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イトマン事件から30年、スクープ記者語る悔恨

1/20 6:31 配信

東洋経済オンライン

無謀な地上げ、法外な絵画取引、乱脈なゴルフ場開発など、バブル経済のまっただ中で創業100年余の中堅商社を通じ、闇社会がメインバンクの住友銀行から巨額の金をむしり取ったイトマン事件。それが発覚したのは内部告発状、そして住友銀行のバンカーだった國重惇史氏と日本経済新聞記者の大塚将司氏のタッグによる巧妙な作戦によるものだった。1990年の日経新聞のスクープから30年あまり経ち、大塚氏は何を感じているのか。告発の軌跡をインタビュー形式(聞き手は五十嵐京治POWER NEWS編集長)でまとめた大塚氏の新著『回想 イトマン事件』を一部抜粋・再構成してお届けします。

<イトマン事件発覚の経緯>
日本経済新聞1990年9月16日の「伊藤萬グループ不動産業などへの貸付金、1兆円を超す 住銀、資産内容の調査急ぐ」という3段の記事が、戦後最大の経済事件と言われたイトマン事件勃発の狼煙となり、イトマンの膿が次々と世の中にさらけ出された。
10月7日に「住友銀行の天皇」と言われた磯田一郎会長が辞任し、翌1991年1月25日には、イトマン取締役会で河村良彦社長を電撃解任。4月24日には大阪地検特捜部と大阪府警がイトマンに強制捜査に入り、7月23日に、河村氏、伊藤寿永光(いとう・すえみつ)氏、許永中氏ら6人が商法違反の特別背任容疑で逮捕された。それから14年後の2005年10月7日、最高裁は上告棄却を決定し、河村氏に懲役7年、伊藤氏に懲役10年、許氏に懲役7年6月の刑が確定した。

舞台となった東証1部上場の老舗商社イトマンは、事実上多額の債務超過に陥り、1993年4月1日、住友金属工業(現:日本製鉄)系の鉄鋼商社「住金物産(現・日鉄物産)」に吸収合併され、110年の歴史を閉じた。合併にあたり、5000億円を超すイトマンの不良資産は別会社に分離し、住友銀行が時間をかけて処理することになった。が、3000億円ともいわれるこの事件で闇社会に流れた金については、裁判で全容が解明されることはなかった。

■イトマン側は記者の情報を1000万円で収集していた

 ――大塚さんに聞いておきたいことがあります。特別背任容疑などで逮捕された河村良彦、伊藤寿永光、許永中の3被告に対する初公判が1991年12月19日に開かれました。

 大阪地検特捜部は、その冒頭陳述のなかで、関連事件で逮捕した不動産開発会社社長だった小早川茂被告が「日経新聞内の協力者に現金1000万円を支払って記事執筆記者の情報を収集した」と明かしました。大塚さんがどのようにしてその情報を知り、どう受け止めたのか。大塚さんがイトマン報道から離れて1年2カ月あまり経っています。

 大塚:そうですね。実は、入社年次で順送りする日経の年功序列人事で、僕は1991年3月に次長(デスク)か、編集委員に昇格して、記者クラブに所属する取材の現場を離れることがほぼ確実でした。つまり、毎日の紙面製作に携わるか(次長)、過去の経験を生かしてニュースの解説などを書く立場(編集委員)になるわけです。

 僕は証券部に7年、その後、経済部に9年在籍していたので、順当なら経済部で昇格したのでしょうが、古巣の証券部に戻って次長になりました。

 「書かずの大塚」でしたから、編集委員でなく次長を希望していました。次長はローテンション職場で、記事を書くというオブリゲーションなしに、これまで通り旧知の取材相手と懇談したり、会食したりできると考えたからです。いずれにせよ、1991年3月から証券部次長として、企業財務やマーケット情報を載せる紙面の製作の仕事をしていました。

 初公判のあった1991年12月19日、僕は、企業業績、増資や社債の発行などの財務戦略の情報を載せる紙面の担当で、原則的に午後2時頃から翌日の午前2時頃までデスク席に座っていることになっている仕事の当番でした。

 証券部デスクのメインの仕事でしたが、実際は夕方から席に座っていればよく、午後3時頃までは旧知の取材相手と会ったりしていました。原稿が出てくるのは午後6時以降でしたから、それまでは席外しも可能でした。

 初公判は午前中に始まっていましたが、午前中は被告3人の罪状認否でした。検察の冒頭陳述は午後の公判で行われ、その中身は夕刊には載っていませんでした。デスク席に座って、2時間ほど経った午後5時過ぎです。東京の編集局内に「検察が冒頭陳述で小早川被告が日経社内の協力者に1000万円を渡したと明かした」の情報が流れ、僕の耳にも入りました。

