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「日記を83年書き続けた女性」の波瀾万丈人生

11/22 11:01 配信

東洋経済オンライン

 95歳の吉峯睦子(よしみね・むつこ)さんと知り合った。それは今年の8月で、終戦記念日の翌週だった。ちょうど、戦争体験を書いた記事が新聞に掲載されたらしく、その切り抜きを見せてくれたのだ。平和への願いと、庭先に落ちる桜の葉を通して「命への感謝」を書いた文章だった。95歳の女性の書く「命」の重さが胸に迫った。聞けば、文章を書くことをずっと続けているのだという。

 大正、昭和、平成、令和にまたがる95年の人生。どれだけのことを睦子さんは見て書いてきたのだろうか。睦子さんのことが忘れられず、後日改めて「今までの人生のお話を聞かせてください」とお願いして話を聞きに通うことにした。

■教科書から英語が消えていく

 睦子さんは1926(大正15)年、鹿児島市で海江田家の次女として生まれる。古くから米問屋を営み、鹿児島の長者番付に名前を連ねる旧家だった。

 「米を保管する大きな蔵がいくつもあって、子どもの頃はその中で遊んだりしました。武家出身の母の元には、花嫁修業を兼ねて働きに来ている女性がつねに5~6人いて。私も母には礼儀作法を厳しく教え込まれました」

 小学校卒業後は、鹿児島第二高等女学校(以下、第二高女)へ進学。

 「第二高女では『心の鏡』っていうすてきなノートをくださって、毎日日記を書いて提出しました。すると、先生が褒めたり批評したりと赤ペンでコメントをして返してくださるの」

 これがその後もずっと続いていく日記習慣の始まりだ。

 しかし、戦況が厳しくなるにつれて勉強もままならなくなる。まずは、教科書から「敵性語」である英語が消えていく。

 「音楽のドレミファソラシドは“はにほへといろは”、ベースボールは“野球”になりました。私はABCを覚えられたけど、下の学年はローマ字まで勉強できませんでしたね」

 さらに、学徒動員で学生たちも「報国隊」として手伝いに駆り出される。睦子さんは南九州最大の軍事企業・田辺航空工業で飛行機部品の図面を書く作業を担当した。現在、田辺航空工業はすでになく、跡地が鹿児島南高等学校になっている。

 「前を通ると今でも鮮明に思い出して胸がいっぱいになります。当時は5000人くらいの人が勤めていました」

 だんだんと工場には材料すら入ってこなくなり、空襲警報を受けては防空壕に避難するばかりの日々。

 「みんな漠然と不安を抱えていたかもしれません。でもそれを言いだす人は誰もいませんでした。私はすっかり『軍国少女』で、お国のために尽くさなくてはと必死でした」

 当時、睦子さんの2歳下の弟・順三郎さんの家庭教師として海江田家に出入りしていたのが現在の夫の吉峯幸一(よしみね・こういち)さんだ。実直な性格の幸一さんを睦子さんの母がすっかり気に入って縁談を進めていた。

 けれどもその頃の女学生の常として若き軍人に憧れていた睦子さん、幸一さんと結婚するとは思ってもいなかったそうだ。

 「友だちのお兄さんが海兵さんだと、すてきねって憧れたりしていました」

 幸一さんと2人きりで出かける機会があったが、その思い出は苦々しいものだった。

 「ある日、母に2人でどっか行ってらっしゃいって言われて。でも2人とも出かけるところなんてどこも知らないから、城山まで歩いていくことにしたの」

 「そしたら途中で憲兵さんに見つかって、銃を突きつけられて『この非常時になんたることか!』と叱られました。もうびっくりして。だからその後は離れて歩いて一言も口をききませんでしたよ」

■「火を出したら非国民」鹿児島大空襲の夜

 1945(昭和20)年の3月頃から日本への空襲が激化、特攻基地のあった鹿児島への空襲もさらに激しさを増す。同年6月17日は、鹿児島市が焼け野原になった日だ。

 この日は勤労隊として長崎へ行っていた弟の順三郎さんが、陸軍士官学校に通うことが決まり帰省中だった。家庭教師だった幸一さんもお祝いに駆けつけ、その夜は海江田家に滞在していた。

 「みんなで楽しく夕ご飯を食べて、そろそろ寝ようとした夜11時頃にB29の爆音が響きました。まだ空襲警報も鳴っていないのに、照明弾、焼夷弾がどんどん落ちてきました。まるで昼間のように明るかったです」

