IDでもっと便利に新規取得

ログイン

車上生活を描く映画が「日本人の未来」を映す訳

4/8 14:01 配信

東洋経済オンライン

 経済不況により車上生活者として季節労働に従事しなければならなくなった人々の実態を描いた映画『ノマドランド』(監督・脚本:クロエ・ジャオ)が話題になっている。

 さきごろ今年のアメリカ・アカデミー賞の主要6部門にノミネートを果たした。原作は2017年の出版と同時にアメリカで大反響を呼んだ『ノマド 漂流する高齢労働者たち』(ジェシカ・ブルーダー著、鈴木素子訳、春秋社刊)だ。『下流老人』(藤田孝典著)のアメリカ版として、その日常を捉えたドキュメンタリータッチの作品ともいえ、これはそのままわたしたち日本人の未来にも当てはまる真実を映し出している。

■キャンピングカーで各地を転々と放浪

 物語は、アメリカ・ネバダ州の石膏ボード製造会社が所有する町・エンパイアが閉鎖されたところから始まる。数少ない伝統的な企業城下町の社宅から立ち退かざるをえなくなった60代の女性ファーン(フランシス・マクドーマンド)は、キャンピングカーでノマド(遊牧民)さながら各地を転々と放浪して働くことを余儀なくされる。

 季節労働の現場の多くはハードワークでかつ低賃金が相場だ。彼女のような立場の人々は、ワーキャンパー(キャンピングカーで移動しながら働く人のこと。ワークとキャンパーを組み合わせた造語)と呼ばれている。しかしその一方で、ファーンは自分よりも先に路上に出たノマドたちとの交流を通じて、これまでの生活とはまったく異なる別の豊かな現実が広がっていることに気づく。

 これをノマド的な自由さという美辞麗句で称える向きもあるが、インフルエンサーとして成功しているようなノマドならいざ知らず、いささか楽天的すぎる見方だろう。確かにそういう側面もあるが実際はもっと複雑である。

 彼らは少し前まで中間層を自認する安定した暮らしを享受できていたにもかかわらず、主にグレート・リセッション(2000年代後半から2010年代初めまでの期間の大規模な景気後退)をきっかけに、それらの社会的地位を奪われて着のみ着のまま路上に投げだされた何百万人もの人々なのである。

 しかもこの悲惨な状況が大局的には改善される見通しはほぼない。だからこそ自分たちの人生と尊厳を守るため、独自に新しい潮流を生み出すことを迫られたのである。必要に駆られて編み出された生存戦略なのだ。しかしながら、それが排除された者たちが選びうるオルタナティブとして、強烈な魅力と訴求力を持ち始めているのもまた事実といえる。

 原作者のブルーダーは、ノマドの先駆者でオピニオンリーダーの1人であるボブ・ウェルズの意味深な言葉を引用している。

ボブの予想では、アメリカでは将来、経済的、環境的大変動が日常的になる。だからボブは、ノマド的生活を、社会が安定を取り戻すまで乗り切り、時期が来ればまた一般社会に戻るための、その場しのぎの解決策とは考えていない。むしろ彼が目指しているのは、壊れつつある社会秩序の外で(さらにはそれを超越したところで)生きられる、さまよえるトライブを生み出すこと。つまり、車輪の上のパラレルワールドをつくることなのだ。(前掲書)

■同胞やネットワークが必要不可欠

 原作においても映画においても繰り返し言及、描写されているのは、ボブが述べている「さまよえるトライブ」の存在の重要性だ。過酷な社会環境において生き残っていくためには、さまざまなスキルや知恵を共有し、時に助け合うことができる同胞やネットワークが必要不可欠なのである。

 ノマドたちは、安全な宿泊場所の見つけ方(ステルス・パーキング術)、警察の訪問を避ける方法(地元の警察との付き合い方)、即席のタイヤ修理法などといったサバイバルの方法を新参者に伝授し、有益な情報の発信を積極的に行い、離散していながらも緩やかな連帯を保つ。あたかも1つの部族のように。

 そして、それは単に生き延びていくためのネットワークに収まることなく、前述のような新しい時代にふさわしい価値の創出へと向かうのである。「そこには同じ境遇にいる者ならではの理解と一体感がある。だれかのトラックが壊れたら、彼らは帽子を回して寄付を募る。何か大きなことが始まりそうだ、という思いが伝染してゆく」(同上)。

