プロデビューと同時期に急性白血病と診断されたアルビレックス新潟所属のJリーガー・早川史哉選手。早川選手の著書『そして歩き出す サッカーと白血病と僕の日常』では、3年7カ月を経て公式戦に戻ってきた1人の人間の、ありのままがつづられています。
本稿では、前回、前々回に引き続き、同書から一部を抜粋しお届けします。
■背中を押された言葉
検査の結果、両親のかすかな望みもかなわず、急性白血病だと正式に診断が下されて、5月30日からは本格的な治療が幕を開けることになった。
これを受けて、両親と姉、弟の家族全員が見舞いに来てくれた。そして、今後について僕は家族と話し合った。
おもに僕と両親での会話が多く、その横で弟は、椅子に座りながら、いつものように黙って携帯電話をいじっていた。
当時、中学2年生の弟は思春期のまっただなかで、仲が悪かったわけではないが、どこか僕に対してよそよそしさがあった。
だが、両親との話の内容が僕の今後のことについて及んだとき、弟は携帯電話をいじりながらも聞き耳を立てているように見えた。
「俺、サッカー選手を続けていいかどうか、正直迷っているんだ」
僕がこのとき抱いていた本音を両親にぶつけたときだった。母が「もちろん史哉の気持ちが大事だし、今は治療に専念したほうがいいよ」と答えると、弟が口を開いた。
「俺は……サッカーをしている姿をもう一度見てみたいな」
驚いた。弟は誰に話しかけるでもなく、ボソッとそうつぶやいたのだった。そのあとは変わらない表情で携帯電話をいじり続けていた。
この言葉は僕の心に響いた。普段あまり会話をしない弟が僕にぶつけてくれた本音だと思った。弟は僕の後を追うようにサッカーをしていた。プレーもそうだが、Jリーグや日本代表、海外サッカーがものすごく好きで、アルビレックスの試合もよく観に行っていたし、当然、僕がプロとしてプレーしている姿を観に来てくれていた。
言葉は交わさずとも、僕を兄として、サッカー選手として尊敬してくれていることは十分に伝わっていた。だからこそ、彼の一言は僕のなかにものすごく刺さった。
「俺はもう一度頑張らないといけないな」
このとき、僕は弟から大きな勇気をもらった。
入院して数日後に神田勝夫・強化部長から「今後のことについて話がしたいから、お見舞いも含めて病室に行きます」と電話を受けた。
「いよいよこのときが来たか……」
電話を切ったあと、この病気になったことで、クラブとの契約が終わってしまうのではないかという不安が、一気に僕を包んだ。
正直、病状が出て、正式に白血病と決まってからも、プロサッカー選手としての契約の問題は非常にナーバスなもので、自分も目を背けていた部分があった。
当然、何かしらの決断を下さないといけない。僕はプロサッカー選手であることが終わることも覚悟しながら、神田さんが到着するのを待った。
■一生忘れない言葉
面会当日。僕は朝から落ち着かなかった。どんな結論も受け止めるつもりでいたが、不安ばかりがどんどん膨れ上がっていった。
「早川さーん、面会です」
看護師さんがこう言いながら部屋に入ってきた。僕の緊張はピークに達した。
神田さんが僕の前に座り、僕も椅子に座って向き合った。そして、神田さんの口から出てきたのは、一生忘れないであろう言葉だった。
「史哉がどう思っているかわからないけど、史哉に現役を続ける意志があるのであれば、クラブとして、復帰までしっかりとサポートしたいと思っている」
うれしくて、気がついたら涙がこぼれていた。
「まだ自分をアルビレックスの選手として居させてくれる。まだ、サッカーができるチャンスがあるんだ……。プロサッカー選手としてまだやれるんだ……」
張り詰めていた空気が切れた。希望は消えていなかった。僕の心にさらなる勇気が湧き上がった。
神田さんとの面談のあと、高校時代の恩師であり、アルビレックス新潟のトップチームのコーチの片渕浩一郎さんから電話が入った。
「史哉、一緒にご飯でも食べに行かないか」
片渕さんはいつも僕のことを考えてくれた。僕の気持ちを推し量ったかのように、話がしたいタイミングで声をかけてくれる。
「はい、ぜひ行きたいです」
そう答えると、翌日、僕は病院に外出届を出した。治療に挑む覚悟は決めていたが、いざ治療が始まれば、落ち着くまではしばらく外にも出られないと思うと、急に寂しい気持ちが襲ってきた。最後に少しでもいいから外出をしたい。その気持ちを病院側も汲んでくれた。
外出当日、片渕さんだけでなく、中学時代からお世話になってきた若杉透さんも加わって、3人で出かけることになった。
僕にとっては、昔からお世話になり、僕のサッカー人生に大きな影響を与えた2人。「何が食べたい?」と2人に聞かれ、「もう生ものが食べられなくなるかもしれないので、お寿司が食べたいです」とリクエストした。
