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伝説のヤクザ映画「仁義なき戦い」抜きに東映の成功は語れない理由

1/23 13:01 配信

東洋経済オンライン

1960年代後半、元東映名誉会長で当時映画プロデューサーであった岡田茂氏が逆境にあえぐ東映を救うために実行した「秘策」とは?  作家の早見俊氏による『人生!  逆転図鑑』より一部抜粋・再構成してお届けします。

 1964年、日本は東京オリンピックに沸いていました。戦後19年、経済大国として復興を遂げた日本を象徴するこの年、東映は前年比13億円の減収を計上したのです。日本経済が復興するに従い、東映ばかりか娯楽の王座にあった映画界が凋落していました。

■ピークから「7億人も観客減らした」映画業界

 国民の生活は豊かになり、レジャーが多様化します。加えてテレビの普及が、人々の足を映画館から遠ざけていったのです。東京オリンピックを家で観戦しようと、テレビは1000万台を超えました。対して、映画館の観客動員数は1958年の約11億2000万人をピークに急減し、この年には4億人を切りました。

 娯楽の王座映画にあっても、東映の時代劇はひときわ大勢のファンを獲得していました。片岡千恵蔵、市川右太衛門、中村錦之助、大川橋蔵といったスターが、きらびやかな衣装で剣を振るい、悪党を退治する。美しいお姫さまと恋に落ち、お姫さまの窮地を助ける。人々は銀幕のスターの大活躍に胸を躍らせました。

 東映は前身・東横映画の撮影所長だったマキノ光雄が唱える「泣く、笑う、握る(手に汗)」の3要素を盛り込み、家族そろって楽しめる映画というコンセプトで、時代劇を制作してきました。それが敗戦で打ちひしがれ、娯楽に飢えていた人々の心をつかんだのです。

 そんな栄華を誇っていた東映の大幅な減収は、レジャーの多様化による映画館離れに加え、こうした東映時代劇の制作姿勢そのものが飽きられてきたのも事実でした。

 会社の立て直しをすべく東映社長の大川博は、岡田茂を東映京都撮影所の所長に送り込みます。岡田は、東大経済学部卒のエリート、しかしとてもエリートとは思えない向こう意気の強さの持ち主でした。終戦直後の荒々しい撮影現場でのけんか沙汰にもひるまず、相手がやくざでも平気で殴り合ったとか。後に「鬼の岡田」と恐れられるほどです。

 気が強いだけでなく、大変な働きぶりでした。朝7時半には撮影所に入り、すべての脚本をチェック、ロケ隊には「雨が降ろうが槍が降ろうが、撮影するまでは帰るな」と命じていました。さて、鬼の岡田は、低迷する東映を、いかに逆転させたのでしょう。

 東映立て直しのために、岡田は映画制作を時代劇から任侠映画に転換します。家族そろって楽しむ映画から、男が楽しむ映画への路線転換です。闇雲の方針転換ではありません。

 岡田は、減少した映画人口を分析し、映画館に足を運んでいるのは青年から30歳以上の男性だと把握しました。主婦や子ども、お年寄りはテレビに奪われたのです。ならば、若者から30代の男性に受ける映画を制作すればいいと判断しました。

 また、時代劇ではなく仁侠映画と見定めたのは、2年前に制作した『人生劇場 飛車角』の大ヒットでした。小説家・尾崎士郎のベストセラーを映画化したのですが、主人公の青成瓢吉(梅宮辰夫)より、原作では脇役の飛車角(鶴田浩二)、吉良常(月形龍之介)を前面に出し、任侠道を描いたこの作品は、男性客に大受けしたのです。

 岡田は、任侠路線に舵を切るに当たり、俊藤浩滋をプロデューサーに招きます。俊藤は、京都木屋町のクラブ「おそめ」のママの(内縁の)夫で、店の運営に深く関わっていました。おそめには、芸能界や政財界の大物が出入りしており、俊藤は彼らと太いパイプをつくります。岡田の期待に応え、俊藤は、東宝との契約を終えてフリーになっていた鶴田浩二の東映専属契約を実現しました。

