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ロッテ重光を待ち受けていた、韓国政府の「2度の裏切り」

2/24 6:01 配信

ダイヤモンド・オンライン

 1961(昭和36)年にガム日本一の座を奪取した重光武雄は翌62年に、21年ぶりに母国・韓国の土を踏んだ。朝鮮戦争で世界最貧国レベルに転落した母国に戻った重光は、もう一つの顔である辛格浩(シン・キョクホ)として、日韓国交回復の仲立ち、そして韓国への本格投資へと動き出していく。だが、母国への貢献のために、重工業への参入準備を進めていた重光を待ち受けていたのは、2度にわたる韓国政府の裏切りだった。(ダイヤモンド社出版編集部 ロッテ取材チーム)

● 妻子も親も捨てて渡日した“辛格浩”が21年ぶりに帰国

 1962(昭和37)年4月20日。重光武雄は在日韓国人商工会連合会(当時。現・在日韓国商工会議所)の顧問として、郷里を出奔して以来21年振りに祖国の土を踏んだ。

 連合会は同年2月に設立されたもので、その基盤となった東京韓国人商工会も前年に設立されたばかりだった。重光は、連合会会長の李康友(イ・カンウ)、副会長の許弼奭(ホ・ピルソク)らに同行するかたちで、当時は国交のない日本から帰国したのだ。ちなみに会長の李康友は製薬メーカーの三亜薬品工業の創業者だが、映画館「オデヲン座」を新宿や吉祥寺など、都内に多数展開した東亜興行のオーナーとして名高い人物である。また、許弼奭もパチンコチェーン「モナミ」の経営者として知られた存在だ。そして重光は前年にガムメーカー日本一の座に上り詰めたばかりだった。まさに日本で成功を収めた在日一世の創業者たちが、故郷に錦を飾るべく凱旋帰国したかのような陣容だった。

 重光たちは韓国入国の翌日には全国紙である京郷新聞や東亜日報などを訪問。それを報じた京郷新聞の「来訪欄」には、「重光武雄氏(美〈アメリカ〉롯데〈ロッテ〉株式會社社長)辛格浩氏 人事次」と、重光の肩書が米国ロッテ社長となっている上、辛格浩の名が別記され、あたかも2人が訪れたように記載されている。単純な誤記だが、日本名「重光武雄」と韓国名「辛格浩」の2つの名前を日韓で使い分けていた重光の、「半分は日本人」という差別的扱いを受ける、韓国でのその後の運命を暗示するかのようなエピソードである。

 振り返れば、重光が日本へと渡ったのは1941(昭和16)年のことだ。韓国儒教において絶対的存在である父親の辛鎮洙(シン・ジンス)も、その父親が“政略”結婚させた富農の娘で、身重だった妻の盧舜和(ノ・スンファ)も捨てて、裸一貫で出奔したのだった。牛乳配達を皮切りに様々なアルバイトをしながらがら苦学し、戦後の焼け野原で石鹸・化粧品製造で一山当てて、ついに来日20年で日本一のガムメーカー経営者にまで上り詰め、祖国へ帰ってきたのである(『ロッテを創った男 重光武雄論』より)。

 韓国入国後に重光は、朝鮮戦争(50〈昭和25〉~53〈昭和28〉年)の休戦から10年近く経ったというのに、復興しきれていない貧しい祖国の姿に衝撃を受けたことだろう。

 日本ではあまり知られていなかったが、朝鮮戦争の被害は甚大であった。戦争で国土が焦土と化した韓国の1人当たりの国民総所得(GNI)は、休戦から2年後に韓国が国際通貨基金(IMF)と世界銀行に加盟した55(昭和30)年時点で65ドルと、当時のアフリカ最貧国のガーナ、ガボンにも劣る水準だった。重光が帰国した頃の韓国はまだ、世界最貧国が海外からの援助で食いつなぎながら、なんとか復興を目指しているという状況だった。実際、当時の韓国はGNPの1割を米国の援助が占めてしまうような「援助経済」の国だった。

