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NHK大河の主役、「渋沢栄一」が20代で発揮した人の心をつかむ技

1/14 6:31 配信

東洋経済オンライン

NHK大河&新一万円札の顔で「日本資本主義の父」と讃えられる渋沢栄一は、新選組の近藤勇や土方歳三と同じく農民の出であるのに、幕末の風雲に乗じて武士として活動した。
渋沢栄一の少年時代は、養蚕業を営む父親から英才教育を受けた。若くして儒教を理解し、物資の需要と供給もわかる算勘者(数字に強い者)に育っていた。
流行の尊王攘夷思想にかぶれて、開港地横浜へ徒党を組んで乗り込み、大規模な異人斬りをおこなおうと考えて、軍資金まで用意していたのが24歳の夏。この生涯最大の危機を幸運によって免れた栄一は、江戸に短期留学して剣と漢学を学ぶうちに、一橋家に採用された。同家の当主は、のちに15代将軍となる慶喜で、栄一はひょんなことから武士になりたいとの夢が叶ったのである……。

直木賞作家にして、歴史小説の第一人者・中村彰彦氏が上梓した『むさぼらなかった男――渋沢栄一「士魂商才」の人生秘録』から、第9話「農兵募集と人事掌握術」を再構成し、史上最強の経営者・渋沢栄一の〝青年時代の覚醒〟を紹介する。

 御徒士に進んで以来、「渋沢篤太夫」と武家風に改名していた渋沢栄一が、一橋家に馴染むにつれて奇妙に思ったのは、同家に兵力が欠けていることであった。

 一橋慶喜は弓馬刀槍の達人およそ百人に身辺を守られており、「御床几廻り(旗本)」と称していた。これはあるじの護衛であって、敵とわたり合える兵力ではなかった。

 ほかに御持小筒組という小銃配備の歩兵が2小隊あったが、こちらは幕府が付けてくれた部隊なので、慶喜の身に危険が迫った場合、どこまで身を挺して戦ってくれるか。はなはだ心もとない。一橋家の兵力は「禁裏御守衛総督兼摂海防禦指揮」という肩書の仰々しさに比して、やけに寒々としたものでしかなかった。

■二軍の戦力を、いかに向上させるか? 

 一橋家をふくむ「御三卿」は、徳川御三家をプロ野球やプロサッカーチームの一軍とすれば、二軍に似た存在にすぎない。「徳川の平和(パックス・トクガワーナ)」の進行する時代に立てられた家には、軍事力を期待されてはいなかった。

 これらのことを訝しく思った栄一は、一橋家用人の黒川嘉兵衛にむかって、「禁裏御守衛というからには、兵力がなくては有名無実ではありませんか」といってみた。

 黒川がいうには、幕府にはこれまで兵隊の借用料として月々1万5000両を差し出し、その兵隊たちには年に5000石をあてがってきた。これ以上、兵を借用することはできないし、金のやりくりができたとしても、兵には優劣があるから、ほかから優秀な兵を集めるのはむずかしい、とのこと。

 「しからば私に一工夫があります」と栄一は答えた。

 「御領内の農民を集めて歩兵を組立てたらずいぶん1000人ぐらいは出来ましょう、御話のように金の工夫が付くものなら、二大隊の兵はたちまち備えることが出来ます」(『雨夜譚』)

■上司・慶喜と会見し、理論的説明で信頼を得る

 戦国の世は兵農分離以前の時代だったので、農閑期に農民が鎧をまとって戦場におもむくことは当然とみなされていた。

 その兵農分離を推進した太閤秀吉以降も、農兵の伝統は各地に残り、土佐藩では「一領具足」、薩摩藩では「一日兵児」と呼ばれていた。

 「一領具足」とは、田の畔に具足と武器を置いておいて農事に励み、命令を受けるとすぐその具足をまとって出動する者たち、という意味。「一日兵児」とは、一日武者として働くと次の日は農事にいそしむ男たち、という意味合いである。

 幕末が近づいて、各地の農村にも不穏な空気がひろがるにつれ、伊豆の韮山代官所の江川太郎左衛門がひろく農兵制度を起こしたことはよく知られている。長州藩領でも高杉晋作が「奇兵隊」その他のいわゆる「長州諸隊」を編成し、「防長市民一同」として農民をこれに加えつつあった。

 栄一がこれら農兵の歴史をどこまで承知していたかは不明だが、自身が農民ながら庄屋のせがれで、農民たちをまとめる職務に通じていた。

 一橋慶喜に会見させてもらった渋沢栄一は、兵備を設けるには歩兵隊の編制が第一、それには領内から農民を集めるのが最善、適任の者を領地へ派遣して、募集の趣意をよく領民たちに会得させ、進んで応募するようにしなければなりません、その御用は是非私に、と理論的に陳弁して「歩兵取立御用掛」を申しつけられた。

 これが元治2年(1865)2月28日のことで、この掛は黒川が用人と兼務する「軍制御用掛」に付属していた。一橋家は、10万石の家格である。その領地は関東の2万3000石のほか、摂津国に1万5000石、和泉国に7、8000石、播磨国に2万石、備中国に3万2、3000石、と散らばっていた。前三者は大坂の川口の代官所が担当し、後者は備中後月郡井原村のそれが統括する。

