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渋沢栄一を凄い読書家にした常識覆す師の教え

1/17 6:31 配信

東洋経済オンライン

今、注目を集める渋沢栄一とは何者なのか。連載第1回となる前回(500社育てた渋沢栄一、商才は10代から凄かった)では、渋沢が早くから商才を見せていたことを、幼少期のエピソードを交えて紹介した。しかし、優れた資質は、人生で掲げた大目標を叶えるためのパーツにすぎない。どんな人生哲学を持ち、自分の生涯で何を実現させるのか。それを突き詰めるには、人との出会いが何より重要となる。

多感な青年期において、渋沢は、その後の人生を決定づけるような、キーパーソンとの出会いを果たした。それは大きな喜びや生きがいをもたらすと同時に、渋沢の人生を大きく揺さぶることになる。短期連載第2回となる今回は、渋沢に影響を与えたキーパーソンと、その出会いによる逸話を紹介する。

■従兄弟の尾高惇忠の一線を画す指導

 渋沢が読書に夢中になりすぎて、両親からたしなめられたことは前回書いたが、それだけ本にのめり込んだのには理由がある。幼き渋沢に「本の読み方」を伝授した男がいたのだ。

 男の名は、尾高惇忠(おだか・じゅんちゅう)。皆からは「新五郎」と呼ばれていた。惇忠の母・やへは渋沢の父、渋沢元助の姉にあたる。つまり、渋沢と惇忠は従兄弟だった。もともと、渋沢は漢文の読み方を父から教わっていたが、あるときにこう言われた。

 「今後、読書の修業は私が教えるよりは、手計(てばか)村へいって尾高に習う方がよいだろう」

 学問に優れた惇忠は自宅で塾を開いており、地元では、立派な先生という扱いを受けていた。手計村は、渋沢の自宅から数百メートル隔てた場所にある。以来、渋沢は毎朝、10歳年上の従兄弟、惇忠と一緒に3~4時間、書物を読むことになった。

 惇忠の教育法は、従来よく行われていた漢文読解の指導とは、一線を画していた。

 「漢文を丁寧に読ませて、暗唱できるまで繰り返す」。それがスタンダートな指導法だったが、惇忠は違う。本人が面白いと思う本を自由に読ませるようにしていたのである。

 その理由について、惇忠は渋沢にこう説明している。

 「読書の読解力をつけるには読みやすいものから入るのが一番よい。どうせ四書五経を丁寧に読んで腹にいれても、本当に自分のものとなって役に立つようになるのは、だんだん年を取って社会でさまざまなことを経験してからだ」

 そういわれた渋沢は『通俗三国志』や『里見八犬伝』など、いわゆる低俗小説から読み始めた。すると、読書を重ねるうちに、自然と読解力が磨かれていくことに気づく。

 また「読書とは必ずしも机の上でかしこまって読むだけでない」というのも、惇忠の持論であり、「とにかく自分の気が向いたときに読むのがいちばん」と子供たちに教えていた。

 渋沢が歩きながら読書をしてドブにはまったのは、この頃の話である。惇忠の言うことを、素直に実践したからこその大失敗だった。

 18歳になると、渋沢は惇忠の妹、千代と結婚を果たす。渋沢にとって惇忠は、まさにメンターともいうべき存在だったといえるだろう。そしてもう一人、渋沢に影響を与えた男がいた。惇忠の弟、長七郎である。

■渋沢の心をとらえた長七郎の憂国の思想

 渋沢にとって長七郎はわずか2歳年上にすぎなかったが、ずいぶんと大人びて見えたことだろう。大柄で腕力もあった長七郎は、剣術にも優れていた。だが、渋沢の心をとらえたのは、長七郎の腕っぷしの強さではなく、憂国の思想だった。

 長七郎はたびたび江戸に出て、友人の書生を連れて帰ってきた。そのときは必ずといっていいほど、国家の行く末についての議論になった。何しろ、時は激動の幕末である。アメリカから黒船が来航し、開国を迫られると社会情勢は一変した。

 開国か、攘夷か――。渋沢のメンターである惇忠が水戸学を信奉し、尊王攘夷思想に傾倒していたため、渋沢もおのずと攘夷思想に染まっていく。しかし、肝心なのはいつでも実践である。江戸帰りの長七郎が熱く議論すればするほど、22歳の渋沢は焦りが募った。