 さらに重光が驚きを隠せなかったのは、重光を迎えに来ていた父の再婚相手である継母に話しかけようとした際に韓国語がすぐに出てこない、すっかり日本人化していた自身の変わりようだった。すでに重光の母は朝鮮戦争開戦の年に亡くなっており、40(昭和15)年に重光との長女である英子(ヨンジャ)を産んだ妻の盧舜和も夫と再会することなく60(昭和35)年に亡くなっていた。なお、記録はないが、当時、梨花(イファ)女子大学生だった英子と初めて会ったのもこの時と見られる。

 21年ぶりに戻った祖国は、出国したときよりもさらに貧しく、荒れ果てており、母も妻も、そして重光を支援をしてくれた叔父など多くの人々がすでに亡くなっていた。一方で、作家を目指して日本へ渡ったはずの辛格浩は、実業家・重光武雄として信じられないくらいの経済的成功を収め、母国語を忘れてしまうほど、“日本人化”してしまっていた。

 帰国によって、朝鮮儒教の思想である「衣錦還郷(いきんかんきょう)」(故郷に物質的還元を行う)の教えが、重光のもう一つの顔である辛格浩の望郷の思いと愛国心をかき立てたことは想像に難くない。

● のちの“盟友”のクーデターで「衣錦還郷」の舞台が整う

 重光が21年ぶりの帰国を果たす1年前の1961(昭和36)年5月16日。韓国では、のちに“盟友”として重光の人生を左右することになる朴正熙(パク・チョンヒ)の仕掛けた「5・16クーデター」が勃発していた。その後、30年にわたる軍事政権の誕生であり、韓国でロッテグループを巨大財閥へ押し上げることになる、朴大統領の「開発独裁」(経済発展優先のため国民の政治参加などを制限する独裁体制)の始まりである。

 ここで当時の韓国の歴史を簡単におさらいしておこう。48(昭和23)年8月の建国時からの初代大統領・李承晩(イ・スンマン)は、60(昭和35)年4月、「4・19学生革命」と呼ばれる民主化運動で下野し、ハワイに亡命した。この背景にあったのは、米国が対韓支援を無償贈与から有償援助へ変更したことで、韓国経済が瀕死の状況に陥ったことが挙げられる。李の独裁に懲りた憲法改正で大統領権限を大幅に縮小、初の議院内閣制によるいわゆる「第二共和国」となったが、政情の不安定は続いた。

 そして5月16日、朴正煕が最高指揮官となった革命軍が首都を制圧し、軍事革命委員会を立ち上げた。その3日後には国家再建最高会議という韓国軍陸軍士官学校8期生が中心となった軍事政権が成立する。63(昭和38)年12月、朴は大統領に就任、憲法改正で大統領権限を強めた「第三共和国」を立ち上げた。その経済政策の根本となったのが、前政権が策定していた韓国史上初の経済開発計画「5カ年計画」(62〈昭和37〉~66〈昭和41〉年)で、その後、朴政権は「開発独裁」の下で、外国資本導入や重工業中心の工業化を推し進めていくのである。

 この韓国の劇的変化に呼応してか、この頃から在日韓国人実業家の動向が韓国の新聞でも報じられるようになっていく。例えば、前出の京郷新聞の60(昭和35)年11月の記事では、先の李康友と辛格浩(重光)に加え、大和製罐の孫達元(ソン・ダルウォン)、阪本紡績の徐甲虎(ソ・ガプホ)を列挙した後、こう報じている。

「前記した在日韓国人の実業家らは大部分が(李承晩)独裁政権が辞任した祖国に来てどんな業績でも残したいという意思を吐露しているが、この(李)政権が残した悪弊の一つである“企業家が政治の中に連れていかれる”のが怖くてぐずついている」(*1)
 在日韓国人の成功者が「衣錦還郷」の意志を抱いているにもかかわらず、「企業家が政治の中に連れていかれる」、つまり政治家に便宜供与(賄賂)を要求され、癒着が常態化する恐れがあることから帰国を躊躇している、という指摘である。そうした腐敗構造を朴政権がクーデターで払拭したことで(実際には温存されたが)、在日成功者の「衣錦還郷」を実現できる舞台が整えられたというわけである。

 この結果、例えば「西日本最大の紡績王」と呼ばれた徐甲虎は朴大統領の懇願に応じて63(昭和38)年に115億円、翌64年には171億円を投じて韓国内に立て続けに紡績工場を設立し、在日韓国人資本による初の本格進出として歴史に名を刻んだ(後に韓国から撤退し、74〈昭和49〉年に日本の本社を含む企業グループが当時で繊維業界史上最大となる負債総額で倒産)。