 まず川口の代官所へおもむき、備中で募兵できればこちらは容易にできますといわれて、井原村に出かけたのが3月8日頃。

 須永という姓の者を下役として従えた栄一は、槍持ち、合羽籠持ちなどに供をさせて長棒引戸の乗物に乗っての旅だったと回想しているから、旗本並の格式であった。衣装はぶっさき羽織にたっつけ袴、陣笠か流行の韮山笠をかむっていたであろう。

■気安く物を言い合える、横並びの関係を築く

 井原村の代官と各村の庄屋たちに面談して村民の次男、三男のうち志ある者を召し出すように、と説諭すると、その者たちを呼び出して直接申しわたした方がよいのでは、という返事。それでは、と庄屋に付き添われてやってきた者たちに、農兵募集の趣意を言い聞かせると、思いがけない反応が返ってきた。

 「付添の荘屋がいずれ篤と申し諭しまして御奉公いたしますなら直ちに御請けに出ます、といってガラガラと戸を明けて出てゆくという有様で、毎日毎日この通りで多人数出ては来るけれども、一人として募りに応じて兵隊に出ようという者がいない」(『雨夜譚』)という事態となったのだ。

 なぜそうなるのか。すでに武家社会に馴染みはじめていた栄一は、農民とは領主層に対する面従腹背をためらわない者たちだ、という点を失念してしまっていた。

 栄一は、長棒引戸の乗物で旅する自分の姿を、にわか武士には不似合いと感じていた。しかしながら井原村の人々には、領主の命令を一方的に伝えにきた〈お偉いさん〉にすぎず、敬して遠ざけるにしかず、と思われていたのである。

 そこで栄一は手法を改め、領内の撃剣家と学者にどういう者がいるかと尋ねて、関根某という剣士と興譲館という学校で教授をしている漢学者・阪谷希八郎の名を知った。こう書けばもうおわかりだろう。

 栄一はかつて北辰一刀流玄武館の剣術仲間や海保塾の塾生から多くの同志を募りえたことを思い出し、上下ではなく横並びの気安く物を言いあえる人間関係を築いてから兵を募り直そうとしたのだ。

 阪谷とその弟子たちと、時事を談じたり宴会をひらいたりして、おもに開国論と再鎖国論の是非を論じると、阪谷は開国を主張して痛飲。関根某とは手合わせすると栄一が勝ってしまい、「この頃来て居る御役人は通常の俗吏ではない、学問といい剣術といいなかなかあっぱれの手際である」(同)と噂が立って、近在の村から文武に心得のある少年たちが毎日訪ねてくるようになった。

 その少年たちや興譲館の書生たちと、漁師が網で鯛を獲る「鯛網」を見物しにゆき、その鯛を料理してもらって酒を飲み、詩を吟じるうちに、井原村から2人、他の村から数人の奉公希望者があらわれた。

 ほかの数十カ村からは反応がないので、これは庄屋たちを背後から掣肘している者がいるな、と読んだ栄一は、庄屋たちを集めて決めつけるように告げた。

■庄屋たちを集めて、説得を試みる

 「乃公はこれまでの一橋の家来のように普通一般の食録を貪って無事を安んじて居る役人と思うと大きな間違いであるぞ。事と品によっては荘屋の10人や15人を斬り殺すぐらいの事は何とも思わぬ(略)、今この通り自分の赤心を打ち明けて話したから、各々にも包み隠さずにこれまでの機密を陳述したがよい」(『雨夜譚』)と談じると、とても包み隠しはできないと見て、庄屋たちが事情を打ち明けた。

 お代官がかねがね我々におっしゃるには、黒川嘉兵衛さまには山師根性があり、村々へ種々面倒な事を申しつけることがある。それに服従していると難儀なことになるから、なるたけ敬して遠ざけるのがよい、とのことでした。

 今度の歩兵取り立てについても、ひとりも志願する者はいないといえば、それで済むと思い、希望者は実は沢山ありましたが、ひとりも願い出ないと申したのです。

 しかるに旦那様(栄一)が、書生や撃剣家を敬愛なされるので、旦那様に直に農兵になりたいと内願する者もあらわれ、もはや内願者を押さえることはできません。今申し上げたことは、お代官には何卒内分に願います。

 ――ではその方たちの迷惑にならぬよう代官に談じることにしよう。

 そう応じた栄一は、代官と談判。志願者がないのは人選の仕方が悪いか、代官の平生の薫陶が悪いからだ。かかる重大な御用で出張してきたのに、農兵が募れなかったときは、理由を明らかにせねばならず、貴殿にいかなる迷惑を及ぼすかわからない、というと、代官は委細承知しました、と態度を改めた。

 すると続々と志願者が集まりはじめ、200以上に到達。播州、摂州、泉州でも応募者が相つぎ、全体で456、7人となった。栄一には白銀5枚と時服一領が褒美として与えられた。

 この行動は、栄一が人間関係を理解した上で人材を集め、組織化する能力があることを示したケースであった。

■人間関係をよく理解し、組織化に成功

 現代風にいえば、リーダーシップをよく発揮してみせたのである。

 「それのみではなく、此行の道すがら、栄一は人情風俗の視察に力つとめて、芸能ある者、農商の道に功のあつた者、孝子・節婦・義僕等を調査し、之を具申して褒賞を請ひ、遂に允されて栄典の沙汰が行はれたといふ」(幸田露伴『渋沢栄一伝』)

 親孝行な者や忠義な者を評価するのは、儒学の教えである。

 26歳になった栄一は、かねて学んだ儒学の精神を行動によって表現できる、ふところの深さを身につけるようになっていたのであった。

東洋経済オンライン

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最終更新:1/14(木) 6:31

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