これまでにないジャンルに根を張って、長年自営で生活している人や組織を経営している人がいる。「会社員ではない」彼ら彼女らはどのように生計を立てているのか。自分で敷いたレールの上にあるマネタイズ方法が知りたい。特殊分野で自営を続けるライター・村田らむが神髄を紡ぐ連載の第88回。
■海外や新大久保で暮らし外国人の事情に詳しい
室橋裕和さん(46歳)はタイをはじめとするアジアの国々や、日本国内に暮らす外国人の事情に非常に詳しいフリーライターだ。
昨年9月に上梓した『ルポ新大久保 移民最前線都市を歩く』(辰巳出版)では、しばしばコリアンタウンとして話題になる新大久保を取り上げている。
資料を当たって得た知識だけではなく、実際に新大久保に住み、街に住むさまざまな国の外国人たちとコミュニケーションを取ったうえで執筆された丁寧で濃密なルポだ。
2019年12月に出版された『バンコクドリーム 「Gダイアリー」編集部青春記』(イースト・プレス)は、タイ・バンコクに10年滞在していた時代を振り返った1冊だ。
海外で生活をしていた人でなければ絶対に書けない、非常に濃い内容になっている。
室橋さんは、どのような人生をたどって、このような本を出版するに至ったのだろうか? 室橋さんが現在住んでいる、新大久保の喫茶店で話を聞いた。
室橋さんは、埼玉県入間市に産まれた。両親は共働きで町工場を営業していたという。
「両親は貧乏暇なしで、ずっと忙しそうに働いていました。僕は小さい頃から1人遊びが好きで、ずっと1人で近所を散歩していました」
小学校に入る前の子供が、適当に路地を歩き回ったら当然道に迷う。普通、子供は迷子になると不安で泣き出してしまうが、室橋さんは逆に「迷っている」ことを楽しんでいたという。
「その体験が旅の原体験だと思います。
直接的には小中学校のときに放送していた、『アメリカ横断ウルトラクイズ』『世界まるごとHOWマッチ』などの海外取材をメインにしたテレビ番組の影響が大きかったですね。
決定的だったのは沢木耕太郎さんの『深夜特急』(新潮社)を読んだことです」
『深夜特急』はインドのデリーからイギリスのロンドンまで、主人公が波乱万丈の旅をする小説だ。小説ではあるものの、筆者自身の体験に強く基づいている。
「僕と同年代の友達には『深夜特急』のおかげでバックパッカーになり、人生が狂ってしまったという人がたくさんいます(笑)」
室橋さんは学校の成績もよく、東京の大学に進学した。
「ただただ旅がしたくて、大学へ入りました。1~2カ月間バックパッカー旅行をするとか、学生でなければ無理だと思ってましたから」
大学に入るとすぐにアルバイトをはじめ、お金がたまると中国へ旅立った。そして続けざまにインド、中近東へ旅立った。
「完全にハマっていて、旅とアルバイトを繰り返す日々でした。そのときの不安は、就職することでした。
『就職しちゃったら、旅に出られなくなる!! どうしよう!!』
と悩んでいました」
その頃は、バブル経済がはじけた就職氷河期だった。たとえきちんと就職活動をしても、就職できない人がたくさんいた。
「親が『頼むから就職してください』って泣きながらリクルートスーツを買ってくれました。1~2社交通費が出る会社だけ行きましたけど、結局面接すら受けませんでした。
とにかく当時は、
『就職なんかどうでもいい!! 人生がどうなろうと知るか!! それよりなにより旅がしたいんだ!!』
と思っていました」
室橋さんは就職難を逆に好機だととらえた。
「就職難だから、就職はしたいのだけど仕事が見つからない」
と親に言い訳をして、そのまま旅に行くことにした。
「卒業後は就職せずにフリーターをしながらスリランカ、インド、東南アジアを旅しました」
室橋さんの当時の友達は、学校やアルバイトで知り合った人よりも、旅先で出会った人のほうが多かった。
エジプトで知り合った1つ年上の友人と、日本へ帰国した後もよく遊んでいた。友人は真面目に就職活動をして、とある編集プロダクションに入社した。その編集プロダクションは、旅行モノの本をたくさん制作している会社だった。