 灯火管制下で暗かった鹿児島の夜が、突如としてうそのような明るさに包まれた。海江田一家と幸一さんは家の防空壕に逃げ込む。いつもとはまったく違う夜におびえ、肩を寄せ合うようにして縮こまっていた。

 しばらくして、浴衣姿のままだった母のために睦子さんは家にモンペを取りに戻った。そのとき、自分の部屋が焼夷弾で燃え始めているのを見つける。母にモンペを渡した後、あわてて駆け戻り消火に励んだ。

 「自分の家から出火させてはいけないと、無我夢中で座布団で火を叩きました」

 防空訓練のバケツリレーで教え込まれた「火を出したら非国民」の言葉だけが頭の中にあった。

 「でも少しも消せなくてどんどん煙に包まれてしまいました。もうダメだと思って離れてほかの部屋へ行ったら、また焼夷弾がずらーっと落ちて火を噴いて障子まで燃え上がっていました」

 このとき鹿児島を襲った米軍機は百数十機の大編隊で、1時間以上にわたって焼夷弾を投下した。焼夷弾の中には固形油が入っており、一度家屋につくと発火しやすく燃え続ける。今まで訓練してきた方法で消せるはずもなかった。

 「煙に包まれて、逃げ道もわからなくなって、意識がもうろうとしてきました。こういうときって思わず『お母さん』って言葉が出てくるのね。『お母さん、お母さん』と煙の中声にならない声で叫んでいました」

 倒れる寸前になったところで、煙の向こうに幸一さんが現れた。皆で防空壕を出て外に逃げようとしていたところ、睦子さんが戻ってこないのを心配して探しに来たのだ。まだ燃えていない部屋まで睦子さんを引っ張っていき、風呂場の水をかぶせて、外まで連れ出した。

 「外へ出たら街中が火の海でした。山形屋(百貨店)の窓という窓から紅蓮の炎が吹き上がっていたことが記憶に焼き付いています。あんなに怖かったことはありません」

 海の方角を目指して逃げたところで、軍需部の防空壕に逃げ込んだ。

 「積んである毛布にはノミがいっぱい付いていました。血に飢えたノミは、私たちが入った瞬間にものすごい勢いで襲ってきて。体中ノミだらけになって、さわるとすごくざらざらしているの。でもかゆいよりも何よりも、飛行機の音が怖くって気が気じゃなかったです」

 生きている間で最も怖くて長い夜を過ごした。鹿児島の人は私たち以外みんな死んでしまった、とさえ思ったという。飛行機の音が消えて、おそるおそる外に出てみると、見たことのない鹿児島の風景が広がっていた。それは一面の焼け野原で遠く田舎まで見えるようだった。

 その後、少し離れた磯地域にあった海江田家の別荘へ避難した。そこへ、幸一さんの父・喜八郎さんが訪ねてきた。息子の安否に不安を抱きながら、夜が明けるやいなや商売用のトラックに乗ってやってきたのだ。

 「『幸一!  幸一!』という声が聞こえてきました。『生きていたのか』と。私たちにお重箱に詰まったおにぎりをくださいました。普通のおにぎりなんですけど、生きているうちであのおにぎりの味は忘れられません」

 その後は市比野(いちひの)へ疎開し、さらなる戦局悪化に伴い山の中に移り住んだ。「旧家のお嬢様」だった睦子さんの人生は、空襲の夜を境にすっかり様変わりした。

 「最低限の生活でした。弟もいるし何とか食べ物を手に入れようと、母の着物を持って農家さんへ行ってもほとんど交換できませんでした。あの頃を思えばどんな食事だって食べられさえすれば本当にありがたいです」

 終戦を迎え、翌年の1946(昭和21)年4月、睦子さんは幸一さんと結婚した。

■夢中で駆け抜けた戦後の日々

 幸一さんの家は、1735(享保20)年から続く商家・丁子屋で、当時はみそ、しょうゆの製造販売から食料品の卸売り、石油の販売と手広く商売を営んでいた。幸一さんとの間に3男1女が生まれ、家事に、子育てに、家業の手伝いにと忙しい日々を送った。

 「主人はとても優しい人で、あんまり優しいものだから人からだまされるわけですよ」

 一度は経営が大きく傾いて会社が倒産した。会社更生法の対象となり借金を返すまでひたすら質素倹約に努める。とき卵を水で薄めてかさ増しするような生活だった。

 取引先の人が窮状を見かねて、子どもたちをお祭りに連れて行きお土産を持たせてくれたことも。「この方たちに必ず借金を返そう」と心を強くし、その後無事に借金を返済して再スタートを切る。

