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世界のKENZOを支えた料理人が見た粋な去り際

10/28 13:11 配信

東洋経済オンライン

 10月4日、新型コロナウイルス感染の合併症によって亡くなったファッションデザイナーの高田賢三(享年81歳)。「KENZO」のブランドとともに、ファッション史に遺した彼の功績は、改めて述べるまでもないだろう。長くパリを拠点に活動してきたため、その素顔を日本人で知る人は少ない。が、専属料理人として長きにわたって高田に仕え、身近に接してきた日本人がいる。

 中山豊光氏。2009年に「Restaurant TOYO」をパリにオープンして以来、フレンチと日本料理を調和させた独自のスタイルでパリの食通を唸らせ続けているシェフだ。

 師弟であり、親子のようであり、親友でもある――そんな唯一無二の関係を高田と紡いできた中山氏が語る、多くの日本人が知らない“賢三さん” の素顔とは。

■レストランでは学べない「専属料理人」の仕事に魅かれる

 感染者数が再び急増し、夜間の外出を制限されるなどコロナ禍が深刻さを増しているパリ。厳しい状況が続く中、高田は亡くなるわずか3週間前にも中山氏の店を訪れ、気遣ってくれたという。

 「その時も、僕が逆に『感染者が増えているから気をつけなさいよ』と注意されたばかりだったんです。それが、賢三さんのほうがこうなってしまって。何が何だか、いまだにわからないですね」

 中山氏の高田との出会いは、20年前にさかのぼる。当時、中山氏が厨房のトップを務めていたパリの日本料理店「伊勢」の常連客の一人が高田だった。

 神戸のフランス料理店から単身で渡仏。フレンチシェフから一転、「日本料理を一から学びたい」と日本料理の世界へ――料理人としては異端なキャリアを持つ中山氏に、「高田賢三の専属料理人にならないか」というオファーは突然やってきた。

 帰国することも考えていた中山氏が、悩んだ末にオファーを受けたのは「レストランのシェフでは学べない世界がある」と直感したからだ。

 「これまでも、賢三さんの主催するパーティーをお手伝いする機会がありました。その時に、コンセプト作りから企画に携わらせてもらったのがおもしろくて。料理にとどまらない、専属料理人の仕事に魅力と可能性を感じたのです」

 2000㎡はあろうかという、パリ・バスティーユの大豪邸。そこで中山氏は、高田賢三の専属料理人としてのキャリアをスタートした。2002年のことだ。サラダや味噌汁など日常の食事から、ホームパーティー、誕生日会、ファッションショーのレセプションまで。専属料理人の仕事は365日、とにかく多岐にわたる。

 「彼がこの1週間に何を食べたのか。そのときの反応はどうだったか。栄養バランスはどうか。あらゆる情報を総動員して、その日のメニューを決めていきます」

 パーティーの際は、誰が主賓なのかを高田からは一切知らされなかった。食前酒をサーブするタイミングで話しかけてみて、わずかなヒントを拾い上げながらその日の主賓を探り当てる。

 今日の客人は、パリに滞在して何日目なのか。せっかくパリに来たのだから思いきりフレンチを楽しみたいのか。そろそろ和食が恋しい頃か。それともさっと軽く食事を済ませたいのか――限られた情報から、その日のパーティーのプランを組み立てていく。

 「もちろん、当初のプランどおりに進むとは限りません。会話や表情、食事の進み具合をみながら、料理を追加したり減らしたり、その場でプランを修正していきます。そのための選択肢も事前に用意しておくのです」

 そのような環境の下で、専属料理人・中山豊光の、パーティー全体をプロデュースする能力と、時間や人をマネジメントする能力はおのずと磨かれていった。

■「君の名前でやっているんだから」

 当時の高田の印象を尋ねると「とにかく、仕事には厳しかったですね」と中山氏は笑う。

 ある日、リゾットを、米を炒めるところから始める本来の調理法でなく、時間を短縮するために工程を省略した調理法で出したことがあった。

 「それを、1か月くらい経ってから『あの時のリゾットはリゾットじゃないね』と指摘されました。少しでも手を抜いた仕事は見逃してくれませんでした」

 また、ある日のパーティーでは何人ものスタッフを指揮しなければならず、タイムキーパーを若いスタッフに任せたことがあった。スタッフの経験のためでもあったが、結果として時間どおりに進まず大失敗した。

 「この時は本当に怒られました。『言い訳してもダメ。君の名前でやっているんだから』と……。結果がすべてだと、自分のプロ意識の甘さを反省しました」

 頭ごなしにガミガミ、ではなく短く、静かに叱るのが高田のスタイル。それは、上司というよりも「親が子どもに注意するようだった」と、中山氏は当時を述懐する。

 「ずっと同じ家で暮らしているので、家族のようなもの。だから『身内だと思っているからあえて言わせてもらうよ』というような感じだったように思います」

 親のような愛情があったからこそ、ただ叱るだけでなく、時にはさりげなく学びのヒントを与えてくれることもあった。

 「日曜日に、絵を描きながら 『今度、あそこのレストランに行ってみたらどうだ』と、ぼそっと言うんです。優しさと怖さが同居しているような、そんな方でした(笑)」

 厳しくも愛情のある叱責を受けながら、中山氏は高田の信頼を少しずつ獲得していく。パーティーの際に会場に花を配置する役割も、専門のコーディネーターからいつしか中山氏が担うようになった。

