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日本が放置「戦争の民間被災者補償」が示す重み

8/15 8:11 配信

東洋経済オンライン

戦時中、空襲などで被害を受けた民間人には、何の補償もないのか――。そんな声を上げ続ける人たちがいる。日本政府はこれまで元軍人・軍属や遺族らに対して恩給や遺族年金などの補償・援護を続け、60兆円以上の巨費を支出してきた。一方、民間人には何の補償もされていない。多くの被災者が司法に救済を訴えてきたが、国民全体が何らかの被害に遭ったから国民全体で耐えなければいけないという「戦争被害受忍論」によって敗訴してきた。これは理不尽なのか、当然なのか。

■第2次世界大戦前、南洋諸島に多くの移民

 沖縄県うるま市に住む祖堅(そけん)秀子さん(82歳)は、「南洋戦訴訟」原告の1人だった。空襲や戦闘で犠牲になったり、ケガしたり、あるいは財産を失ったり。そうした戦争被害を何の補償もないまま受容すべきなのか。南洋戦訴訟はそうした「戦後補償裁判」の1つだったが、半年前の今年2月、最高裁で敗訴して終わった。今年は戦後75年。被害者はみんな高齢になり、南洋戦訴訟に続く戦後補償裁判は、もうないかもしれない。

 祖堅さんも「戦争を体験した私たちの老い先は短いんです」と語る。

 第1次世界大戦の後、日本は国連委任統治領という名目で、南に約2300キロ離れた南洋諸島を植民地にした。南洋庁を設置し、国策会社の「南洋興発株式会社」を設立。砂糖の大量生産を大々的に展開した。

 南洋諸島や台湾などから安価な砂糖が大量に入るようになったため、沖縄県に多いサトウキビ農家は困窮し、職を求めて南洋諸島に移住した。最大の移民先だったサイパン島では、1939年時点で邦人約2万4000人のうち7割の1万7000人が沖縄県出身者だったという。

 祖堅さんの父もそうした農家の1人だった。娘の秀子さんは1938年、サイパン島生まれ。秀子さんを含むきょうだい7人と両親とで穏やかな日々を過ごしていた。

 「父は農作業を終えたら、晩酌する前に、一緒に働いた6頭の牛にお酒をあげていました。一升瓶に卵を入れて振って。『ご苦労さんだったな』と。牛のおかげで仕事もできて、儲かっているんだからと。牛もコンコンと飲んでいました。その光景や父のやっていたことは全部覚えています」

 1943年夏ごろになると、穏やかな日々は明らかに遠のいた。アメリカ軍の空襲を想定した訓練が何度も続く。翌1944年6月には本物の空襲が始まり、同15日にはアメリカ軍がサイパン島に上陸してきた。祖堅さん一家は、島でいちばん高いタッポーチョ山の中を逃げ惑った。

 「6月のサイパンはとっても暑い。自分が『水が欲しい』と言ったもんだから、三男兄さんが水をくみに行こうとしてくれ、やかんを持った姿を今でも覚えています。それが最後。戻ってきませんでした」

 「父は、飛行場建設に駆り出されていました。その父と合流できた翌日の真昼、木陰であくびしていた母が(四女の)トミ子を背負ったまま後ろにひっくり返ったんですよ。糸を引いたように真っ赤な血がぴーっと。どこかから(弾の)破片が飛んできたのか……。母は最後に『(自分を置いて)ここから逃げる前に、自分を何かで覆ってくれ』と言っていました」

 サイパン戦はアメリカ軍の上陸からわずか3週間強で終結した。激戦の末、日本は敗北。戦没者は実に約5万5000人に達する。祖堅さんは父母を亡くし、きょうだいを亡くした。戦争が終わり、沖縄に引き揚げるときには、9人家族は3人になっていた。

■戦後補償に潜む「格差」

 サイパン島で逃げ回っていた日々から約70年後の2013年、南洋戦で肉親らを奪われた遺族たちが国に補償と謝罪を求めて「南洋戦訴訟」を起こした。原告の多くは当時、すでに80歳以上になっていた。

