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立花隆と考える、自然界との正しい向き合い方

9/20 6:21 配信

東洋経済オンライン

新興感染症の流行と相次ぐ異常気象。生態系への介入が引き起こす「自然の逆襲」が加速化している。私たちは自然とどのように付き合えばよいのか?  「知の巨人」立花隆氏は、デビュー作の中で「自然と折り合いをつけるために我々が学ぶべきものは、生態学(エコロジー)の思考技術だ」と投げかけている――。立花隆著『新装版 思考の技術』の一部を、再編集しお届けする。

 エコロジーとは何か。本稿では、「善悪」の問題を通して考えてみたい。善悪とは、別に倫理学の命題ではない。原理的に善とは何ぞや、悪とは何ぞやということを問題にしようというのでもない。

 自然界において、われわれが悪と呼び、善と呼んでいるものは、よく考えてみれば、たいへん恣意的な善悪でしかないということをいいたいのである。

 自然はあるがままにある。全体としての自然の中には善も悪もない。自然の一部を切り取ってきて、そこに一つの座標軸をはめ込む。善悪が生じてくるのは、その後である。

 人間は、人間に対して害を及ぼすものを悪と呼んでいる。むろん、人間は人間として生きつづけねばならないのだから、それは当然といえば当然である。しかし、問題なのは、何が人間に対して害を及ぼし、何が益をもたらすかを考察するときに、考察の範囲をあまりに狭く限定してしまっていることだ。

■害虫側からは人間はどう映るのか

 害虫ということばがある。人間に不快を及ぼす。人間の食物を食べてしまう。家畜、農作物の成長を阻害する。こういった生物は害虫であるといわれる。人間のためには害虫は有害無益の存在と考えられ、そこに害虫撲滅の思想が生まれる。

 ここで座標軸を人間の側から、害虫と呼ばれる生物の側に移して考えてみたらどうだろう。たちまち人間こそが“害獣”であるということになるだろう。

 自然にとっては、どちらも片寄った見方でしかない。人間と“害虫”との間の闘争は、自然を構成している無数の闘争の一つの形態にすぎない。自然はそうした闘争の限りない拮抗の上に成立している。

 そして、人間存在は自然の存在を前提にしているのであるから、巨視的に考えれば、害虫もまた人間に役立っているのである。

 害虫との戦いを放棄しろというのではない。戦うこと自体は自然である。すべての生物は敵を持ち、その敵と戦いつづける。しかし、その戦いが、相手の種族を全滅させるジェノサイドの段階まで推しすすめられるなら、これはもう自然に対する反逆である。害敵撲滅の思想は、生物界に持ちこまれたアウシュヴィッツの思想といってよい。

 かつての中国のスズメ撲滅運動の結果が、害虫の大発生による大凶作であったように、ジェノサイドは取り返しのつかない惨禍をもたらす。

 自然界において各生物がそれぞれに持っている害敵は、ミクロのレベルではいないほうがよい存在であるが、マクロのレベルではいなくては困るという弁証法的な存在である。害敵撲滅の思想は、ミクロのレベルでは正しい論理を、マクロのレベルにまで盲目的に押し広げることによって成立する。

 もし、絶対的に害のみをもたらし、悪のみを働くような存在があるなら、その存在を根絶やしにするのは正しい。しかし、善悪、害益が表裏一体になっている存在を抹殺してしまうのは正しくない。

■人間社会でも同じことがいえる

 これは自然界に限らない。人間社会においても同じことである。禁酒法が、飲酒による弊害を防ごうとして、いかなる禍(わざわい)を社会にもたらしてしまったかは、1920年代のアメリカ社会が証明している。また日本でも、売春防止法の成立当時、これはザル法であるから、売春を根絶することはできないと非難された。事実その通り、売春は完全になくなってはいない。しかし、むしろだからこそよかったのだともいえる。

 この法律がザル法でなく、もしほんとうに売春を撲滅してしまうものであったなら、一時的にそれに成功したとしても、その後なにが起こっていたか。おそらくそれは売春撲滅論者も決して望んではいなかったような事態であったにちがいない。

 人間社会に根絶すべき悪や悪人がはたして存在するのかどうか、これは疑問である。いかなる悪行や、悪人も、マクロの視点からは弁証法的に是認できる存在になっているのではないだろうか。悪を禁じ、悪行者を制裁するまではよいとして、それがジェノサイドにまでいきついたら、人間の人間に対する越権行為になるのではないだろうか。

 幸い多くの社会では、きわめて特殊な行為だけが、罪刑法定主義によって裁かれるだけである。しかし、歴史上にはときどき、偏狭な価値体系をもった厳格主義者が為政者として登場し、その価値体系を容認しないものを抹殺しようとする。

 ファナティックな宗教思想ないし、宗教的思想の持主が為政者になった場合には、ほとんど例外なくそうだった。古くは、キリスト教徒の抹殺をはかったローマの諸皇帝、あるいは新教徒を聖バルテルミーの日に虐殺したシャルル9世、近くは共産主義者と反共主義者とが方々で似たことをしている。

 人類史において、社会全体が価値体系について完全なコンセンサスを成立させた実例はない。おそらくそれは求めるほうが無理というものなのではあるまいか。倫理を考え抜いたカントが到達した結論は、倫理は形式においてしか成立しないということだった。それにもかかわらず個々人は、なんらかの価値体系を持たずにはいられない。そこで人は、自己の価値体系が個的であることに満足することを学ばねばならない。

■多様な価値体系を認めることが大切

 どこの企業でも、嫌われ者の管理職者がいる。例外なく、自己の価値体系の相対性を学ぶことができなかった人物である。10人の人間を管理する人物は、少なくも10通りの価値体系を是認していなければならない。古来、大人物の特性の一つとして“清濁あわせ呑む”ことがあげられている。いいかえれば、多様な価値体系を認めるということである。

 人類の自然への対し方をみていると、人間の価値体系を自然全体に押しつけようとし、まだ“清濁あわせ呑む”ことを学んでいないようだ。それなのに、この巨大な自然の管理者に成り上がろうとしている。このままいけば、嫌われ者の管理者となり、自然から総スカンを食うだろう。

東洋経済オンライン

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最終更新:9/20(日) 6:21

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