 「このまま田舎で百姓などしていられない。どうか自分も江戸へ出たい」

 反対する父を説得し、渋沢は2カ月にわたって江戸に滞在。海保塾で漢学、千葉道場で剣術を学んだが、本来の目的は別のところにあった。

 「読書や剣術などを修業する人のなかには自然とすぐれた人物がいるものだから、そのなかから抜群な人々を選んで最終的には自分の友達としたかったのだ」

 江戸で情報を見聞きし、海外の脅威にさらされている現実を知れば知るほど、渋沢は「この日本を何とかしなければならない」という思いを強くした。そのための同志を探すため、江戸でのネットワークづくりに渋沢は励んだのだった。

 江戸から戻った渋沢は「どのようにして異国を打ち払って日本を危機から救うか」に心を砕いた。なにしろ幕府はあてにならない。思い出すのは、かつて代官から受けた屈辱的な仕打ちである。

 腐り切った徳川幕府の目を覚まさせなければならない。渋沢はそう思い詰めた。

 「ここは一つ派手に血祭りとなって世間に騒動をおこす踏み台となろう」

 とはいえ、人数を増やしすぎると、攘夷の計画が漏れてしまう。長七郎は攘夷にかかわっていると疑われ、逮捕の恐れがあり、京へと逃れていた。

 そのため、計画は3人のみで立案された。渋沢と尾高惇忠、そして、もう一人の従兄、渋沢成一郎である。その計画とは、高崎城を襲撃し、横浜を焼き撃ちにするというものだった。

■「一足飛びに志を達しようとする」計画

 計画に携わった渋沢成一郎のことを説明する必要があるだろう。幼名を「喜作」といい、従弟にあたる渋沢とは幼少期から時をともにした。渋沢は2歳年上の喜作のことをこう評している。

 「私は何事にも一歩一歩着々進んで行かう(行こう)とする方であるに反し、喜作は一足飛びに志を達しようとする投機的気分があつた」

 3人が立てた計画は、まさにそんな「一足飛びに志を達しようとする」ものだった。何しろ、横浜を焼き討ちにして、外国人を片っ端から斬殺するというのだ。それだけではない。襲撃の前に、高崎城を乗っ取って兵を整えて、横浜への進軍も考えていた。

 あまりに無謀な計画だが、純粋さは時に、信じられない暴走を引き起こす。3人の頭には「この日本を救わなければならない」という使命感しかなかった。後年、渋沢が500社あまりの経営に携われたのは、あふれんばかりのバイタリティがあったからだが、このときばかりはそれが裏目に出たといえよう。

 こんなずさんな計画にもかかわらず、血気盛んな渋沢は、実現にあたっての障害はただ一つだと考えていた。それは、父である。

 父に理解してもらおうとは思わなかったが、このまま計画を実行しては、家族に迷惑がかかる。自分の思いをぶつけて、勘当してもらう、つまり、親子の縁を切ってもらおうと渋沢は考えた。

 父も最近の様子から不穏な雰囲気を感じ取っていたらしい。渋沢が「天下が乱れる日には農民だからといってのんびり家にはいられない」と切り出すと、父は話をさえぎった。

 「それはお前が自分の役割をこえて、いわば望むべきではないものを望んでいるのではないか」

 世の中を論じるのは構わない。だが、農民には農民の役割があり、それをまっとうするべきではないか――。父がそう反論すると、渋沢も負けてはいない。

 「もし日本の国がこのまま沈むような場合でも、『自分は農民だから少しも関係ない』といって傍観していられるのでしょうか」

■「おのおの好きな道に従うのが潔い」

 親子の議論は続く。父も必死だったに違いない。もちろん計画のことは、知る由もなかったが、親には聞かなくてもわかることがある。息子は何かをとんでもないことを、しでかそうとしている。

 一方で、息子ももう23歳である。親から離れて、自分の人生を生きるべきだとも思う。葛藤のなか、父はこう言った。

 「お前はもはや種類の違う人間だから、相談相手にはならない。このうえは父と子でおのおの、その好きな道に従っていくのがむしろ潔いというものだ」

 血を吐くような思いだったことだろう。父は渋沢を勘当した。そして、渋沢は、国家転覆のためのクーデターを実行することになった。

 (文中敬称略、第3回に続く)

 【参考文献】
 渋沢栄一 、守屋 淳『現代語訳 論語と算盤』(ちくま新書)
 渋沢栄一『青淵論叢 道徳経済合一説』 (講談社学術文庫)
 幸田露伴『渋沢栄一伝』(岩波文庫)
 木村昌人『渋沢栄一 ――日本のインフラを創った民間経済の巨人』 (ちくま新書)

 橘木俊詔『渋沢栄一』 (平凡社新書)
 岩井善弘、齊藤聡『先人たちに学ぶマネジメント』(ミネルヴァ書房)

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最終更新:1/20(水) 17:56

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