■「やくざの親分は、そんなふうには払わんのや」

 さらに俊藤は、脚本の練り上げや撮影にはつきっきりで立ち合いました。彼の人脈は任侠界にも及び、映画にリアリティーを添えます。例えば、ほかの映画会社で描かれる賭場は丁半博打ばかりですが、東映では手本引き、花札などが臨場感たっぷりに撮影されたのです。

 また、キャラクターの描き方にも、俊藤は具体的なアドバイスを与えました。親分が子分におごる際、勘定書きを見て財布からお金を出すシーンでは「やくざの親分は、そんなふうには払わんのや」と、財布ごと子分に預け、支払いを済ませるといった具合です。

 俊藤の指導により、東映仁侠映画は鶴田浩二、高倉健の2代スターを擁し、若山富三郎、菅原文太らが追随、女優では藤純子(俊藤の娘)を看板に大ヒットを連発します。結果、1965年の邦画興行成績ベストテン中、鶴田と高倉主演の仁侠映画が7本も占めました。

 仁侠映画に路線を切り替えると同時に、岡田はつらい作業を断行しました。リストラです。仁侠映画への路線変更は、役者とスタッフの入れ替えも伴いました。戦々恐々となったのは下の者たちです。トカゲの尻尾切りをされるのではないか、と。

 しかし、岡田は大物からリストラをしました。まず、東映時代劇を象徴した2人の御大、片岡千恵蔵と市川右太衛門の専属契約を切ります。中村錦之助、大川橋蔵は自ら身を引きました。大物監督の松田定次と、名脚本家の比佐芳竹も専属契約を更新しませんでした。

 大スターをリストラした岡田でしたが、スタッフは1人も解雇しないと宣言します。敵と言えるテレビの勃興が、彼らの職を安定化させたのです。

 テレビは多彩な番組を必要とし、時代劇は重要なコンテンツでした。時代劇は映画館からお茶の間で楽しむものとなっていき、時代劇制作なら東映京都撮影所のスタッフは本領を発揮できます。そこで岡田は、テレビ制作会社をつくり、若いスタッフたちを移しました。

 苦闘していたのは、ほかの映画会社も同様で、東宝の三船敏郎、日活の石原裕次郎は独立プロを立ち上げていました。東映から身を引いた中村錦之助も独立するなど、日本映画の大きな転換期を迎えたのです。

 任侠路線はヒットを続けましたが、時代劇同様、やがては飽きられます。替わって岡田が路線としたのは実録路線でした。この実録映画の代表作が、広島で起きた実際の抗争事件をモデルとした『仁義なき戦い』です。

 スターの交代も同様に行われ、鶴田浩二はテレビに移り、高倉健は東映から独立してフリーとなり『幸福の黄色いハンカチ』『八甲田山』『野性の証明』『南極物語』など、数々の大ヒット作品に主演し、仁侠映画から日本映画の大スターとなりました。彼らに代わって東映を支えたのは菅原文太、梅宮辰夫、千葉真一、松方弘樹です。

 実録路線は、リアルなやくざの生態を描いたため、警察は東映と広域暴力団の関係を怪しみます。東映が得る収益の一部が、暴力団に流れているのではないかと疑われたのです。このため、俊藤は兵庫県警に聴取されましたが、俊藤も岡田も暴力団とのつながり、資金源になっていることを強く否定しました。

■「警察と暴力団の癒着」さえ映画化

 向こう意気の強い岡田は、兵庫県警への怒りを爆発、県警の刑事と暴力団の幹部との癒着関係を描いた映画を制作しました。「題名は『県警対組織暴力』や、いっちゃれ、いっちゃれ」と制作現場を鼻息荒く督励したとか。岡田は広島出身、口調は『仁義なき戦い』シリーズで金子信雄が演じた山守親分を彷彿とさせたそうです。

 東映の業績をV字回復させた岡田の逆転人生にあった原動力は、向こう意気の強さと果敢な行動力でしたが、それに加えて反権力を貫く活動屋魂であったのかもしれません。

東洋経済オンライン

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最終更新:1/23(土) 13:01

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