 経営しているガソリンスタンドでは、何かと忙しい幸一さんに代わり睦子さんは深夜の給油に奮闘した。週末ともなると、近くの海に来た釣り客が給油に来て、車のクラクションで起こされる。「近所迷惑になってはいけない」「店の信用のため」と、飛び起きて駆け付けた。

 当時、給湯器はないから、深夜ガソリンや軽油の付いた手を冷たい水で洗って凍えるようだったという。氷のように冷たくなった手足を幸一さんの体にくっつけて暖をとった。

 「深夜に6回も起こされる生活でした。たまに実家に帰って『今日はゆっくり眠れる』と思っても、習慣とは恐ろしいものでクラクションの音で必ず目を覚ますんですよね」

 1973(昭和48)年のオイルショックでガソリンスタンドの営業時間が規制されるようになり、深夜営業から解放されて救われる思いだったという。

■思いは言葉に託して、振り返ると愛おしい日々

 家業を娘の慶子さんが継いで現在は隠居生活。共に鹿児島大空襲の夜を生き抜いた幸一さんとは、結婚74年目を迎えた。穏やかな暮らしの中で、ふと過ぎ去った日々を振り返ってみる。

 借金を抱えて質素倹約の生活に奮闘したことや、深夜の給油ですっかり冷え込んだ手足を夫に暖めてもらった夜、懸命に忙しく働いたあの日々がかけがえのない貴重なものに思われて、たまらなく愛おしいのだという。

 浮き沈みの激しい人生で、睦子さんを支えてきたのは文章を書くことだ。もしかしたら、それは支えというよりも、やらないと気持ちが落ち着かない、身に沁みついた生活習慣といったほうが的確かもしれない。12歳の女学校入学時から始めた日記は、以来1日も休むことなく83年間続けている。

 「書かないと1日が済んだ気がしません。疲れて寝てしまっても、慌てて起きて書きます」

 鹿児島大空襲の日のことでさえ、日記帳に「23:30夜間大空襲鹿児島市街灰燼に帰す」と1行記録を残している。それ以前の日記はすべて空襲で燃えてしまった。

 娘の慶子さんは「台所で立ったまま日記を書いている姿を見ていました。家計簿もきちっとつけて、本当にすごいと思います」と話す。

 さらに、子育てが少し落ち着いた頃に本格的に短歌を始め、思いを歌に昇華してきた。歌ノートの1冊目に、こんな文章が残されている。

 「多忙な生活の中で自然の美しさに感動する豊かな気持ちを、歌を通して培ってゆきたい。悲しいとき、うれしいとき、歌日記を続けてゆけたら、すばらしいことと思う。道は遠いけれど」

 何よりも、義父の喜八郎さんが「睦子さん、できましたか?」と短歌を楽しみに聞いてくれたから続けてこられたという。鷹揚な優しい性格の義父だった。

 その義父も故人となり、長い人生、思えば睦子さんは家族や友人と、多くの親しい人たちを見送ってきた。数々の短歌を、愛しい人たちをしのんで詠んだ。

“夫若く我乙女なり過ぎし日に 戦ありて友等還らず”
“お母さんそばにいるから大丈夫 安らかなれとそれのみ祈る”
“花咲きて花散る夕べ陽はのぼり 陽は又沈む定めなき世に”

 「今夜が峠でしょう」と言われた母の看病は、静かな寝息を立てる母の傍らで、湧き上がる思いを短歌に託した。短歌に支えられたあの夜は、一生忘れられないのだという。

 最近、ひ孫が作った初の短歌がすごく心に響いたそうだ。

“あたりまえ 家族いること 遊ぶこと そうじゃないんだ 戦争中は”
 「今も紛争が続いている国はあります。私が経験した頃よりも兵器は何十倍も進んでいるし、戦争は絶対にだめだと思います。素直な心で作ったひ孫の短歌が、こんなふうに心に響くのかと驚きました。初めての短歌とは思えません。義父が私を褒めて励まし続けてくれたようにしていけたらと思います。短歌ができたときはまた聞かせてねと伝えました」

 睦子さんの日記帳も、歌ノートも、これからも変わらずページを重ねていく。それはひとりの女性が大正、昭和、平成、令和と4つの時代を懸命に軽やかに駆け抜けた証しだ。

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最終更新:11/22(日) 11:01

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