若杉さんの家の近くにあるお寿司屋さんで、お寿司を食べながらいろいろな会話を交わした。サッカーの話から昔話、何気ない会話に本当に心が落ち着いた。
「明日から俺、頑張りますよ。絶対に治して、もう一度ピッチに立ちます」
若杉さんとはそう言って別れると、片渕さんが僕を病院まで送ってくれた。この車内で僕は片渕さんとずっと話をしていた。
■覚悟しても「頑張る」と言っても…
どんな内容だったかは、すべては覚えていない。でも、はっきりと言えるのは、「沈黙するのが怖かった」ということだ。会話が途切れると、車内が静かになる。その瞬間に僕はこれからのことを考えてしまい、心が締めつけられた。覚悟は決まったはずなのに、「頑張る」って言っているのに、ふとした瞬間に心をもっていかれてしまう、弱い自分がそこにいた。
病院が近づくにつれ、お互い言葉が少なくなっていった。あれほど恐れていた静まり返った車内。僕は病院に戻りたくない気持ちで言葉が出てこなくなっていた。一方、片渕さんもそんな僕にかける言葉が見つからないように感じた。
静かな車内から病院が見えてきた。病院のロータリーに着いたとき、正直、車から降りるのが嫌だった。
「またここから自由がなくなっていくのか……」
でも、ずっとここにいるわけにはいかない。重い足取りを必死で前に出す感じで、僕は車から降りた。
「今日は本当にありがとうございました」
片渕さんと握手を交わして見送ってから、僕はふと夜空を見上げた。
いつもと変わらない空なのに、何かもの寂しさを感じた。
「明日から俺は、こうして外で夜空を見上げることもできなくなるんだな……」
自然と涙があふれてきた。僕は涙を拭って、病室に戻った──。
5月20日、再び片渕さんが僕の病室にお見舞いに来てくれた。
「史哉、実はもう1人連れてきているんだ」
片渕さんがそう言うと、
「史哉、久しぶりだな!」
と言って突然、酒井高徳くんが入ってきた。
「え、ご、高徳くん!?」
僕は固まった。高徳くんはドイツのブンデスリーガのハンブルガーSVに所属し、2014年のブラジルワールドカップのメンバーに入るなど、バリバリの現役日本代表選手で、僕と同じアルビレックス新潟ユース出身の偉大な先輩だ。
3歳差のため、ユース時代は入れ替わりだが、高校2年生でトップチームの練習に参加したときにいちばん僕を気にかけて、かわいがってくれた尊敬する人物でもある。
そんな高徳くんが自分の病室にいる。それが信じられなかった。
「これからがつらいときかもしれないけど、史哉は1人じゃないぞ。つらいときこそ、本当に自分が試されるし、そのときに史哉は必ず気づく。今まで出会ってきた人たちが本当に素晴らしい仲間であることを。つらいとき、いつでも俺に連絡してこいよ」
この高徳くんの言葉は、僕の心の奥に届いた。そして、すでに僕は素晴らしい仲間に囲まれていることを再認識できた瞬間だった。
「俺は1人じゃない」
そう思い、僕は治療に臨んでいった。
■抗がん剤治療がスタート
2016年5月30日。ついに抗がん剤治療がスタートした。
僕は覚悟を決めていた。長い闘いがいよいよスタートする。今、弱音を吐いてしまっていたら、この先の長い闘いを生き抜くことができない。
込み上げてくる不安を強制的に押し戻すように、僕は毅然と向き合うことを決めた。
最初の投与は、抗がん剤を脊髄腔(せきずいくう)に注入する治療。脳骨髄液を採取したあと、針を抜かないでそこから直接抗がん剤を注入する髄注だったが、これが本当に恐怖だった。
正直、僕は注射針が嫌いで、普通の注射でさえ昔からあまり好きではなかった。それなのにベッドに横向きに寝て背中を丸めながら、腰のあたりに麻酔の針を刺す。これだけで冷や汗が出た。骨髄穿刺と同じような苦痛。抗がん剤が入っていくのがわかった。どんどん下半身のあたりがズンズンと重くなる。
骨髄穿刺と髄注。これから先、この2つがものすごいストレスになった。
点滴での抗がん剤投与も始まった。
投入後は白血球、赤血球、血小板などすべての数値が一度落ちるのだが、その時期は身体的にかなりしんどい状態になる。
全身がだるくなり、味覚障害に陥り、かつ唾液があまり出なくなり、口のなかがパサパサな状態になってしまう。便意も下痢っぽくなったかと思えば、急に便秘になったりと、あらゆる症状が自分の体に生じ、無気力感に支配される。
そこから徐々に数値が上がってくるため、徐々にゆっくり立ち上がるように回復していく。しかし、抗がん剤治療から数日後に、少しずつ血球の数値が下がっていき、どうしても体がだるかったり、食欲が湧いてこなくなったりする。
この繰り返しはどんどん自分の負担になっていった。それでも食事はできる限り食べて、少しでも体力を維持しようと努めた。