ちょうど世の中は『進め! 電波少年』の猿岩石の企画『ユーラシア大陸横断ヒッチハイク』が大ブームになっていた。番組をきっかけにバックパッカーブームが起きていた。
■バックパッカーの本をほぼ1人で書いて出版
友人の会社でも
「バックパッカーの本を作ろう」
ということになった。
「それで僕に話がきました。僕もルポを書きたいという気持ちはずっとありました。面白そうだし、チャンスかもしれないし、話に乗ってみることにしました」
室橋さんは非常に真面目に企画を練った。
企画趣旨を考え、ターゲットなどを絞り、台割(本の設計図)まで自分で切った。その結果めでたく企画は通り、なんとほぼ室橋さん1人で本を書くことになった。
そして数カ月後、『バックパッカーズ読本』(双葉社)は発売された。
「この本が実質的なデビュー作になりました。これが非常に売れました。発売されてすぐに重版がかかりました。発売から20年以上経ちますが、リニューアルを重ねていまだに売れています」
そこからはフリーライターとして仕事が舞い込んできた。
今までの海外での経験をアウトプットしたり、新たに取材旅行をしてムックや単行本の制作をしたりした。短期間に4~5冊の単行本を作った。
「旅関連の仕事ができたのはうれしかったですが『これでは食っていけないな』というのが正直な気持ちでした。平均すると、月20万円も稼げていなかったですね。
例えば『インドに取材に行ってきて』と編集部から言われて、7万円が渡されたりしました。7万円では航空券代にしかなりません。今思えば非常に安い取材費なのですが、当時は『航空券出してくれるんだ!! あとから原稿料もくれるらしい!!』と無邪気に喜んでいました。
とにかく旅がしたいという気持ちだけで、金銭的な文句を言わない僕は、絶好の搾取対象だったと思います。
それにまだ若造ですから、人脈も経験もありません。企画を思いついても、持っていく先はあまりないですし、たとえ企画を出しても通りませんでした」
室橋さんは頼まれれば、旅関連以外の原稿も書いた。ある日、記事を寄稿していたアダルト系雑誌の編集長に、
「『週刊文春』に知り合いがいるから、会ってみるか?」
と言われた。
室橋さんとしては、どうせ相手にはしてもらえないだろうけど、企画の1つでも通ったらめっけもんだなと思い、会うことにした。
恐ろしく広い応接室で待っていると、グラビア班のデスクだという女性が現れた。
「こわそうな女性で、ビビりながら話してたんですけど、急に、
『あんた、うちにこない?』
って誘われました。びっくりしましたね。後から聞くと『28歳と若かったし、海外にバンバン行ってて体力もありあまってるみたいだから、きつい現場も耐えられるだろう』と思ったらしいです」
室橋さんには編集部に席が与えられ、週に1回の企画会議にも参加できることになった。基本給をもらえ、自分で記事を書いた場合は別途原稿料が支払われた。取材をする際の経費も、かなり自由に使うことができた。
「金銭面は非常によかったですね。ただ地獄のように忙しくて、お金を使うヒマは全然ありませんでした」
上司からは、
「NHKをつけっぱなしで寝て、ニュース速報が入ったらその音で起きられるようにしろ」
と指示された。そしていざ社会で動きがあったら、すぐに出動して取材した。
事件、事故、災害、芸能、グルメ……とさまざまな記事を書く、非常に忙しい日々だった。時には、社会に大きな影響を与えた有名な事件をすっぱ抜いたこともあった。
「取材対象の部屋の写真を隠し撮るときなんかは、部屋を狙える位置にある駐車場を借り上げちゃうんです。契約している人に電話して『お金出すから、貸してくれ』ってお願いするんですね。
そしてそこからは自動車の中にこもって、相棒と代わる代わる望遠鏡をのぞきながら1週間くらい張り込みをします。なかなかキツかったですね。
そして周りにいるジャーナリストは非常に優秀でした。そういう人たちと一緒に仕事ができるのはとてもうれしかったですが、同時につねにコンプレックスを感じていました。自分1人で事件記事をものにできないのが、もどかしかったです」