 祖国訪問からほどなく、重光は水面下で日韓国交正常化の交渉に関与していく。そもそも重光は50年代末にある経済団体の会合で紹介を受け、戦後を代表する大物政治家の岸信介と親交があった。57(昭和32)年2月から60(昭和35)年7月まで首相を務めた岸は、日韓国交正常化を強く推進した親韓派の筆頭だった。岸との親交から広がった官僚や政治家たちとの人脈は、日韓交流に生かされていく。「韓国の朴正熙に匹敵する、日本の“盟友”が岸信介であり、重光は韓国ロビー(ロビイスト)の元祖」という“都市伝説”が広く流布されていたほどである。チューイングガムの輸入自由化阻止や、プロ野球球団「東京オリオンズ」の引き受けなど、実際の2人の濃厚な関係が垣間見えるエピソードは章を改めて解説する。

 重光の“暗躍”が公文書に克明に記録されているケースもある。62(昭和37)年6月6日、駐日韓国大使が韓国の外務部長官(外務大臣に相当)に送った公文、「ロッテガム会社社長、重光武雄の伊関面談報告」からは、重光が日韓国交正常化交渉で果たしていた役割が見て取れる。その公文は以下のような説明から始まる。

 当地の在日韓国人実業家である「ロッテガム会社社長、重光武雄」は6月5日午後に本人(駐日韓国大使)を訪問し、同日の午前に伊関(日本)アジア局長と外務省事務室で面談したが、その内容が以下のとおりだと電話して来たので報告する(ロッテ会社社長重光武雄は韓国商工会の顧問で当地在日韓国人の間で人望が高く、日韓実業家間でも信望が大きい者であり、大蔵省理財局長「イナマバスシゲル」と個人的にまたは家族的に非常に厚い親交関係を持っている)。

 この記録から、重光武雄が外務省アジア局長の伊関裕二郎と単独で面談し、その内容を駐日韓国大使の裵義煥(ペ・ウィファン)に直接電話で知らせた事実を知ることができる(「イナマバスシゲル」は稲益繁・大蔵省理財局長の誤記)。このときに重光が伝えたのは、伊関局長の訪韓、対日請求権の金額、韓国の日本漁船拿捕や韓国人旅行者の日本滞在時間の問題など、どれもが政治的に敏感なものだった。国交回復前で公式な外交ルートを持たない日韓両国が、重光という“非公式ルート”を介して情報交換を行っていたのだ。こうしたセンシティブな交渉の仲介者になることが、重光にとっては「事業のために忘れていた私の祖国に対する小さな恩返し」となったのである。

 かくて、65(昭和40)年6月22日、佐藤栄作総理大臣と朴大統領は日韓基本条約を締結し、10(明治43)年発効の日韓併合により消滅していた両国の国交を回復した。

 *1 『京郷新聞』1960年11月21日付

● 朴大統領の意向で幻となった石油化学事業への参入

 「在日本大韓民国民団(民団)では毎年、3機関長(団長、議長、監察委員長)と常任顧問など20~30人で大統領への表敬訪問をやっています。重光さんもこうした訪問団に同行し、朴大統領とのパイプを太くしていったのではないかと思います」

 民団の呂健二(ヨ・ゴンイ)団長はそう語る。それまでは商工会などの経済団体の顧問だけを引き受けてきた重光だが、66(昭和41)年6月6日、民団中央本部の新役員として顧問に選出された。朴大統領とも直接話せる存在として、在日韓国人のみならず、韓国政界での知名度も高くなっていた。

 重光に朴を最初に紹介したのが、当時は大統領府秘書室長を務めていた李厚洛(イ・フラク)だった。重光と同郷で、同じ蔚山(ウルサン)の農業学校を卒業している。朴と共にクーデターに参加し、のちには駐日大使やKCIA部長も務めている。重光との関係を知る弟(四男)の重光宣浩はこう振り返る。

