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不安な現代人こそ「礼」が必要になる意外な理由

11/28 8:21 配信

東洋経済オンライン

新型コロナウイルスによって、これまで気づかれていなかった格差、貧困、差別、非倫理的な大量消費、制度疲弊、神話化された科学主義などの弊害が噴出。それらへの真剣な手当てが求められているにもかかわらず、国際的な連携を模索するよりも、国家的な統制を強める方向性が出てきている。
中国の文化大革命や戦前の日本、ナチ・ドイツの独裁体制のような個人よりも全体を優先する全体主義の渦に、世界は再び巻き込まれようとしているのではないか。そうした全体主義を克服するにはどうすればよいのか。世界中で注目を集めるドイツの哲学者、マルクス・ガブリエル氏との対談集『全体主義の克服』を出版した中島隆博氏と、國分功一郎氏という著名な2人の哲学者による対談の後編をお届けする。

前編:コロナ禍で急増「自分を監視したい人々」の怖さ

■聖書より古い歴史に衝撃を受けた欧州

 中島:前編では、概念が旅をするということをお話ししました。このことのすごく面白い具体例があります。16世紀以降にイエズス会やその他の宣教師が世界中に行くと、聖書よりも古い歴史があることに衝撃を受けます。例えば中国などは、神の創造の手前に歴史を持ち、しかも神なしで社会がなんとか回っているわけです。

 その情報がヨーロッパに行って、知識人たちを刺激します。ライプニッツもその一人ですね。彼は20歳から亡くなるまでずっと中国の本を読んでいます。最晩年に書いたのが『中国自然神学論』でしょう。

 哲学者の坂部恵先生が千年に一人の天才とおっしゃったライプニッツが、中国のほうをずっと見続けていたとはどういうことなのか。それは中国の概念が旅をしているわけですよね。つまり、朱子学と言ったほうがわかりやすいかと思いますが、宋から明にかけて成立した性理学の概念が旅をして、「理性」のようなヨーロッパ近代的な概念を洗練する一つのエンジンになったのです。

 中国と西洋との出会いということでいえば、2018年にガブリエルさんに初めて会ったとき、いきなり中国哲学の話をされて度肝を抜かれました。

 ヨーロッパの中国学者なら中国に詳しいのは当たり前なのですが、欧米哲学を専門にする人で中国哲学を理解している人には、会ったことがありませんでした。また、東西の哲学を単純に「比較」すればよいわけでもありません。それは前提となるものをほぼ温存してしまいます。

 ところが、ガブリエルさんは中国学の枠組みを軽々と飛び越えて、ドイツの哲学伝統に深く根差し、フランスの現代思想も、アメリカの分析哲学もよくわかったうえで、普遍化を目指す論を立てているのです。

 中島:だからガブリエルさんと会って本当にびっくりしたのです。『全体主義の克服』の対談で、さらにびっくりしたのは、王弼という魏の時代の思想家を読んでいたと言ったことです。

 王弼は、『老子』『荘子』『易』の三つのテキストを解釈し、「無の形而上学」を作り上げようとした若き天才です(20代で早世)。それを、ガブリエルさんはシェリング解釈に適用したと言うのです。「あなたはどういう頭の使い方をしているんですか、すごい!」となるわけです。

 でも、彼にこう聞かれたんです。「これだけグローバル化した時代にあって、哲学はこれ以外に何かほかにやり方があるんですか」と。真に新しい世代が登場したなと思いました。

 ただ考えてみると、スピノザやライプニッツだって同じようなことをやっていたわけですよね。

 國分:そうですね。カントだって、ケーニヒスベルクという港町で、世界中のことを知っていました。

 中島:ニーチェはカントのことを「ケーニヒスベルクの中国人」と言いましたからね(笑)。

 國分:概念が旅をするというのは、哲学の本当にすばらしいイメージだと思います。ところがそれを妨げるような思想というのがあります。例えば「多文化主義」は聞こえはいいけれども、乱暴に言えば「あなたたちのことは認めるから、私たちに触らないで」という思想です。つまり、これは概念の旅の禁止になるわけですよね。

 多文化主義は1990年代以降、非常に強い力を持ち、それが正義だと持ち上げられていたが、むしろ弊害のほうが大きいということがわかってきた。そもそも多文化主義は差別的な対応とすれすれのところにあります。

 僕は学生当時から多文化主義というのは正義でも何でもないと思っていました。卒論でもこれを批判的に取り上げたのを覚えています。その後、かなり時間が経ってから気づいたのは、ジャック・デリダの「歓待」という概念がそれに対抗するものだということです。

■「寛容」と「歓待」の違い

 國分:多文化主義の発想の根幹には寛容の思想があります。寛容というのはフランス語でトレランス、つまり我慢することです。相手の存在に我慢する。それはつまり、「あなたに触れませんから、僕にも触れないでください」ということであり、まさしく多文化主義です。