「もう一度、サッカー選手としてピッチに戻るんだ……」
この思いが崩れ落ちそうになる自分の気持ちを必死で持ちこたえさせてくれた。それでも、回数を重ねていくごとに「まだやるのか」という気持ちが込み上げてくる。
■募る罪悪感
そんな治療で苦しむなかで、僕には何よりも気がかりなことがあった。それは、僕の病気のことを、身内と一部のクラブ関係者にしか伝えていなかったことだ。
病室でネットを見ることが日課になっていた僕は、「練習場に史哉がいない」「5月以降、史哉の姿を見ていない」という書き込みをよく目にした。
そのなかには、ずっと僕のことを応援してくれてきたファンのかたもいて、自分にとっても大事な人たちの「どうしていないの?」「史哉に何かあったんじゃないか?」という言葉に、ものすごく申し訳ない気持ちを抱いていた。
診断は出ているが、クラブがそれを正式発表するまでは誰にも言えない。ファン、サポーターはもちろん、アルビレックスのチームメイトや仲のいい選手、友人にすらも言えない状態だった。
クラブにも「早川選手は体調不良により、安静にしています」とだけアナウンスをしてもらっていて、何か自分が周りにウソをついているようで、罪悪感に苛(さいな)まれた。
FIFA U-17ワールドカップ メキシコ大会のチームメイトだった、南野拓実や岩波拓也からも心配のメールを受けたが、真実を伝えることができなかった。友達からも「最近、メンバーに入っていないけど、どうしたの?」と連絡がきたが、「ちょっと調子を落としていてさ」と答えは同じで、罪悪感だけが募っていった。
そのため、アルビレックス新潟として僕の白血病を公式リリースするのかしないのか、するとしたらどのタイミングでするのかを話し合った。
比較的調子がよかった日に、広報室長の栗原康祐さんと話し合った。そのとき、栗原さんは「自分の決定も大事だけど、それだけでなく、家族ともしっかり話し合ったほうがいい」とあくまで僕側の意向を尊重してくれた。
これを受けて、僕は両親と公式リリースについて話し合った。当初、母は「公表しなくていいんじゃないか」と否定的だった。恐らく病気を公表して話題になることで、さらにつらい思いをするのではないかと、僕を守ろうとしてくれたのだと思う。
もちろん、僕も公表することで、僕自身は病室で守られているから大丈夫だが、普通に生活をしている家族は、周りからの目など負担があるのではないかと考えたりもした。でも、栗原さんはこう話してくれた。
「公表することでクラブとして公にバックアップできるようになる」
それも重要なことだと理解していた。
■人を励ます存在になりたい
このとき、僕はふと塚本泰史さんの存在を思い出した。塚本さんといえば、大宮アルディージャのレギュラーだったにもかかわらず、2010年2月に右大腿骨骨肉腫が発覚した選手だ。
現役復帰はかなわなかったものの、今ではアルディージャのアンバサダーを務め、2012年には東京マラソンを完走するなど、僕の先を力強く歩いている人だ。彼のことをすぐにネットで調べると、塚本さんが発する言葉や姿勢に大きな衝撃を受けた。
塚本さんはプロサッカー選手という立場を病魔によって奪われたにもかかわらず、ずっとサッカーに携わり、大宮アルディージャというクラブを支えながら、子どもたちにサッカーの楽しさを伝えるという活動をしている。
「なんて強い人なんだ……」
塚本さんはプロ復帰に向けて全力を尽くしていたし、サッカーを愛して、いろんなチャレンジをしながら、今を生きている。その姿に多くの人たちが感動し、励みにしている。現に僕自身が塚本さんの存在を励みにしようとしている。
僕もそういう人を励ます存在になりたい。そうなるためには、この病気と闘っていくしかない。
「母さん、俺、世間に公表するよ。そうすることで自分が病気と闘う姿を見せて、塚本さんのように人を励ます存在になりたいんだ」
僕の真剣な表情に母も覚悟を決めてくれた。
「わかったわ、史哉。母さんたちも一緒に闘うね」
その翌日、僕は早速プレスリリース用の文章を考えた。文章を書くことは昔から苦手ではないし、何より自分の覚悟を自分の言葉で綴ることに意義があると思った。じっくりと考えながら、書き直しを重ねるなかで、「華やかじゃないけど、地道にコツコツと」という部分は、自分の今までの人生やサッカー人生を振り返ったときに自然と出てきた言葉だった。
僕のサッカー人生は、決して華やかではない。でも、その節目、節目で真剣に自分の将来を考えて、自分で選択をして歩んできた人生だった。
華やかじゃないけど、地道にコツコツと──。
東洋経済オンライン
最終更新:1/20(水) 19:31
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