 「彼は非常に頭のいい男で、KCIA部長の頃、韓国では『泣く子も黙る李厚洛』と恐れられた実力者でした。(重光が)李承晩大統領については『あいつは経済も知らない。とんでもない野郎だ』と憤っていましたし、警戒もしていたようです。私は何度も韓国進出を勧めましたが、当時関心はあまりなかった。朴大統領時代になると、三星(サムスン)や現代(ヒョンデ)がどんどん台頭、気が付いたら桁違いの会社になっていた。何とかしなければならないということで『目が覚めた』わけです」

 政権中枢とのつながりができてから、韓国投資の案件が重光にも寄せられるようになる。すでに韓国政府は国交回復後に外資導入法を宣布し、在日韓国人の韓国投資を外国人投資として優遇することを保証する「外資導入施行規則」を制定し、在日の資金取り込みに躍起だったという背景もある。

 例えば民団顧問になったのと同じ66(昭和41)年の6月に締め切られた石油精製所計画。前述した「5カ年計画」に続く「第2次5カ年計画(67〈昭和42〉~71〈昭和46〉年)」で政府は石油化学産業や鉄鋼産業などの基幹産業を立ち上げる壮大なプロジェクトを掲げていた。この事業計画申請には、現在の韓国の財閥4位のLG(当時は樂喜〈ラキ〉化学)や9位のハンファ(韓火=旧・韓国火薬)に肩を並べて、ロッテグループが手を挙げていた。蛇足になるが、当時は、財閥が「5カ年計画」に参加したのではなく、「5カ年計画」に参加した中小企業が朴政権の“優遇”で財閥にのし上がったというのが韓国の歴史である。

 重光は石油化学事業への参入について、「最初、韓国政府では僕に製油工場を建ててくれと言った」(*2)
と明かしている。そのために、三井物産から融資を受けて韓国に東邦(ドンバン)石油を設立し、石油精製プラント建設の準備を進めていた。ところが事業申請締切から数カ月後に李厚洛から思いがけない要請を受ける。 「朴大統領が製鉄所建設を計画しているが、韓国には技術も資本もない。日本の政界にも影響力がある重光に手伝ってほしい」

 大統領の希望とあれば、石油化学事業は諦めざるをえなかった。結局、石油精製所計画はLGグループが獲得し、完成した製油所は現在は財閥7位のGSグループ(LGから分離)の傘下にある。もし、この事業を獲得できていれば、ロッテは、韓国で化学最大手のLGやエネルギー大手のGSのような、重光が祖国貢献のための悲願としていた重工業メーカーへの転身が実現できていたかも知れない。

 *2 『月刊朝鮮』2001年1月号

● 韓国政府による2度の裏切りにも祖国への投資を諦めず

 朴大統領の意向によって、周到な準備を重ねてきた石油化学事業参入の夢を絶たれてしまった重光。しかも、石油精製プラントよりもはるかに巨額の資金と技術を要するであろう、製鉄所の開設が喫緊の“宿題”となったのである。

 そこで、重光は大統領経済首席秘書官の助言に従い、東京大学生産技術研究所で製鉄技術の研究をしていた在日同胞の金鐵佑(キム・チョルウ)博士と年間100万トン規模の総合製鉄所の事業化調査に着手した。重光は金博士の紹介で富士製鐵(後に八幡製鐵と合併して新日本製鐵<現・日本製鉄>)の永野重雄社長を訪ね、さらに川崎製鉄(現・JFEスチール)や八幡製鐵にも教えを請い、協力を求めた。重光はこう振り返る。

「八幡製鐵に相談に行ったら、『いや、個人じゃ無理でしょう』と言われた(笑)。それにしても政府の要請でもあるし、一年かけて日本の製鉄工場は全部見て回りましたね。欧米にも行った。その結果、100万トン規模の設備なら十分競争できるし、銀行からの融資も受けられそうだ、となった」(*3)
 重光は製鉄業進出に向けて全精力を注いできたが、ゴールはもう目前に迫っていた。

「僕は1年半の間、日本内の富士製鐵の支援を受け、設計図を作りました。年間100万トンの生産規模で総投資額が1億ドルの計画でした。そのうち3000万ドルは私が出資し、残り7000万ドルは日本における借款などで建設することにしました」(*4)
 マスコミも大々的に取り上げていた。67(昭和42)年7月26日の韓国紙・毎日経済新聞はこう報じた。