 それに対して、一緒にどうぞと、自分が主人だか客だかわからなくなってしまうのが歓待であり、概念が旅しているときには歓待のようなことが起こっていると思うんです。

 フランス語で歓待はオスピタリテ、歓待する者はオット/オテスと言うんですが、驚くべきことに、辞書を引くと、オット/オテスには「あるじ」という意味と「客」という意味の両方がある。つまり歓待をしているときというのは、もはや自分がもてなしているのか、もてなされているのかわからなくなってしまう。どちらが主でどちらが客かわからなくなる。

 概念の旅においても同じではないでしょうか。概念の旅において歓待のようなことが起こることこそ、最もスリリングな哲学的体験だと思います。

 だからこそ、概念が自由に旅できるような教育をしていきたいですよね。今の日本の大学教育だとなかなかガブリエルさんのような人をつくった教育はできません。「君、シェリングをやっているんだろう。中国哲学のゼミに出ている場合じゃないよ」と言われてしまうんじゃないでしょうか。

 中島:言われますね。

 國分:そこを変えていきたい。大学を、ピアニストが哲学の学位を取るなんてことも起こるような場所にしていきたい。

 中島:概念が旅をする途上で、いろいろな人が変容を経験するわけですよね。『全体主義の克服』の最後に、私は「人間的になること(human becoming)」や「ともに人間的になること(human co-becoming)」という概念を出しましたが、相互変容が起きないような哲学ではもうダメなのでしょう。

 昔、ハンナ・アーレントの研究会をやっていたときに、アメリカから来たある学者が、アーレントで大事なのは“Don’t feel at home”なんだと言ったのです。それ以来、時々、この言葉を思い出しています。

 このコロナ禍で“STAY HOME”と散々言われたときも思い出しました。くつろいで快適に感じてはいけない。私たちはやはりデジタル空間の中で、なんらかの快を感じているのでしょう。一種の“feel at home”です。

 でも、それをやればやるほど喉が渇く。もっと飲みたい、もっと飲みたいとなってしまう。そのような状況から、どうすれば、國分さんが考えたような、違うタイプの楽しさに入っていくことができるんでしょうか。

 例えば、アーレントのいう「意見」は、まさに別の楽しみですね。その意見を交換することが、アーレントの意味での公的な空間、活動の空間です。はたしてこういう空間をどういうふうにつくっていくのかが、現代の社会でもあらためて問われているのだと思います。

■ネット上で行われているのは憂さ晴らし

 國分:僕は今の問題を、言葉というものをどう復権するのかという方向で考えています。意見を作れないというのは、言葉を受け取っていないからなんですよね。

 ネットで行われている反応の交換は、バーゲンセールで何かを買って憂さ晴らしするようにして、誰かの論説にわっと反応して憂さ晴らしすることだと思うんです。逆に意見の形成に役立つような言葉があっても、スルーされてしまう。

 例えば、アガンベンはコロナ禍での政府の対応と人々のその受け止め方を批判し、人々がただ生存のために、死者を弔うこともせず、移動の自由をも容易に放棄していったら社会はどうなってしまうのかという論説を発表して、「炎上」騒ぎになりました。

 「反動おじさん」みたいな言い方だったからか、世界の哲学研究者から総スカンを食らったと言ってもいい。

 けれども、僕がNHKの番組でアガンベンの論評をまろやかに紹介したら、それは受け入れられるんですね。叩かれることを覚悟で、かなり緊張してアガンベンの意見を紹介しましたが、批判的な反応はほとんどなかった。むしろ多くの方からいろいろ考えさせられたという感想が寄せられた。

 つまり口調というものが非常に大きな役割を果たしている。ということは、ネット上にだって、実は、きちんと受け入れて咀嚼するべき言葉があるということなんです。

 アガンベンの言葉は、最終的にその意見には同意できなかったとしても、一度きちんと受け入れて咀嚼すべき言葉だったということだと思います。

 中島:アーレントも、複数の人々が言語を通じて意見を交換して受け取ることが大事だと言うわけですよね。私はそのアーレントが最後にたどり着いた「The life of the mind」という言葉に注目しています。

 その書名は日本語では「精神の生活」と訳されていますが、アガンベンの言う「剝き出しの生」を許すような社会ではしょうがない。そのアガンベンもまた、「form of life(生の形式)」という問題をずっと考えてきた哲学者です。

 アガンベンは、別にコロナの感染が起きたから、反動おじさんになったわけじゃないですよね。「生の形式」という言葉で彼がイメージしているのは、昔の修道院規則のようなものです。それをもう一度、真面目に考えようとしているわけです。アーレントが意見の交換というとき、それは古代ギリシアを念頭に置いている。そうすると、こちらでも当然、奴隷制の問題をどう考えるのかという批判が出てくるわけです。

 それでも、ファシズムをはじめとする全体主義の官僚主義的な悪に抵抗するには、ある仕方で言葉を獲得し直す、定義し直すしかないと思います。

■反動的であることの意味を考える

 國分:そうなんです。今はよく「リベラル」「保守」と言うけど、昔は「保守反動」って言葉をよく使ってましたね。保守反動というのは、社会が変わろうとしているときに「変わらないでいいよ」と言う人ですね。