週刊文春の記者として2年間頑張ったが、耐えきれず辞めることにした。
「本当にきつくって、あらゆるものから逃げたくなっていました。記事を書くこと自体、嫌になっていました。いったん、ちょっと休まないと、身も心ももたないなと思いました」
■タイに渡ってタイ在住の記者に
ただ、週刊文春は名のある出版社である。異例の高待遇で入れてくれたのに、「疲れたから」という理由で辞めるのは気が引けた。
「何か言い訳が必要だなと思いました。それで僕は、
『タイに行って、タイ在住の記者になります』
と言って、辞めました」
そうして週刊文春の記者を辞した室橋さんは、本当にタイに移住することにした。
ただ、まったくの無計画でタイ行きを決めたわけではなかった。
「前々から人生で1度は海外に住んでみたいと思っていました。タイは何度も旅行している国で、狙いをつけていました」
タイは日本のテレビや新聞のアジア支局の一大拠点だった。日本人が非常に多く住み、現地の日本人コミュニティーも発展している。
現地の日本人向けに発行している、新聞、フリーペーパーなどもたくさんあった。旅行の際にできた、友人知人もたくさんいた。
「タイならライターとして食っていけるだろう、という目算がありました。辞めると言っても、編集部の人たちからはとくに何も言われませんでしたね。次から次に人が入っては辞めていく環境でしたから、1人辞めたからってかまってるヒマはなかったと思います。
ただ最後に編集部の人が、沢木耕太郎さんに会わせてくれました」
沢木耕太郎さんは、室橋さんが海外旅行にハマるきっかけになった人だ。素直にとてもうれしかった。
高そうなレストランに連れて行ってもらい、ワインをごちそうになった。冷えていたワインの瓶には水滴がついていた。
「沢木さんは水滴がついたワインのラベルをくるくるっとはがして、その裏にサインを書いてくれました。
『なんてきざな!! 女ならほれている!!』
と思いました。最高の思い出です。今でもそのときのサインは、もちろんちゃんと保存してあります」
沢木さんに
「タイに行くなら、頑張れよ!!」
と応援してもらい、30歳の室橋さんはタイへ出発した。
「お金はたまってましたし、とにかく疲れていたので、1年間は無職を満喫しました」
■住環境は東京よりもはるかによかった
最初はゲストハウスに泊まっていたが、すぐにアパートに引っ越した。
日本人なら、パスポートさえあれば簡単にアパートは借りられた。
「タイの家賃はピンきりですけど、僕が借りていたアパートは6000バーツ(約2万円)でした。駅から5分で50平米のワンルーム。カーテン、冷蔵庫、テレビなどの家具は全部備え付けで、お願いすれば掃除洗濯全部やってくれました。小さいですけどプールもついていました。住環境は東京よりも、はるかによかったですね」
南国の空気の中、1人暮らしを始めた。海外とはいえ、日本人は多いし、日本食のレストランも多く気楽だった。
無職ではあったが、タイ語の学校へ通い読み書きの勉強はしていた。
また、タイで事件があったときなどは、週刊文春から取材や記事執筆の依頼があった。
またタイの日本人向けに発行されていた雑誌『Gダイアリー』でも執筆していた。そのためまったくの無収入というわけではなかった。
「1年経ったら、無職にも飽きてきました。もともと貧乏性だし、お金がなくなるまで無職を満喫できるほど器が大きくなかったんですね(笑)」
室橋さんはある日『Gダイアリー』の編集部から、「1人辞めるのだが、誰か適任者はいないか?」と尋ねられた。室橋さんは、
「オレでどうですか?」
と提案してみると、あっさりOKだった。
「タイ国内でビザがうるさくなってきていたのも就職した理由のひとつでした。それまでは観光ビザとノービザを繰り返していたんです。ビザが切れそうになるといったんカンボジアに出国して、そしてまたタイに入国すると滞在許可がもらえました」
ただ、このやり方でタイに滞在する不良外国人が増えたため、規制されることになった。
室橋さんは『Gダイアリー』の会社に入ったので、労働許可証をもらい就業用のビザを取得し堂々とタイで暮らすことができるようになった。