 「屈指の在日韓国人実業家の重光武雄(ロッテ製菓財閥)が日本の三菱商事と提携し、粗鋼年産120万トン規模の総合製鉄工場の建設事業計画書を政府に提出した。26日、関係当局によると、重光武雄が提出した事業計画書では、第一段階は国内需要を考慮して60万トンの施設として進める」

 ところが同じ日の東亜日報は、「張基榮(チャン・ギヨン)経済企画院長官は26日午前、第2次5カ年計画期間に建設される総合製鉄は国営にする(後略)」という政府方針を伝え、事態はまったく違う方向に進んでいた。

 このすぐあとに重光は、金博士の東京大学の研究室に呼び出される。そこにいたのは、後に国営製鉄所の浦項(ポハン)製鉄(現・POSCO)の社長となる、国営鉱山会社「大韓(デハン)重石」社長の朴泰俊(パク・テジュン)だった。朴は「自分が総合製鉄所の企画および建設責任者に内定している」と告げ、重光はまたしても祖国に裏切られたことを悟ったのである。浦項製鉄は富士製鐵、八幡製鐵、日本鋼管(現・JFEエンジニアリング)3社の協力で73(昭和48)年に第1高炉を稼働させ、のちに年間550万トンを生産する世界屈指の鉄鋼大手に成長した。

 青天の霹靂のような、製鉄業を国営とする政府の裏切りにあっても重光の韓国進出の意志は折れなかった。今度は製菓業での本格上陸を目指したのである。実は、政府の国営方針が明らかになる3カ月前の4月3日に、重光は韓国に「ロッテ製菓」を立ち上げていた。だが、前述したように、重光は当時、製鉄業の事業計画作成に全精力を傾けており、政府の裏切りで、仕方なく“本業”に注力し始めたといった方がいいかも知れない。この9年前の58(昭和33)年には韓国「ロッテ」が設立されていたが、実際に経営を行っていたのは重光の弟である次男と三男で、しかも兄弟の経営を巡る確執が裁判沙汰になるなど経営は迷走していた。そうした混迷状況を払拭すべく新会社を設立したはずが、はからずも重光が自身で本格進出して捲土重来を期さざるをえない結果になったと見ることもできる。

 ロッテ製菓設立により、1年の半分は韓国、残り半分は日本で過ごすという、重光・辛格浩の40年にわたるシャトル経営がこの頃から徐々に始まっていく。そんな当時の様子が記録されている。

「すらりとした背丈(173センチ)、未だ黒い髪のかくしゃくとした辛氏は、大財閥の総帥らしくもなく、誰一人お供をつれずに小さな書類カバン一つだけで一人で帰国する。たいてい午後2時ごろ金浦空港に着くが、彼を出迎えるのは韓国ロッテの秘書室職員だけだ。天性仰々しいことが嫌いで、誰の前にも自分をあらわすのをいやがる習性のためだ」(*5)
 また、後に「タイムマシーン経営」(*6)
と呼ばれる、日本と韓国の経済発展のギャップを背景に、5つ星高級ホテルや日本式デパート、コンビニなどの、日本で先行していた事業を韓国にいち早く導入して成功させるビジネスモデルの片鱗もここでも見られた。ロッテ製菓はいきなり、バーブミント、クールミント、ジューシィミント、ペパーミント、オレンジボールガム、フーセンガムという、日本での発売時期の異なる6つの主力ヒット製品を一斉に発売し、さらにガム日本一の原動力となった「1000万円懸賞」の韓国版も翌年に展開し、韓国の消費者を驚かせた。シャトル経営とタイムマシーン経営により、ロッテは日韓の両輪でさらなる躍進を遂げていく。次回は再び舞台を日本に移し、重光による球団経営への進出と、ロッテの総合製菓メーカー化の軌跡をたどってみよう。 *3 『週刊ダイヤモンド』2004年9月11日号
*4 『月刊朝鮮』2001年1月号
*5 朝鮮日報経済部『韓国財閥25時』同友館、1985年
*6 海外で成功したビジネスモデルやサービスをいち早く日本で展開し、先行者利益を得る経営手法を、ソフトバンク創業者の孫正義氏が「タイムマシーン経営」と命名したとされる。韓国ロッテは「元祖・タイムマシーン経営」といえる。

 <本文中敬称略>

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最終更新:2/24(水) 9:10

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