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駅名読める?京阪の要衝「中書島」の波乱万丈

11/26 5:11 配信

東洋経済オンライン

 11月1日、京阪電気鉄道(京阪電鉄)は大阪市の中之島駅近くで開業110年を記念するフォーラム「渋沢栄一翁と万博、関西の未来」~今こそ、大阪・関西から次代を拓く~を開催した。奇しくも、同日は大阪の今後を左右する「大阪市廃止・特別区設置」(いわゆる大阪都構想)の住民投票の実施日だった。

 1910年に開業した京阪電鉄は、大阪・天満橋駅と京都・五条駅を結んだ。すでに京阪間に東海道本線が運行されていたが、その主眼は大阪と京都という大都市を短時間・短距離で結ぶことだった。そのため、大阪駅と京都駅はどちらも街はずれに開設される。

 東海道本線が開業しても、京阪間では鉄道の恩恵を享受できない住民が多く、大阪財界から街と街をつなぐ鉄道の要望が高まった。

■渋沢栄一らが創立した京阪

 2021年のNHK大河ドラマ「青天を衝け」の主人公・渋沢栄一は、日本鉄道(後の国鉄・JR東日本の前身の一部)をはじめ東京馬車鉄道(東京都交通局の前身の一部)などの鉄道会社を設立した起業家としても知られる。

 東京の活動がフォーカスされがちな渋沢だが、その活動範囲は全国に及ぶ。渋沢が関わった大阪周辺の鉄道関連事業をピックアップすると、1898年に開業した西成鉄道(現在の大阪環状線とJRゆめ咲線の一部)がある。渋沢は鉄道事業そのものだけに関わるのではなかった。日本鉄道の父とも称される井上勝は、鉄道庁長官を辞任後に民間に転じた。井上は機関車の国産化を目指して大阪で汽車製造という会社を設立したが、渋沢は井上への支援も惜しまなかった。

 大阪財界人たちは、東海道本線に対抗する鉄道として新たに京阪の建設を検討。この計画に渋沢も加わる。東海道本線の客を奪われることを警戒した政府は、京阪の開業許可を渋った。政府を刺激しないように、渋沢と松本重太郎・田中源太郎といった大阪財界人たちは、建設計画を東海道本線とは別ルートで提出。これが奏功して、京阪は1910年に淀川の東岸を通る電気鉄道として開業した。

 1910年の京阪開業時、中間駅として開設された駅のひとつが中書島(ちゅうしょじま)駅だ。現在では京阪の本線と宇治線の乗り換え駅であり、特急の停車駅にもなっている。そうした現状を見れば、中書島駅は京阪にとって重要な駅といえるかもしれない。しかし、実際の中書島駅は波乱万丈に満ちた道のりを歩んだ。

 舟運が物流の主力だった江戸時代、中書島は宇治川の舟運によってにぎわう。中書島は京都と大阪を結ぶ役割を果たし、京都を支える後背地だった。そのため、中書島の位置する伏見は京都とは異なる独自の文化・経済を築いていた。駅のすぐそばに宇治川と濠川が流れているが、その分岐点には河川港となる伏見港が築かれた。京都の中心部には大型の貨物船が通船できる河川がないので、伏見港から京都中心部までは陸路で物資を輸送していた。

 伏見港から陸路に切り替わるため、中書島から京都中心部までの物資輸送量は大幅に低下する。物流量は京都の存亡にも関わる問題のため、京都の豪商、角倉了以(すみのくらりょうい)・素庵(そあん)父子によって高瀬川が開削された。これによって、京都中心部への物流量は飛躍的に増加した。

 こうして伏見港のある中書島は、物資輸送の重要拠点になっていく。そして、時代が明治に移っても中書島の地理的優位性は揺らがなかった。

■日本初の「電車」が京都に

 1867年、明治新政府が発足。それまで江戸に幕府を置きながらも、天皇や側近の公家たちは京都で生活を送っていた。だが明治新政府が発足し、天皇が住まいを東京へと移すと、側に仕える公家たちも多くは東京へと居を移した。都が東京へ移ったことによって京都の人口は減少し、産業・経済も著しく衰退した。京都から活気が失せたことにより、相対的に中書島の地位も急落した。

