圭(キム・ジェギュ)によって射殺されたのだ。朴は享年61。あっけない最期だった。

 重光は大きな衝撃を受けた。文字通り頭を抱えてしばらく微動だにしなかった。日韓国交正常化の舞台裏で活動した頃から、韓国に自ら進出して以降も含めて20年近くの間、韓国側のトップはずっと朴だった。もし大統領の裁可が1日でも遅れていたら、どうなっていたことだろう。前出の孫楨睦は自身の著者で、このデパート認可をこう書き記している。

 「ロッテショッピングセンターは、朴大統領が重光武雄に与えた最後のプレゼント」

 ロッテデパートは当初予定では78(昭和53)年9月に開業予定だったが、ホテル同様に工事の遅れもあって、1年3カ月も開業が遅れることになった。しかも地元の多くの百貨店が、ロッテ百貨店の売り場の計画面積が他のデパートの2~3倍と広いことと、“外資”の国内流通業への進出に強く反発し、建議書「ロッテ百貨店建設反対」を連名で青瓦台(大統領府)に提出した。ソウル市も“外資”問題は放置できず、別途国内法人を設立せよと命じた。11月15日、重光個人の全額出資で、韓国法人ロッテショッピング株式会社を設立した。これまで免除されていた各種税金もこのときに納付した。

 紆余曲折を経て、79(昭和54)年12月17日、ロッテ百貨店(登記上はロッテショッピングセンター)はオープンにこぎ着けた。この日の正午、重光夫妻らによるテープカットのあと、初日は店内だけで約10万人が訪れ、付近一帯は、入店できなかったその何倍もの人でごった返した。その後の100日間で来店客1000万人超という前代未聞の記録を樹立している。

 ホテルとデパート、言葉を変えれば観光と流通を同時に推進していく「観光流通」という重光の掲げた戦略が韓国に定着し始めたのは、ロッテグループの観光流通事業の集大成である大型観光流通センター「ロッテワールド」の建設が進められた80年代後半からであった。次回は、韓国ロッテグループが成し遂げた「観光流通」を中核とした事業戦略を取り上げる。

 <本文中敬称略>

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最終更新:4/21(水) 6:01

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