 イトマン事件は自分が口火を切った案件ですから、手を引いた後の1年あまりも関連情報には他のデスクや記者よりも目配りしていたので、状況はある程度わかっていました。でも、この段階ではどんな中身なのかよくわからず、それほど気にも留めませんでした。

■最初に頭に浮かんだのは防弾チョッキ

 午後6時から朝刊の編集会議があり、その後、僕のところにも冒頭陳述の関連部分のコピーが回ってきました。紙面に載せる原稿を見るのは午後7時過ぎからなので、コピーを斜め読みしたのです。

 そこには、被告たちがマスコミ対策としてどんなことをやったのか説明しており、第1報の5月24日の朝刊記事、第2報の9月16日朝刊の記事を取り上げて、「日経新聞社内の協力者にイトマンに関する記事の執筆者、ニュースソースを探るように依頼し、10月9日頃、右協力者に対して、報酬として……現金1000万円を支払った」と書かれていました。

 それで、自分自身が「標的」だとわかったんですが、最初に頭に浮かんだのが防弾チョッキでした。

 約1年半前に國重さんが防弾チョッキを着て打ち合わせにやってきて、僕にも買わないかと勧められました。僕は、そこまでしなくてもいいだろうと思って断ったわけですが、その認識は甘かったと痛感したんです。そして、自分が日本を不在にする時期を選んで載せる作戦は正解だったとも思いました。

 冒頭陳述が取り上げたイトマンのマスコミ対策には、日経だけでなく、金を使って『週刊新潮』に特集記事(1990年10月4日発売の10月11日号「『住友銀行』『伊藤萬』心中未遂の後始末」)の掲載を見送らせようとしたり、経済誌『経済界』の佐藤正忠主幹に2億円出して、7月から8月に2回、河村社長の提灯記事(「企画管理本部の新設は河村・イトマンの起爆剤となるか」と「伊藤寿永光、雅叙園観光問題で独占告白」)を載せたりしたことも書かれていました。

 僕の場合は、この2つのケースと違って、僕自身とそのニュースソースを調べることだけに金を使っているんです。次の一手も念頭にあった可能性も否定できないでしょう。でも、彼らが情報入手して金を払った時、僕は海外出張中だった。タイミングがよかったなと感じましたね。

 ――大塚さんはイトマン事件を振り返り、「自分の認識の甘さに忸怩たる思いが募るばかり」「心の奥底に悔恨が澱(おり)のように沈んでいる」と語っています。

 大塚:イトマンの乱脈経営を暴いたのはバブルに風穴を開けるのが目的でした。1991年に入ると、「環太平洋のリゾート王」と持てはやされた高橋治則氏率いる中堅不動産のイ・アイ・イ・インターナショナルの経営危機が表面化し、夏には東洋信用金庫を舞台に「北浜の天才相場師」と呼ばれた料亭「恵川」の経営者、尾上縫氏の架空預金証書事件が発覚しました。

 この他、不動産市場と株式市場で派手な投機を繰り返して名を馳せたバブル企業の経営も一気に悪化しました。首都圏ではイ・アイ・イのほか、麻布自動車、第一不動産、秀和、関西圏では末野興産などです。

 だから、1991年半ばくらいまでは自分の目論見が成功した証と受けて止めていました。しかし、1991年秋も深まる頃から、全国津々浦々でバブルに踊った連中が跋扈していたとわかり、それが自分の想定をはるかに超える規模になっていると感じるようになっていました。自分の不明を恥じる気持ちが芽生え始めていた、ちょうどそんな時、この「日経社内の協力者」の問題が起きたのです。

 しかし、当時日本の経済社会を正常化させるためには、ある程度の痛みがあっても当然だろうという認識も強く、株価と地価の下落に歯止めを掛けなければ大変なことになるとまでは思い至りませんでした。

■金融機関が含み損を抱えるのは時間の問題だった

 そうした思いを強く抱くようになったのは、1992年夏頃からです。証券部デスクとして、日々の株式相場の動向を見ていて、下げ止まる気配がまったくなく、ここまでくると金融機関の保有する有価証券の含み益が消えるどころか、含み損になるのは時間の問題だろうと思ったんです。

 しかも、1992年1月から地価税の課税が始まり、当分地価も下げ止まらないだろうと予想しました。そうなると、金融機関の不良債権は急増し、その穴埋めもままならない状況がやってくるのは間違いなく、背筋が寒くなりました。このままメディアが寄って集ってバブル潰しに喝采を浴びせ、株価と地価の下落が底なしに続けば、早晩金融恐慌に追い込まれる、と確信しました。

 そんな時です。8月末の自民党の軽井沢セミナーで宮澤喜一首相が「金融機関に公的資金を投入して不良債権を早期に処理する必要がある」と発言したんです。証券部のデスクですから、僕がこの発言の報道に関わることはなかったのですが、内心、「我が意を得たり」と思ったものです。