 第3代京都府知事の北垣国道は、活気ある京都を取り戻そうと新事業を模索する。そして、新時代の文明と期待されていた電気に活路を見出そうとした。

 京都のすぐ東には満々と水をたたえる琵琶湖がある。琵琶湖を利用して水力発電所を建設し、そこで生み出された電気を産業振興に役立てようとした。北垣は琵琶湖疏水の開削にあたって、工部大学校で土木を学んだ田辺朔郎を抜擢。田辺は京都の浮沈を懸けた一大事業を託すには若すぎたが、北垣の期待に応えて琵琶湖疏水を見事に完成させた。

 琵琶湖疏水の完成により、京都は次世代エネルギーの電気を活用できる都市へと成長。電気という文明の果実は、1895年に開業する京都電気鉄道として結実した。それまでの鉄道は石炭を燃料とする蒸気機関車で、電気で走る“電車”は、京都電気鉄道が日本初だった。

 京都電気鉄道の開業がきっかけとなり、電気鉄道を求める声は全国各地の大都市からもあがるようになった。電気鉄道は最先端都市の証しと目されるようになり、名古屋・川崎・東京と全国で開業が相次いだ。

 北垣の取り組んだ琵琶湖疎水によって、京都には多くの工場が立地。これにより京都は復調していたが、その一方で新たな社会問題も発生していた。市民の間でもっとも深刻な問題とされたのが、井戸水の汚染対策だった。当時の京都では井戸水は日常の飲用水として使用されており、暮らしに欠かせない水質改善は、行政にとっても焦眉の急だった。

 1904年に西郷隆盛の長男・菊次郎が京都市長に就任すると、京都の成長戦略として三大事業を掲げた。西郷市長が掲げた三大事業とは、1:より多くの水と電気を得るための第二疏水の開削、2:衛生的な水を供給するための上水道の整備、3:輸送力を増強するための道路の「拡築」の3つだった。

 とくに三大事業の肝とされたのは3だった。道路の拡築は交通容量の増加に対応するだけではなく、歩車分離という事故防止という意味も内包していた。また、拡築された道路の下に上水道を敷設し、その上には市電を走らせることも想定していた。

■市電との接続駅になった中書島

 それゆえ、西郷市長は拡幅という用語ではなく、新たな概念として拡築という言葉を創作。それほどまでに道路の拡築に心血を注いだ。こうして拡築された道路すべてに市電が敷設され、1912年には京都市電が運行を開始した。

 京都には、すでに民間の京都電気鉄道が運行されており、電車の運行を任せることもできたが、西郷市長は市営にこだわった。それは道路の拡築費用を市電の収入で賄うつもりだったからだ。

 京都電気鉄道と京都市電、両者がかち合うのは時間の問題だった。京都電気鉄道は1067mm軌間で、対して市電は1435mm軌間。市電のほうが軌間は広く、そのために輸送力も優っていた。

 市電が京都電気鉄道を駆逐するのに時間はかからず、1918年に京都電気鉄道は市電に統合されて幕を閉じる。京都電気鉄道は1914年に中書島駅まで延伸開業したが、統合後も市電が路線を引き継いだから、中書島が不便になることはなかった。紆余曲折を経て、中書島は鉄道と船、両方の要衝になった。

 公共交通機関が充実したので、中書島駅の周辺は人が行き交い、街がにぎわうようになった……と思われるかもしれない。しかし、実際には逆の現象が起きる。京阪や市電という、京都と直結する交通ネットワークの充実は、中書島駅界隈を衰退させることになった。

 中書島の衰退は、ほかにも大きな要因があった。1912年に、明治天皇が崩御したのだ。

 明治天皇の陵墓は伏見に築かれた。陵墓の最寄り駅は官営鉄道(現・JR)奈良線の桃山駅で、京阪なら伏見(現・伏見桃山)駅になる。1914年には昭憲皇太后が崩御。昭憲皇太后の陵墓は、伏見桃山陵の東隣に築かれた。さらに、1915年には伏見桃山陵の麓に乃木神社が創建される。

 京都駅から延びている奈良線は、全国各地から訪れる巡拝者が多く利用した。近鉄の桃山御陵前駅は、まだない。伏見への巡拝者輸送は奈良線が独占していた。

 京阪は奈良線に対抗するべく、宇治線を建設したが間に合わなかった。中書島駅から分岐する宇治線は1913年に開業。陵墓に近い駅として御陵前(現・桃山南口)駅が開設される。宇治線の沿線は名所・旧跡が多いほか、山紫水明の地として評判は高かったが、京阪は巡拝者を取り込むため、伏見桃山陵にアクセス至便な本線の伏見駅の利用を呼びかけた。