 第2次世界大戦時に民間人が受けた被害に関し、国に補償と謝罪を求める裁判は南洋戦訴訟の以前にもあった。名古屋空襲訴訟(提訴年1976年)、東京大空襲訴訟(1979年)、東京大空襲集団訴訟(2007年)、大阪空襲訴訟(2008年)、沖縄戦訴訟(2012年)。訴えを起こした原告団や弁護団の多くが問題にしたのは「元軍人・軍属」と「民間人」との“差別”的な扱いだ。

 政府は元軍人・軍属、その遺族には恩給などにより手厚く遇してきた。ピーク時の1983年度には1兆7000億円の当初予算が組まれている。直近の2020年度でも、予算額は1640億円になった。その一方で、広島と長崎の被爆者や沖縄戦遺族らを除き、政府は民間人への補償を実施してこなかった。日本弁護士連合会はその状況を問題視し、40年以上前から「法の下の平等に反するばかりでなく(中略)平和憲法の基本精神にも背く」として、政府に是正を要望してきた。

 各訴訟の原告団も「人の命に尊い命とそうでない命はない」と訴え、格差の是正を求めてきた。しかし、いずれの訴訟でも「国は不法行為責任を負わない」として、原告側が敗訴している。

 なぜ、訴えは認められなかったのか。端的に言えば、戦前の大日本帝国憲法下には国家賠償法(1947年制定)が存在しなかったから、戦時中に国の行為によって引き起こされた個人の損害について国は賠償責任を負わない、という「国家無答責」の法理がある。

 このため、一連の訴訟の先陣となった東京大空襲訴訟の東京地裁判決(1980年)も国家無答責の考え方に則って、司法判断による救済を退けた。そのうえで「戦争災害につき、国が何らかの支給をなすべきか否か等はすべて立法政策の問題」として、国による立法を暗に促している。ところが、民間戦災者への補償を定めた「戦時災害援護法」は1973年に議員立法で国会に提出され、15年間に14回審議されたにもかかわらず、いずれも廃案に終わるというありさまだった。

 祖堅さんたち約40人が原告になった「南洋戦訴訟」もこうした流れの中、最高裁判決で敗訴が確定した。上告棄却という最高裁の判断は、やはり国家無答責の原則を採用。二審の福岡高裁が示した「戦争被害は国民が等しく耐え忍ばねばならない」という受忍論を支持した。原告の中には、防空壕に潜んでいたのに日本軍に追い出され、肉親らが死亡したと訴える人もいたが、そうした面も顧みられなかった。

 海外では、民間戦災者への補償はどうなっているのだろうか。

 国立国会図書館がまとめた「戦後処理の残された課題」(2008年12月)によると、アメリカ、イギリス、フランス、ドイツの各国は「一般市民」への補償を法で定めている。執筆者の国会図書館職員は論文をこう締めくくっている。

 「一般市民の戦争被害について、諸外国の事例を参考にしつつ、その補償の在り方を考えることは、戦後処理の残された課題であると同時に、将来の有事における被害の補償の在り方にも示唆を与えるのではないかと思われる」

■「悪いことをやった、と認めてほしかった」

 戦後75年、南洋戦訴訟の敗訴確定から半年。この訴訟で弁護団長を務めた沖縄にルーツを持つ瑞慶山茂弁護士(千葉県弁護士会)は「私たちが訴訟を通じて何を訴えようとしていたのかを知ってもらうのは、とても大切なこと」と語る。

 サイパン島で家族の過半を失った祖堅さんは、次のように言った。

 「防衛庁(2007年に防衛省へ移行)で仕事していたこともあったので、裁判に参加するか、ずいぶん迷いました。それでも、国に『自分たちの過失でした』と責任を認めてほしいと思って、参加しました。悪いことをやった、と認めてほしかった。軍人だけでなく、私たちも同じ日本国民として平等に見てもらいたかった」

 「こんな恐ろしいことを二度と起こしてもらいたくありません。後世の子どもたちにも戦争の恐ろしさをちゃんと伝えておかないといけないです」

 取材:当銘寿夫=フロントラインプレス(Frontline Press)

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最終更新:8/15(土) 8:11

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