『Gダイアリー』では、副編集長というポジションになった。ただ編集長と副編集長のみの2人体制の編集部だったこともあり、室橋さんも自らどんどん取材をして記事を作った。
「コンビを組んでいたカメラマンと2人で、タイ国内を駆けずり回って記事を書いていました。給料は6万バーツ(日本円で約18万円)と現地ではまずまずの金額でした。また週刊文春などで引き続き原稿を書いていたので、金銭的には問題ありませんでした」
室橋さんは、過去を思い出しながら、
「当時はどうなってもいいやと思っていた」
など自暴自棄ともとれる言葉を口にする。
ただそれとは裏腹に、話を聞いているとかなり慎重に計算して人生を渡っているという印象を受けた。
「ビビリなので、貯金は考えますね。いざとなっても助けてくれる、嫁も家族もいませんから。しっかりと計算しながら、サボるタイプですね(笑)。
『Gダイアリー』の仕事は非常に楽しかったです。やりたいことはほぼなんでもやらせてもらえたし、相棒のカメラマンがすごいいいヤツなんですよ。今でも大親友で、彼は今でもタイにいます。読者も『Gダイアリー』を愛してくれていて、やりがいを感じていました」
だが働いていくうちに、会社に対してわだかまりが生まれてきた。
あるとき、編集長と室橋さん、カメラマン、営業マンが、一斉に会社を辞めて、新しい会社を立ち上げた。
同時に『Gダイアリー』で書いていたライターや広告主も引き抜いた。
「いわばクーデターですね。名前だけを変えて新星『Gダイアリー』を作り直しました」
■東日本大震災とタイ大洪水が重なって…
室橋さんらが独立したのは2011年の3月だった。
独立してすぐに、東日本大震災が発生した。日本企業は大ダメージを受けたし、タイに行く人の人数も減った。不幸は重なって、その年にタイ国内で大洪水が起きた。
「日本もタイも混乱している中、新しい媒体を立ち上げるというのはかなり厳しかったですね。
それに『Gダイアリー』という名前は思ったよりも大きかったです。自分たちが作り上げた看板と対峙することになりました。『Gダイアリー』は引き続き発行していましたから、そちらを買う人も多かったです。本の内容では自分たちのほうが勝っているという自負はありましたが、それでも読者は増えず、広告も増えず、2年で休刊することになりました」
2013年末。室橋さんは39歳になっていた。
その頃には編集長も相棒のカメラマンも、タイ人の女性と結婚して家庭を持っていた。
「長年タイに住んでる日本人はタイ人と結婚する人が多いですね。タイで商売をするには、タイ人と結婚していたほうが断然便利です。僕は10年暮らしたけど、そういう縁はありませんでした。もう40歳だから多分今後もないだろうな、と思いました。それもあって『もうタイはいいかな?』と思いはじめました」
室橋さんはタイに住んでいる10年間で、日本に帰った回数はたった2回だったという。
「1回目は『Gダイアリー』に入るときで、書類が必要だったんです。2回目は取材で韓国の釜山に旅行に行ったんですが、時間が余ったんで対馬に遊びに行きました。その2回っきりですね。
タイは本当に居心地がよかったです。とても優しい国で、あっという間に時間が経ちます。心地いいのですが、ただこのままタイにいたら成長できないかもしれないとも思いました。今ならタイで培った経験もあるし、人とのつながりもあるし、
『書き手として、もう1度日本で勝負しようかな?』
と思い至りました」
室橋さんは7年前に日本に帰国した。
埼玉の実家に住み始めたが、実家から東京に出るにはかなり時間がかかった。
それでは効率が悪いため、出版社に打ち合わせに行ったり、飲み会に参加したりした後は、漫画喫茶やサウナに泊まった。また仕事用の机を無料で借りることができるサービスのある図書館で仕事をした。
『Gダイアリー』時代に知り合ったライターには、大手の出版社で仕事をしている人も多かったので、そのつてをたどって企画を持ち込んだ。
■日本は便利だが“怖い”と思うことも
室橋さんにとって10年ぶりの日本は、どのように感じただろうか?