■皇陵巡拝者の玄関口は伏見桃山駅に

 京阪が皇陵を巡拝してから宇治へと向かう巡拝・観光ルートを積極的に売り出した理由は、伏見駅の近くに全国に点在する稲荷神社の総本宮ともいえる伏見稲荷神社(現・伏見稲荷大社)があったことが大きい。

 さらに、伏見駅前には1914年から日光社がハイヤー営業を開始。日光社のハイヤーが盛況だったため、1918年には桃山自動車商会(現・京阪バス)が新たに参入する。桃山自動車商会は勢力拡大を図るべく、伏見―宇治間に営業路線を持っていたライバル企業を買収。両者の統合を取り仕切ったのが、後に伏見市長に就任する中野種一郎だった。

 鉄道とハイヤーという交通機関が整備されたことで、多くの巡拝者が伏見駅から宇治に至るルートを使う。1915年、京阪は伏見駅の駅名を伏見桃山駅へと改称。翌年には急行停車駅へと格上げする。その後も巡拝者は減少することなく、京阪にとって伏見は屋台骨を支える大きな存在だった。

 1940年、京阪は誘客を促進するべく皇陵を巡拝するコース紹介の冊子を発行。同時に聖蹟を巡る割引切符も販売した。皇紀2600年にあたる同年は、国家プロジェクトとして奉祝記念事業があちこちで開催されていた。京阪も世間の風潮に乗って、沿線にある聖蹟へ足を運ぶことを奨励した。

 伏見稲荷神社・皇陵・宇治の観光スポットが人気を呼び、京阪利用者は爆発的に増えた。これが京阪の経営を支える大きな収入源となる。結果として、京阪の本線と宇治線が接続する中書島駅は単なる乗換駅として利用されるだけで、駅から広がる中書島の街からはにぎわいが消失していった。

 中書島の衰退は明らかだったが、伏見というマクロな枠組みで見れば人口は増加し、経済も堅調だった。そのため、伏見は市制施行を模索する。明治末期にも伏見市を模索する動きはあったが、その際は実現に至らなかった。

 昭和期に入って、再び伏見市を実現する動きが活発化。町長だった中野は明治期に却下されたことを踏まえ、「将来的に京都市と合併する可能性もある」という搦手(からめて)を使った。1929年に伏見市を実現。そして、初代市長には町長の中野がそのまま就任した。

 市に昇格したことで学校の新設・増築や中書島公有水面埋め立て工事、水害対策、道路の新設といった予算が増額された。中野市長は埋め立てで造成した土地を遊郭に売却することを計画。その売却益で、中書島の振興策を考えていた。

 しかし、遊郭への売却はうまくいかず財政を悪化させた。皮肉にも、それが伏見市を実現する際に約束していた京都市と合併する引き金になり、わずか3年足らずで伏見市は幕を下ろす。

■特急停車駅として復調

 戦後、京阪は本線機能の強化に努めた。線路や設備の改良に取り組み、待避線の新増設や併用軌道区間の解消、高架線化・複々線化によって、大阪―京都間の所要時間を短縮する。それに伴ってダイヤを改正し、特急は増発された。

 京阪間の移動は以前とは比べようもないほど便利になっていくが、中書島駅は特急が通過するダイヤのままで、その恩恵に与(あず)かることはなかった。追い討ちをかけるように1970年には市電が廃止され、中書島駅前は寂しくなる一方だった。

 中書島駅が復調する兆しは、宇治線との競合関係にあった奈良線の変化によってもたらされる。1991年、奈良線は快速運転を実施。翌年には、JRの六地蔵駅が新設された。JRが奈良線に力を入れはじめると、京阪は対抗するために平日朝の淀屋橋駅行き特急のうち通勤時間帯の朝6時と7時台の6本を中書島駅に停車させるようダイヤを改正。さらに、2000年には終日にわたり特急が停車するようになった。

 駅舎と駅前広場も2004~2005年にかけてリニューアルを実施。特急停車駅としては小ぶりだが、歴史ある街並みと調和した駅舎になった。舟運で栄え、鉄道開業以降も結節点としての機能を担ってきた中書島駅は、明治末期から平成初期まで雌伏の時を過ごした。長かった夜が明け、中書島駅に再び光が当たろうとしている。

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最終更新:11/26(木) 5:11

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