 ノマドたちはまず自分を最も頼りとする一匹狼的な存在といえるが、そのフロンティア精神になぞらえる自立や自由の内実は、多様なつながりや強固な連帯によってこそ支えられているのだ。その黎明期についてブルーダーはこう書いている。

似たような境遇のノマドがオンライン上でこれほど活発にやりとりしていれば、やがては現実の集まりに発展していくものだ。国内各地の森や砂漠でキャンプファイヤーを囲んだノマドたちは、小説家のアーミステッド・モーピンが「バイオロジカル」(生物学的)ならぬ「ロジカル」(論理的)なファミリーと呼んだ、一種の疑似家族を形成する。休日を本当の血縁者と過ごすより、ノマドのファミリーと過ごすことを望むノマドもいる。(前掲書)

■「個別社会」の弱さ

 ファーンがたどった道程があまりにも象徴的だが、彼女のいた職域とファミリーがイコールで結ばれる企業城下町的なコミュニティーは、今や前時代の遺物でしかなく地域社会は衰退する一方であり、分厚い中間層が下支えしていた国民国家は有名無実化しつつある。ノマドはそんな恐るべき時代の申し子である。これは物理的に人が土地に定着できないという問題ではなく、作家の宮崎学が指摘していた「個別社会」の弱さの問題である。

 宮崎は、国家と重ならない個別の小さな社会を「個別社会」、日本社会のような国民国家レベルの大きな社会を「全体社会」と呼び、実質的に「個別社会」の機能を持つ集団は少ないと述べた(『法と掟と』洋泉社)。これは他者を自分たちの一部とみなして具体的に助け合える仲間の範囲といえばわかりやすいだろう。ノマドたちのトライブとは、いわば自衛的に立ち上げられた「個別社会」的なものの一形態なのだ。

 宮崎が「日本社会では差別されている集団のみが個別社会としてのリアリティーをもつことができた」のは、「全体社会」から排除され結束する必要があったからだと説明しているが、今やその「全体社会」は、国家が国民の面倒を見ることに及び腰であり、無慈悲な市場原理主義が席巻している。わたしたちはあらゆる物事を市場に委ねることに慣れきってしまい、逆にそこから排除された場合のリスクに無頓着になってしまっている。

 例えば失業や事故や病気などによって、今の仕事を続けられなくなった場合、ローンや家賃を支払えずに路頭に迷う可能性が高いのであれば、わたしたちはすでにノマドと何ら変わらない状況にあるということなのだ。市場がわたしたちを役立たずだと判断すれば、たちまち不要の烙印を押されるだけである。

 かつて社会活動家の湯浅誠は「すべり台社会」と形容したが、巨大な経済システムの気まぐれによって転落したら一巻の終わりなのだ。これはすべてが金銭的価値に還元され取り引きされる、労働力や消費者としてしか社会との接点がほとんどなく、頼ることができる実質的な仲間=相互扶助のネットワークを持っていないことを意味する。

■意識されない無形の資産

 だが、これらは無形の資産といえるものなので、意識されないことのほうが多い。わたしたちは帰るべきホームを建物や土地だと思いがちだが、そこに温かく迎えてくれる人がいなければ廃墟や荒野にすぎない。

 映画評論家のデーナ・スティーブンズが『ノマドランド』について「本作は『ホーム』の意味と価値に思いをめぐらせる。それは建物の中にあるのか。それとも車に?  家族に?  安心感と帰属感がホームなのか」(ホームレスとハウスレスは別──車上生活者の女性を描く『ノマドランド』の問いかけ/2021年4月2日/Newsweek)と問うているが、ホームは血の通った仲間内=トライブの中にこそ息づいている。

 その核心にある精神は、惜しまれて亡くなった仲間をうやうやしく追悼しつつも、別れるときは最後のさよならを言わず、再会を固く信じるノマドたちのたたずまいに体現されている。そして、ファーンは自分のホームを見つけることができたのである。時空に拘束されない次元で渦巻いている、生も死も超越したところにあるホームである。

 わたしたちの大半がすでに多かれ少なかれノマドたちと似た運命にある中で、この映画が指し示しているメッセージは驚くほど根源的でかつ明快である。

東洋経済オンライン

関連ニュース

最終更新:4/8(木) 14:01

東洋経済オンライン

投資信託ランキング

Yahoo!ファイナンスから投資信託の取引が可能に

最近見た銘柄

ヘッドラインニュース

マーケット指標

株式ランキング