「すごい新鮮でしたね。とにかく街は便利ですし、食べ物はおいしいですし、当たり前ですけどどこでも日本語が通じることにびっくりしました。役所の手続きとかしてて、なんて簡単なんだ!! って(笑)。
ただちょっと“怖い”と思うこともありました。電車の中やコンビニの中で、男性が怒鳴っているのを見かけることがありますよね? だいたいが老人です。店員や若者に向かって辛辣なことを吐き捨てたりしています。そういうのって、タイの暮らしの中ではほとんど見たことがありませんでした。日本に住んでいるときには気づきませんでしたが、日本にも怖いところがあるんだなと感じました」
取材の過程で外国人がたくさん暮らす街へ行く機会があった。足を運んでみると、室橋さんにとってはむしろ過ごしやすいと感じた。
「調べてみたら日本のあちこちにそういう場所がありました。日本国内のことを知らなすぎるという反省もあって、それからは日本国内の外国人コミュニティーを積極的に回るようにしました」
はじめは趣味で回っていたが、すぐに雑誌にルポを連載することになった。
そして2019年に『日本の異国: 在日外国人の知られざる日常』(晶文社)という、在日外国人の日々について迫った単行本を出版した。
「この本はメディアに取り上げられることが多く、僕も専門家のような扱われ方をしました。
それならば極めたほうが面白いだろうと思い、新大久保に引っ越しました」
新大久保は日本でも最大級の外国人コミュニティーを有する街だ。一般的にはコリアンタウンが有名だ。
韓流ブームもあって、若者にもとても人気が高い。現在は、原宿の竹下通りのような雰囲気になっている。
だが新大久保は韓国以外にも、さまざまな国々の人たちが生活している街だという。
「新大久保にはイスラム、ベトナム、ネパール、バングラデシュ、ウズベキスタン、パキスタン、ミャンマー、タイなどなど多国籍の人たちが住んでいます。これだけいろんな民族を飲み込んだ街はめったにないと思います」
室橋さんが、新大久保に住んだ感想はどのようなものだったのだろうか?
「正直、住みづらかったですね(笑)。観光地という側面もあるので、とにかく人が密集していて歩きづらいです。
日本人の観光客も多いですが、新大久保に住んでいない外国人も、新大久保を頻繁に訪れます。スパイスを買ったり、送金したり、自分の信仰する宗教の施設に行ったりとなにかと便利ですから、みんな遊びにくるんです」
■街に溶け込んだ取材により執筆したルポが評判に
室橋さんは、外国人客でにぎわう「新宿八百屋」で働く人たち、ルーテル教会の牧師さんなど数十人の外国人に話を聞いたり、4カ国合同の『大久保フェス』に参加したりするなど街に溶け込んだ取材をして『ルポ新大久保 移民最前線都市を歩く』(辰巳出版)を執筆した。
「ありがたいことに書籍の評判もよく、さまざまな媒体で取り上げていただきました。今は新大久保については書き尽くした、という気持ちになっています。
取材の過程でたくさんの人と話をして、ネパールやバングラデシュのコミュニティーの、少しだけですが一員にしてもらった感覚もあります。今や新大久保に対しわが町みたいな気持ちが芽生えており、離れがたくなっていますね」
室橋さんは、常日頃街を見続けているから、
例えば、
「ネパールのビザが厳しくなっているから、最近はネパール人が少なくなっているな」
など、街のちょっとした変化にも気づくことができる。
そんな室橋さんにとって現在いちばんの気がかりは、新大久保にも深刻な影を落としている新型コロナウイルスだ。
「現在はコロナで留学生が激減しています。新宿は4万人の外国人がいるといわれていますが、半分は留学生です。1年で2000人減っていて、これからもっともっと減りそうです。学校の経営も大変ですが、海外の学生を店員として雇っているコンビニや居酒屋も厳しいです。やっていけなくなるお店が出始めるかもしれません。
新型コロナは、全世界的な災害だから衰退する部分があるのは仕方がないです。ただ、
『新大久保からコロナが広がった』
という事態になったり、周りに非難されたりするようになるのは最悪です。だからいろいろな国の言葉で街の人たちに、
『コロナに気をつけよう!!』
と呼びかけています。しっかりと感染を抑えなければいけないですね」
話を聞いて、室橋さんは、ライターとしてとても誠実だと思った。現場にしっかりと根をおろして取材をする。取材当日だけ足を運んで、パッと話を聞いただけでは、とても手に入れることができない濃い情報を手に入れ、それを基に原稿を書いている。
誰にでもできることではない。
これからも、真に迫るルポルタージュを読ませてもらいたいと思った。
東洋経済オンライン
最終更新:1/17(日) 11:01
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