 現代のように、さらさらと言葉が砂のように流れていってしまうときには、むしろ反動的であることの意味について考えるべきではないかと思っています。言葉にはなにか押しとどめる力というものがあって、そこにはどこか反動的な側面があると思います。そもそも、今回の対談で何度も名前があがっているアーレントはすごい保守派の思想家なのであって……。

 中島:アメリカでは保守派の象徴としても読まれました。誤解されているかもしれませんが、フランスでのアーレントの読解とアメリカでの読解はずいぶん違っていたことを思い出します。

 國分:アーレントやアガンベンが、左派の人から持ち上げられていることに僕は前から違和感を持っていました。アーレントにもアガンベンにも単なる保守というよりも保守反動とでも言うべきところがあると思います。

 中島:アーレントの「精神の生活」、あるいはアガンベンの「生の形式」のどちらにも、「life」という言葉が入っています。私はこのコロナの時代になって、ますます「life」ということが重要な問題として突きつけられているような気がしています。ここで中国哲学を参照すると、「礼」という問題と関係してくるように思います。

 國分:『全体主義の克服』でも、礼について議論していますね。

 中島:礼の話なんて、ある意味では保守反動の究極なわけです。「この時代に礼なんて言うのか」「こんな封建的で後進的な概念を今さら持ち出すのか」となるはずなんですね。でも、本当にそれなしでやっていけるのか、ということなんです。

 礼は死者に関わる問題でもあります。このコロナ禍の状況のなかで、どのようにすれば私たちは死者と向き合うことができるのか。これは、カントのような普遍的な規範性で答えられる問題ではありません。

 礼は、人間の身体や感情に根差す規範です。でも、そこを考えない限り規範の問題はなかなか解けない。こういう議論をガブリエルさんが興味を持って拾ってくれたのは面白かったですね。

 國分:礼は今まさに論じられるべき概念だと思います。中島さんがご存じかわからないんですが、少し前から世の中ではマナー講師というのがはやっているんです。例えば、「Zoomのオンライン会議ではこういうマナーがございます」などと言って、誰が作ったんだかわからない「マナー」を研修会で会社員に聞かせるわけです。

 ここには現代人の不安が実にわかりやすい形で現れていると思います。なぜこんな商売が成り立つのかと言うと、要するに、誰も自らがよって立つべき習慣や礼がわからなくなっているからです。

 意見のない人は説得する必要がないのと同様、礼を身につけることができなかった人には「マナー」をただ強制すればよい。つまりどう振る舞えばいいのかわからない人々の不安に付け入っているわけです。

 中島:やっぱりニーズがあるわけですよね。

 國分:ニーズがあるんです。「僕は間違っていないだろうか」と、みんながびくびくしている。でも、中島さんが礼という言葉で言おうとしていたのは、繰り返される習慣の中で形成される、自らの振る舞いの形式そのものであり、ひいては、自分の生のあり方や他人との交流の基礎になっていくようなものだと思うんですよね。

 アガンベンの「生の形式」も、ほとんど習慣のようなものですから、礼と極めて近いと言えると思います。

■「礼」も「日常」も反復の中で獲得されるべき

 國分:現代の資本主義は同じことを繰り返すことを許さない。新たなニーズにつねにフレキシブルに対応し、イノヴェーションを続けることを強制されます。これは言い換えれば、日常というものをなかなか手にできないということです。実はわれわれは今日常を失いつつある。

 アメリカの哲学者スタンリー・カヴェルは、「日常というのは出発点ではなく獲得されるべきものだ」と言っています。これは実にすばらしいイメージですし、今こそ考察されるべき思想だと思います。

 礼も日常も反復の中で知らず知らずのうちに獲得されるべきものではないでしょうか。マナー講師がはやってしまうのは、そういう礼や日常が破壊されていることの証拠ではないかと思います。

 中島:そういうことですよね。マイケル・ピュエットというハーバード大学の先生が『ハーバードの人生が変わる東洋哲学』という本で、礼の話を詳しくしています。

 彼は礼というのは日常に始まり、日常に終わると言っています。ところが日常が破壊されていたら、礼は始まらない可能性がありますよね。

 國分:概念が旅をするという話題になりましたが、僕は礼という概念も、もっといろいろなかたちで翻訳して、世界中を旅させたほうがいいと思います。そのなかで、アガンベンの「生の形式」という概念と出会えば、概念同士が意気投合するかもしれない。

 中島:礼というのは、孔子以前から使われていた古い言葉です。そこに孔子が登場して、「仁」が大事だと言います。でも、孔子は何のために仁と言ったのかというと、礼という概念をアップデートするためだったと思います。仁なしの礼はやめておきなさい。仁という人間的なあり方に裏打ちされた形で礼を定義しないと、社会がおかしくなるというわけです。

 孔子自身はかなり過激な人です。若い連中を連れて諸国を放浪しているわけです。その人が、新しい社会関係を構想する中で、仁というものを考え、それを礼の洗練と結びつけた。

 私はこういう議論を、あらたな形での全体主義の台頭へ警鐘が鳴らされている今、現代的にやり直してもいいんじゃないかと思っているんです。

 (構成:斎藤哲也/ライター)

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最終更新:11/28(土) 8:21

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