 「コーディネーターはいろいろ指示を受けながら翌朝まで作業していましたが、僕がやるようになってからは賢三さんはほとんど口を出さなくなりました」

 そして、高田と中山氏は、ファッションデザイナーと料理人というジャンルの壁を超えた、師弟でありながら親子のような絆で結ばれていく。

 2004年のアテネオリンピックの公式服装のデザインを依頼されていたとき。高田は中山氏に「どうしたらいいと思う?」とアイデアを求めてきた。

 「ファッションはもちろん門外漢です。が、僕なりに考えて『遠目からでも日本の国旗が映えるようなデザインがいいのでは?』と提案してみたんです」

 すると後日、高田がそのアイデアをもとにデザインを100通りも描いて、おまけに試作品まで作ってきた。

 「結局そのアイデアはボツになったのですが、僕の意見に対してそこまでするのかと。驚きました」

 専属料理人として中山氏が高田の信頼を得てきたたからこそ、高田もまた中山に心を委ね、意見を求めてきたのだろう。かつ、それをアイデアで終わらせずに真剣に受け止め、形にする。高田のプロフェッショナリズムと中山氏へのリスペクトを物語るエピソードだ。

■「もっと景気がいい時に助けてやれたらなぁ」

 さて、中山氏が高田の下に来て7年が経ち、いよいよパリに念願だった自身の店を出すことになった。物件も見つかり、工事費用などの開業資金を支援する出資者も高田が紹介してくれた。ところが、そこに急に襲い掛かったのが未曽有の金融危機、リーマン・ショック。「アメリカに行く」と言われたきり、出資者とまったく連絡が取れなくなってしまった。

 フランス独自の商業権「フォン・ド・コメルス」は、パリで商売をするとなると数千万円と高額。とても一人で工面できる金額ではない。開業は一転、暗礁に乗り上げたが、ここでも手を差し伸べてくれたのが高田だった。

 「賢三さんも自身の事業に失敗し、苦しい時期でした。それでも、バスティーユの自宅を売却したお金で商業権を得るための資金を貸してくれ、銀行にも掛け合ってくれました」

 日本人がパリで商売することに対して、まだ風当たりが強かった時代。でも、世界的な知名度を誇る高田が保証人となってくれたおかげで、融資のめどが付いた。ここにも、どんな時でも我が子を見捨てない親のような高田の愛情がうかがえる。こうして、中山氏は晴れて自身の店「Restaurant TOYO」をパリに構えることができた。

 「いつだったか、その当時を振り返って『私がもっと景気がいい時に、助けてやれたらなぁ』と笑っていました。賢三さんのそうやってカッコつけないところが粋なんですよね」

 「師弟」であり、「親子」のようでもある。そんな強い絆を紡ぎながら、いつしか二人の間柄は、肝胆相照らす無二の「親友」になっていったようだ。

 「今年はコロナ禍でやめておいたのですが、毎年、賢三さんがバカンスから戻る直前には、彼の自宅にお邪魔して棚や冷蔵庫の整理をするんです。賞味期限切れの食材はないかなって」

 それだけ深い信頼関係で結ばれていたからこそ、中山氏も時には「親に言い返す息子のように」耳の痛い助言をすることもあった。

 「賢三さんはとにかく人がいいんです。ある時などは、安っぽくて美味しくもないワインのラベルのデザインを引き受けそうになっていた。『高田賢三がこんな仕事を受けちゃダメですよ』ときっぱり断るように言いました(笑)」

 晩年も、第一線のクリエーターとして走り続けた高田。2016年にはセブン&アイ・ホールディングスとコラボレーションした「SEPT PREMIERES by Kenzo Takada」を発表、2020年初頭にはホームウエア&ライフスタイルブランド「K3」を立ち上げるなど、精力的に創作活動を続けていた。

 「最後まで、丸くなる、落ち着くということがなかったですね。常に動き回っていました」

 一方の中山氏もパリの店を軌道に乗せ、2018年には「Restaurant TOYO Tokyo」をオープンして念願の東京進出を果たすなど、オーナーシェフとして順調なキャリアを築いていった。

 多忙な日々の中でも毎週のように、どちらからともなく電話をかけ合っていたという二人。一流のクリエーターとして互いを尊重し、心を許し合える間柄だった。

 「僕が日本店をオープンした時も、わざわざ駆けつけてくれました。若いスタッフが働く姿を見て『俺のところに初めて来た時はいくつだった?』『28でした』『若かったんだなぁ』なんて会話をしながら、笑い合ったのを憶えています」

■最後まで、粋でカッコよかった“賢三さん”

 「この間も、賢三さんの親友が亡くなって、そのパートナーを励ます会をパリの僕のお店で開いたばかり。とにかく、自分のことより人の心配をする人なんですよね」

 亡くなる直前まで、人を楽しませる、喜ばせることに夢中であり続けた――中山氏が語る高田のエピソードからは、彼の少年のような素顔が浮かび上がってくる。

 1970年代にはオートクチュール(高級注文服)からプレタポルテ(既製服)への新潮流を巻き起こし、フォークロア(民族衣装)・ファッションの生みの親としても知られる高田。

 彼がファッション界に遺した偉大な足跡は、「目の前の人を楽しませたい。元気にしたい」というプリミティブな人間性がもたらしたのかもしれない。その薫陶を受けた中山氏もまた、お店を訪れる人を舌で、目で楽しませるために、今日も厨房に立つ。

 「うちの店のスタッフにも、楽しませることに夢中になって、自由に発想できる料理人になってもらいたい。そして、後々有名になってくれたらうれしいですね」

 穏やかに笑う中山氏のまなざしは、かつて若き日の中山氏に向けられた高田のそれに重なって見える。そんな気がした。

 最後に、中山氏に尋ねてみた。天国に旅立った“賢三さん”に何と言ってあげたいですか? 

 「齢を重ねても過去の自慢話や武勇伝を一切言わず、むしろ失敗談をおもしろおかしく話すような人。最後まで、そんな粋でカッコいい賢三さんでした。一言、カッコよかったですよ! って言ってあげたいですね」

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最終更新:10/28(水) 13:11

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