 しかし、この「金融機関への公的資金投入」構想は世論の猛反発にあい、すぐに撤回されてしまいました。案の定というか想定通りの結末でしたが、僕は、対外的にはもちろん日経社内でも沈黙していました。

 この頃僕は、もう余計なことをせず、証券部デスクの職務を続け、傍観者としてサラリーマン記者生活を終えればいいのだと思っていました。これまで、自分の手掛けた仕事にそれなりの達成感があったからです。

 しかし、それから半年後の1993年春のことです。僕は証券部から経済部に戻ることになったのです。デスクとしての証券部在籍は2年でした。金融機関の不良債権問題が喫緊の課題になるのが見えていましたから、その担当を僕にやらせようという魂胆だったんでしょう。

 打診を受けた時、少し迷いましたが、異動を了解しました。「経済部の体面のために仕事をするのは金輪際いやだ」という気持ちも強かったんですが、1つの誘惑に負けました。

■三菱銀行と東京銀行の合併をスクープしたかった

 記者生活20年間で、僕はスクープ記事を何本か書いていますが、すべて経営危機に陥った大企業の処理をめぐるニュースで、まあ、後ろ向きの案件でした。1つくらいは前向きのニュースもモノにして記者生活を終えたいな、という気持もくすぶり続けていました。

 僕の提案で動き出した三菱銀行と東京銀行の合併交渉は、途切れることなく続いていました。最後に、このネタでスクープしたかったんですね。でも、証券部にそのまま残っていたのではイトマン事件以上に手掛けるのが至難の業でした。

 予想した通り、経済部では、不良債権問題をはじめ金融機関をめぐる案件のすべてを取り仕切る責任者という立場になりました。最初の1年間は編集委員、あとの4年間は次長(デスク)という肩書でしたが、その立場は変わりませんでした。僕は、自らの担当する案件として三菱・東京の合併交渉をフォローし続けることができたのです。

 経済部に復帰した時点、つまり1993年春の段階でも、金融機関の〝旧悪〟には目をつむって救済しない限り、金融恐慌が起きるのは時間の問題だという僕の確信に変わりはありませんでした。いや、変わらないどころか、ますますその危機感は強くなっていました。

 僕は、日経新聞の紙面で、宮澤首相の撤回した「金融機関への公的資金投入」構想を早急に実行しなければ、日本経済は壊滅的な打撃を受ける、とキャンペーンを展開すべく動くことができる立場になったんです。でも、僕は動かなかった。いや、動けなかったんです。

 当時、自国に金融危機の兆候のなかった欧米諸国では、金融システム維持のための「大きすぎて潰せない(too-big-to-fail)」という考え方は否定され、「金融機関でも破綻すべきは破綻させる」ハードランディング路線が望ましいという考え方が主流になっていました。だから、欧米諸国は「金融機関への公的資金投入」構想を厳しく批判しました。

 日本の言論界は欧米の主張をオウム返しするのが常なので、「大きすぎて潰せない」という国内世論が醸成されるはずはありません。

 仮に、僕が日経新聞で「大きすぎて潰せない」と掲げて、救済の必要性を世論に訴えかけようとしても、担当を外されるだけでおしまいなのは見えていました。まさに歴史の必然だったのですが、僕には討ち死にする選択肢もあった。

 でも、僕は自分の「欲」のために日和ったんです。僕がやったことはといえば、自らへ責任追及を恐れて公的資金の受け入れをためらう大手金融機関のトップたちに、懇談の折に「受け入れない限り共倒れになる」などと説得したり、何度か時の銀行局長に「破綻処理でなく、救済すること、つまり銀行という会社は残すべき」と訴えたりしたくらいでした。

■バブル潰しの火を消そうと動かなかった

 そして、結末はどうだったか。僕は1995年に念願かなって三菱銀行と東京銀行の合併をスクープしましたが、1997年暮れ、三洋証券、山一証券の破綻を引き金に北海道拓殖銀行、日本長期信用銀行、日本債券信用銀行も破綻。日本経済は昭和恐慌に匹敵する金融恐慌に見舞われました。

 予想通りと言ってしまえば、それまでなんですが、僕はバブル潰しの火をつけた。火をつけたのは僕1人ではありません。

 でも、1992年夏には火を消さなければならいないとわかっていたのに、僕は自分の欲のために消そうと動かなかったという事実は消えないんです。だから、今もって、「心の奥底に悔恨が澱のように沈殿している」んです。

 この聞き語りをしている最中、新型コロナウィルスという妖怪が世界中を席巻することになりました。今、われわれは過去経験したことのない危機的・災厄的な状況の渦中にあります。

 このコロナ禍から、われわれは抜け出せるのか。五里霧中と言わざるを得ません。「老兵は死なず、ただ消え去るのみ」でよかった気もします。

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最終更新:1/20(水) 11:46

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